ついに悟りをひらく―七覚支瞑想法 (シリーズ自分づくり“釈迦の瞑想法” (4))

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  • 国書刊行会 (1997年9月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (150ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784336040350

ついに悟りをひらく―七覚支瞑想法 (シリーズ自分づくり“釈迦の瞑想法” (4))の感想・レビュー・書評

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  • 「知識や頭の良さだけでは本当の幸せを得られません!
    あなたの心に眠っている幸せエネルギーを喚起し、瞑想による未知なる世界をひらく脅威の知恵「七覚支」その方法を初めて公開する」
    と帯には書かれています。

    A スマナサーラの言葉によると、「悟りに至るには七つの部分があって、その七つをまとめたら、心の中で悟りが体験できる」という瞑想です。

    この七覚支というのはヴィパサナ瞑想を修行する人がどこまで進んでいるのか、いないのか、どこでバランスを崩して、どこに問題があるのか、瞑想のスランプをチェックし、抜けだすのにとても役立つのだそうです。

    つまり、お釈迦様が言っている超越した悟りという境地までいくには、ふつうのヴィパサナ瞑想法ではなかなか心は進化しないので、段階的に自分の心の状態や瞑想を確認する方法が必要であり、この教えは着実に行うための指南書とも言えそうです。

    この本で面白いと思ったのは、私たちが解脱するというのは、水に住む魚が陸上で生活するぐらいに進化を遂げる必要がある、という喩えです。

    つまり、それぐらいに難しいことで、瞑想はそのように人間が成長し、さらに進化を遂げるためのものである、という認識です。

    続きはこちら→http://ameblo.jp/aurasoma-unity/entry-11387429713.html

  • ヴィパッサナー瞑想は、ブッダ以来続けられた原始仏教の瞑想システムで、その技法は完成しきったものと言われる。ヴィパッサナーとは、あらゆる現象をありのままに観るという意味である。

    瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティーの訓練が中心になる。  

    スリランカ仏教界長老アルボムッレス・スマナラーサ長老の講話シリーズの一冊。悟りに至るには七つの部分があって、その七つによって、心の中で悟りが体験されるという、それが七覚支である。ヴィパッサナー瞑想は、この七覚支によって各々の段階がスムーズに進んでいくという。全体としてこの本を読むと、ヴィパッサナー瞑想が進んでいくと、こんな智慧が自然に生じてくるのだなと、ある意味で目安になる。七覚支とは次の七つである。

    1)念覚支、2)択法(ちゃくほう)覚支、3)精進覚支、4)喜の覚支、5)軽安覚支、6)定の覚支、7)捨の覚支

    それぞれについて、実践上の具体的な問題に触れながら詳しく語られていく。自分自身の瞑想の状態を思いながら読むと、あまりに道ははるかであることが分かるのだが、その具体的な記述によって、いろいろと励まさせる言葉も多い。

    1)念覚支(sathi-sambojjhanga) 
    悟りに至るための第一の部分は、念覚支。念とは、気づき、サティのことである。サティは悟りへのスタート地点であるという。今の瞬間に「気づく」ことで、物事のありのままの状態が経験的に見えてくる。これで悟りが始まる。

    2)択法(ちゃくほう)覚支(dhammavicaya-sambojjhanga)
    一番目がうまくいくと、この二番目が自然に出てくるという。サティが落ちついて充分に出来るようになると、いきなり「なるほど、こういうことなのか」と見えてくるものがある。たとえば、聞こうとする意識、音、音に伴い湧き起こる感情、そういうものが分離してはっきりと認識できるようになる。それが択法の意味だ。足をあげる動作ひとつにしても、意識と身体の動きの関係が日常の意識よりはるかにクリアに「分析的」に見えてくるようだ。

    たとえば「痛み」と観察をして、頭で分析するのではなく、「気づき」だけをしていると、自動的に瞬間的に「分析的に」に純粋な痛みと心による付加との違いが見えてくるのだという。いわゆる「行住坐臥」の四つをきちんとサティしていくと、やがて「身体という物質の働き」と「心という精神的な働き」の波は、しっかりと区別して認識できるようになる。心と身体の働きが別々にきれいに見えてくる。つまりナーマ・ルーパの区別である。おそらくこういう区別がはっきりと見えてくることが「あるがまま」を見るということの基礎に横たわっているのだろう。

    心と身体の働きが別々にはっきり見えてくるのが択法覚支だが、さらに一つ一つの現象が、前の現象と関係のない新しいものであるということがはっきりと見えてくるのだという。その智慧が現れるのが択法覚支だ。ふつう我々の行動は、個々の現象が連続性をもって認識されているが、この智慧が働きはじめると、前後の現象が個々別々に、強烈な差異をもって認識されるようになるというのだ。

    3)精進覚支(viriya-sambojjhanga)
    精進・努力すること。ただ努力といっても世間一般でいう頑張りとは違うという。真剣にサティをし、択法覚支の智慧が出てくると、自動的に精進が生まれてくる。厭離・離欲・涅槃・解脱へと導く「精進」に自然に進んでいく。

    4)喜の覚支(piti-sambojjhanga) 
    ピーティは喜び。苦しい精進が終わると、ピーティと呼ばれる喜びがやってくるという。精進の結果、無情や無我がよく見え、無常や輪廻を乗り越えようとしている自分も見える。世俗から自分が離れていくという確信が生まれる。脱世間へと移行しようとしている自分への確信。

    5)軽安覚支(passaddhi-sambojjhanga)
    精進を超えてピーティが生まれると、いままであった激しさがぜんぶ静かに落ち着いしまう。その過程で軽安という覚支が生まれる。軽安の段階では、もう楽に修行ができる。心や身体が非常に軽くなる。体重も感じないほどに軽くなるという。  

    6)定の覚支(samadhi-sambojjhanga)
    次にサマーディという心の統一が生まれる。一つの現象をとことん確認できる状態。腹の「膨らみ」を確認すると、膨らみのなかにそのままいられる。膨らみ、縮みといっしょに自分も意識できる。意識は、ひとつの対象に留まり、逃げていかない。

    7)捨の覚支(upekkha-sambojjhanga)
    何ごとにも動じない、揺れない、左右されない。無常、無我、夢のごとき世の中で、すべてのものを落ち着いて、冷静に観察できる。静かな状態に自分を置くことができる。

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