運命ではなく

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制作 : Imre Kert´esz  岩崎 悦子 
  • 国書刊行会 (2003年7月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (293ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784336045201

運命ではなくの感想・レビュー・書評

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  • 主人公の少年は強制収容所から解放され後に「苦悩と苦悩の間には、幸福に似た何かがあった」と回想した。同じことをソルジェニツインが『イワン・デニーソヴィチの一日』で語っている。どんな過酷な境遇にあっても、希望を失わないことが生還に結びついた、そのことを物語っているように思う。だから、少年はこうも述べている。「もしすべてが運命でしかないなら、自由などありえない、その逆に、もし自由というものがあるなら、運命はないのだ。」自分の人生は自分で切り拓いて行くしかないのだと、改めて思うのでした。

  • 収容所から生還し、2002年にノーベル文学賞を受賞したケルテースはその著の中で、姉との会話の想い出を語っている。姉も、そもそもユダヤ人とは何なのかがよくわかんらないから、それを考えていたのだと打ち明けた。宗教のせいに決まっているという人もいたが、そんなの誰でも知っているわけよ、と言った。でも姉は、宗教ではなく、「ユダヤ人であるということはどういうことか」に関心があるのだ。どうして憎まれるのか、その理由を知らなくちゃいけない、と話した。そして彼女は最初は何が何だかわけがわからず、「ただユダヤ人であるだけで」軽蔑されるのがとっても悲しかったと語った。そしてその時初めて、何かが彼女を人々から分け隔てていて、自分がその人達とは別の場所に属しているのだと感じた。それ以来、彼女はいろいろ考えはじめ、本を読んだり、人と話したりして、その根拠を見つけようとした。そしてようやく、どうして憎まれるのかがわかった。すなわち、彼女によると、「私たちユダヤ人は、他の人たちと異なる存在」であり、本質的に違うがあるからこそ人々はユダヤ人を憎むのだ、というのだ。その「違いを意識しながら」生きるのは特別なことで、ある時には一種の誇りを、別の時には何か恥ずかしいようなものを感じるとも言った。他の人々と違うということを、僕たちがどう思っているのか知りたがり、僕たちがそれを誇りと思うのか、それともどちらかと言うと、恥ずかしく思っているのか訊ねるのだった。僕もそれまでそんな感情を感じたことがなかった。それにそんなふうに、人と違うなんて自分では決められない。結局、僕の知る限り、だからこそ黄色い星は役に立つのだ。そう彼女に行っても見た。でも彼女は意地をはって、違いは「自分自身の中にある」と言うのだった。でも僕に言わせれば、黄色い星をつけていることの方が本質的なことなのだ。それについて僕たちは長い間意見を戦わせたけれど、自分でもどうしてそんなにむきになったのかはわからない。だって本音を言うと、そんなことはたいして重要なことじゃないと思っていたのだろうから。

  • この作品の真価は、異常事態である収容所生活と普通の市井の生活が連続しているかのトーンで描かれることか。あまりに淡々としているし、子供の成長物語でもない。このセンスは結構衝撃的です。
    しかし訳がなぁ、、、あとがきで原文の言い回しのくどさに言及しとるが、それって訳者としての職務放棄じゃないか?と思ったりする。そのままってどうやねん?って突っ込みたくなる。それ位訳文の「酷さ」が目についてちょっと残念。
    それにしてもこの本、何で買ったのかな?その昔。内容は覚えていなくとも買った事実だけは結構覚えとるんですが、この本の経緯はまったく覚えとらんです、、、

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  • 『そして人々はひっきりなしに「どう思う? どう思う?」とお互いに訊ね合った。けれども答えは沈黙か、いつもきまって「恐ろしい」であった。でも、この言葉は、アウシュヴィッツの特徴を正確に表す言葉ではなかったし、それが体験したことでもなかった』

    『人には他人に侵されることのない、自分だけの領域を持つという、生まれながらにしてそなわった性質があるということを僕は学んだ。それは想像する、ということであり、囚人生活でもそれだけは自由であることは、真実である』

    先の見通せないことに由来する恐怖を過剰に意識しないでいること、それが可能であるためには何が必要だろうか。たとえば「夜と霧」の中で示されたものは、強い意志の力であると自分は思うけれど、それは恐怖を意識しつつ理性を総動員して耐える構図を前提としていないだろうか。極端に言えば、自分自身を哲学的な研究の課題にまで切り離してしまうような、冷めた視線を必要とする方法であると言うことができる気がする。あくまでも恐怖はそこに、すぐ隣に、存在する。その気配は感じながらそれを拒絶する。それは逆説的に言えば先を見通した視点を常にヴィクトル・E・フランクルが持っていたともいうことができるだろう。しかし本書にはそんな誰しもが感じて然るべきの恐怖が欠落しているように見えるのである。

    ケルテース・イムレの「運命ではなく」も、ナチスによる強制収容所を生き延びてきた作家がその日々を描いた作品ではある。しかし、読んで解るように、これを単に自伝と呼んでしまうことには違和感を誰しも覚えるだろう。そこに作家が体験した筈の締め付けられるような恐怖が描かれている訳ではないと言ってよいと思う。あるのはただただ先の見通せなさだけなのである。

    今日という日、今という時をどのようにやり過ごしていたのか、それだけが淡々と語られる。主人公が語るモノローグは過去の事実を語っているようでもあり、自分自身を三人称的にとらえて物語を語っているようでもある。だから、次の頁をめくった先で主人公である少年が死に、そんな風に僕は死んだ、とモノローグが続くのではないかと、読むものを身構えさせるような文章でもある。そしてこの感情が極端に抑えられた文章を読み進める内に、この文体こそ当時その状況に置かれた人々の真の姿を描き出すのに必要なものなのだ、という感慨を強くする。誰も解ったような気になってはいけないのだ、というメッセージが静かに、だが強烈に訴えられる。

    運命に翻弄される。そんな風に自分自身を歴史の中から切り離してしまうことを作家は強く拒絶する。訳の解らない状況に一つずつ対応してきた自分をまっすぐにに受け止める。結果を先取りして訳知り顔に解説したりしない。あるのは、飽くまで個に帰着する事実。その事実を通して、徐々に、作家が宗教や人種にかかわらず全体主義的なものに強く違和感を覚えていることが浮き彫りとなってくる。決して選び取った運命ではないと承知はしている。しかし人生の岐路を、そうとは知らずに通り過ぎ生き延びてきたことに対する実感は忘れない。決して翻弄されていただけではなく、意思を持って生きてきたことを作家は強く主張する。

    翻弄されるという感覚が、全体主義の波に迎合しておいて後から自分の為した行いに目をつぶる時の居心地の悪さを取り繕うものと裏返しにしたものであると、作家は静かに凶弾しているように自分には思えてならない。

  • ナチスの強制収容所を生き抜いたユダヤ人の14歳少年の話。

    ハンガリーのノーベル文学賞作家であるケルテースの処女作。

    ホロコースト文学は私的には初めて(だと思う)。少年の一人称(時には一人称複数)で淡々と語られる強制収容所での生活。終章で新聞記者が言うような「地獄」ではない。もちろん、日常的な暴力により、少年の精神は摩滅し、感情や感覚、生きる気力みたいなのは失われていく。しかし、年齢を偽りガス室行きを逃れる部分があるものの、その他の部分ではナチスの強制収容所も他国のそれとも同じようなものかと思った。他のホロコースト文学を読んだことがないけれど、本作品は異色なのではないだろうか。

    少年は収容所から解放されて、次のようにいう。「僕たちには、当然、乗り越えられないような不可能なことはないし、僕の行く道には何か避けられないわなや幸せが僕を待ち伏せしていることももうわかっている。だって、まだあそこ(アウシュビッツ:引用者注)にいた時ですら、煙突のそば(ガス室と焼却場の煙突のこと:引用者注)にだって、苦悩と苦悩の間には、幸福に似た何かがあったのだから(P277)」人間はしぶとい。

    ☆x3.5

  • 著者は2002年度ノーベル文学賞受賞作家。自らのホロコーストを生き延びた体験を書いた自伝。

  • (2010.01.30読了)
    「本書は、2002年ノーベル文学賞を受賞したハンガリーの作家、ケルテース・イムレの小説、Sorstalansag(「運命ではなく」1975年)の邦訳である。」(279頁)

    ノーベル文学賞が発表になると、amazonでその作家の作品を検索し、まだ翻訳されたものがないか、翻訳されていても絶版だったら、それで終わり。図書館を利用していれば、図書館で検索してみて、あれば予約して読む。
    2009年のノーベル文学賞受賞者ヘルタ・ミュラーの「狙われたキツネ」は、そうして読みました。
    「運命ではなく」は、受賞後、半年以上たってから翻訳・出版された本なので知りませんでした。先日読んだ、野崎歓著「こどもたちは知っている」の中で紹介されていたので知りました。図書館にあったので借りてきて読んでみました。

    「あとがき」に上手に内容が紹介してありますので、引用しておきます。
    「この作品は作者の体験をもとに、自伝の形をとった小説である。ブダペシュトに住むケヴェシュ・ジェルジュという少年の目で、時間の流れに沿って、一人称で書かれている。主人公14歳、1944年の春ごろから1年半ほどの出来事である。
    父親が労働キャンプに行く前日の場面から物語は始まる。少年は数ヵ月後、工場に勤労奉仕の仕事に行く途中のバスから降ろされ、その後、ドイツでの労働の募集に応募し、まずアウシュヴィッツに到着する。そこからドイツのブーヘンヴァルトを経て、最終的にツァイツの強制収容所に収容され、囚人として働き始める。やがて病のせいでブーヘンヴァルトに送り返され、幸運にも病棟に入り、そこで解放を迎えた。戻ってきたブダペシュトで再開した隣人たちから、父親はオーストリアのマウトハウゼンの収容所で亡くなり、継母はすでに再婚しているが、実母が元気であることを知らされ、母親の家に向かう場面で物語は終わっている。」(281頁)
    ユダヤ人の少年の強制収容所体験が描かれた文学作品ということになります。
    悲惨な状況が描かれているにもかかわらず、実に淡々と記述されているという印象です。
    収容所について、働ける人とそうでない人に選別されるとき、受け入れのために働いているユダヤ人から、14歳ではなく、16歳と言え!とアドバイスされ、働く方に回され、アウシュヴィッツを抜け出し、労働しながらも、栄養不足のため、病になるが、看護人に助けられ、生き延びることができた。どこかで、何かが少し違っただけで、死へと向かったであろうが、どうしてか生き伸びた。

    ●ユダヤ人の運命(21頁)
    ユダヤ人の運命とは「数千年にわたる絶え間ない迫害」のことだった。かつて犯した罪のせいで、神がユダヤ人の上に与えたのだから、ユダヤ人はそれを「平常心と、献身的な忍耐で受け止めなければならない」、罪が罪だけに、慈悲もまた神からしか期待できないし、その時が来るまで、この厳し状況で全員が、神が定めた場所で「我々の力と能力に応じて」耐えることを、神は僕たちに期待している。
    ●空腹(170頁)
    僕が木や鉄や砂利を食べなかったのは、ただ噛み砕くことや、消化ができないものだったからだ。でも、たとえば砂なんかは食べたことがあったし、草を見かけたら、まったくためらわずに口に入れた。
    (2010年2月1日・記)

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