悪名の棺笹川良一伝

著者 :
  • 幻冬舎
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感想 : 53
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  • Amazon.co.jp ・本 (415ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344019027

感想・レビュー・書評

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  • 笹川良一といえばA級戦犯でギャンブルの胴元。一日一善のおじさん。そんなイメージしかありませんでした。
    読み進んでいくと、そのイメージはガラガラと崩れていきます。
    まだまだボランティア活動に対して偏見がある日本。「売名行為」と言う言葉で片付けてしまうのはいかがなものか。
    誰かに援助してもらって活動するのではなく、自分で稼いだお金で活動する。人に何か言われる必要があるものか。
    もちろん強引さ、その強さがときに人の反感を買ってしまったのでしょう。しかし信念を貫いた人。肝の据わり方が違います。
    そりゃあ、女性がほっとかないよね。数々の女性遍歴も妙に納得してしまいました。

  • 「ファシスト」「日本の黒幕」といわれた悪名高き笹川良一の生涯について書かれた本。笹川良一が日本で悪者と思われていたのは、左翼やマスコミを代表する進歩的文化人によって、悪名のレッテルを貼られたからであって、真実は、多額の収益金や私費を投じて社会福祉事業を行っていた慈善家であったことがよくわかった。十分な聞き取りや関連資料を丹念に調べ、笹川良一の人物像を的確に描いた名著だと思う。印象的な箇所を記す。
    「笹川良一は晩年に、福祉事業に大きな貢献をした。図らずもモンゴルの奥地で私はその事実を目の当たりにもした。やがて笹川は私財を投じて世界中の貧しい子供や病人の救済活動をしていたと知った。何度か笹川の名前を聞くようになった。いずれも世界の僻地にまで救済の手を差し延べた功績を称えるものだった。それだけ慈善事業に打ち込んだ人が、なぜこれほどの酷評に晒されたのか。笹川が日本の社会では、まるで戦後の悪の象徴のようにマスメディアから呼ばれた理由はどこにあるのか。日本と外国での笹川に対する評価の落差の大きさが不思議だった」
    「日本という国に、これだけの濃度で密着して生き抜いた人物は、珍しいと思った。彼の体内には炎のような生命力が溢れ、それが流れる血であり、その身体を支える骨肉であった。だからこそ日本の社会において笹川はあれほどの誹謗中傷に晒されたともいえる。あまりにも激しく己の意思を貫き通した上に、理想を実現するツールを手にしていた。ツールとは彼が産み出した巨万の富だった。常人の能力をはるかに超える財力を身につける天賦の才があった」「「和尚はん、良一をどうか厳しゅうに躾けてもらえまへんやろか」(正念寺和尚)「それは殺してもええ言いはるのやな」テルが即座に気丈な返事をした。「そうでおます。この子はわてらの子や思うてはいまへん。どうぞ、世のため人のためになるような子に遠慮のう躾けておくんなはれ。殺して死ぬような子なら、神様、仏様の授かりもあらしまへん。どうぞあんじょうよろしゅうに頼みます」」
    「笹川良一が他の多くの右翼とひときわ異なっていたのはとりわけその経済力であった。さらに笹川の特徴は一切の公的役職、つまり権力の座に座らないことだった。航空機への関心は昭和7年5月20日、民間パイロットの育成を目的とした国粋義勇飛行隊結成へと進む。もちろん笹川本人が隊長で、自前の飛行機を20機持った。「いかに優秀なる精神気力旺盛にして、勇猛果敢なる戦士といえども、近代的軍事装備の前には一たまりもないことは、最近の幾多の戦争が証明している」一見、精神主義にみえるかもしれないが、竹槍でB29の爆撃に立ち向かおうとするような非科学的な面は微塵も持ち合わせていなかった。笹川は、科学を重んじた点で、並の右翼とは一線を画していた」
    「彼(山本五十六)が海軍次官の時、僕は独伊両国に旅行した。大和号と呼ぶ飛行機の往復であったがその飛行機は彼の自慢のもので、嵐の南京渡洋爆撃に使用した双発の爆撃機であった。1、2機を大日本航空株式会社が払い下げを受け旅客機に改装したのであった。世人は僕の独伊訪問が、日独伊軍事同盟締結促進のための民間使節であると解釈し、新聞等もそんな風の報道をしていたが、事実は親友山本の僕に対する深い友情から出発した企画の表れであった(笹川は、イタリアでムッソリーニと会談し、ムッソリーニ首相の隣に並んで撮った記念写真が残されている)」
    「笹川の資金はすべて米相場をはじめ、先物取引や株、鉱山経営などで得たものである」
    「普通の家庭なら、父親が一緒のときには母親が一品くらいは余計に並べるものだが、この家では逆だった。「今夜はね、お父様が来られるから、おかずはメザシよ」」
    「だいたいは奥様とお二人でお入りのことが多かったので、水は常に決められた線までしか入れませんでした。最初は知らないでいっぱい入れたら、『キミ、ちょっと来なさい。溢れたらもったいないでしょ、半分でいいんだ』っておっしゃられて。私の時代にはお風呂はタイルになっていまして、お二人でちょうどいいのはタイルの上から6枚目までなんです。うっかりして多いときには急いでバケツで洗濯機の中に移しましてね」
    「「お前(笹川陽平)、便所で紙を何枚使っているんだ」と聞かれたので、「4、5枚ですが、何か」これがいけなかった。「そういう無駄なことはするな。世界には紙じゃなくて手で拭く民族だっているんだから、1枚を半分にしてケツを拭き、残りの半分を鼻紙に使え」
    「「たまにはお父さん、子供たちにおいしいものも食べさせたいわね」などと言おうものなら大変である。「ナニをぬかすか。早死にしたければ食え。長生きしたけりゃ粗食が一番だ」家族からすれば、吝嗇家(りんしょくか)にみえたであろう」
    「敗戦時に、児玉(誉士夫)機関の財産は当時の金で約32億円、さらに朝鮮銀行に580万円の預金、海軍に納入した物資の総額は35億円に達するといわれている。それらはすべて終戦時に中国に没収されたが、直前、飛行機2機に満載して日本へ持ち帰ったものがあった。金の延べ棒、プラチナ、ダイヤなどと現金である。飛行機の脚があまりの重さに片方折れた、という逸話が残っている」
    「東条のところを辞して、何の用事かと星野の部屋へ顔を出すと、「失礼ですが笹川さん。あなたのところも大勢人を抱えていて大変でしょうから、これは些少ですが、用意してありますので」星野が、分厚い封筒を笹川の前に差し出した。「冗談言うな!」と笹川は顔色を変えた。「おれはね、人から金をもらったことはないんだ。人に金をやる方じゃ。自慢じゃないが、金庫の中にはいつも50万や100万の金を入れとる男や。見そこなうな、このバカ野郎めが」すごい剣幕に驚く星野をしり目に笹川は、部屋を出た」
    「(戦後の笹川演説)日本が生きるためには食料を作るか、貿易をやってその利益で食料を獲得するかの二者択一しかない。その二つの道を塞いだのはいったい誰なのだ(米国のことをいっている)。日本人が朝鮮や満州のどこで搾取したか?日本人が出て行ったところで、以前より生活が苦しくなったところが、どこにあったか?」
    「世界は一家 人類みな兄弟という考え方の基礎を固めたのは、40年前(昭和60年時)巣鴨プリズン入獄直後である。そんな荒廃した風景の中で、私はハタと思った。人間が生きるために必要なのは、最低の食料と水と空気だ。私の悲願は、この地球上から戦争と貧困と病気、不平等を追放するところにある。今目の前にある重要課題は、ハンセン病の撲滅だ」
    「生活支援を受けた地方の留守家族や、モンテンルパなど海外からも多くの礼状が届き、笹川家には3000通以上も残されていた。この手紙を読めば、笹川の活動がいかに個人的善意からのみ発していたかがよくわかる」
    「それにつけても「笹川良一」が戦後、A級戦犯、ファシスト、バクチの胴元、黒幕等、知識人と称する人々の攻撃の対象になったことは不思議なことである(笹川陽平言)」
    「(大西一)笹川氏は拘禁中絶えず若い人々と親しく話を交わし、暖かい同情と力強い指導により激励し、心に一つのより所を与えられたことは、我々の忘れることの出来ない思い出である。また当時多くの者が、米当局に対しとかく引っ込みがちであった時、氏は堂々と言うべきは言い、要求すべきは誰はばからず要求し、知る人をして、「さすが一党の総裁たりし人よ」と感嘆せしめた次第である」
    「(昭和31年秋)笹川57歳、テル80歳だった。病に倒れる前とはいえ、テルが金毘羅神社の石段を上るのは到底不可能だったので、笹川はテルを背負って上った。なにしろ785段もある。このときの母子の姿を「孝子像」と名付けて銅像にし、のちに故郷の春日神社や東京三田の笹川記念館前など各所に飾った」
    「それら社会福祉への原資が、株や商品取引で儲けたポケットマネーにとどまらず、モーターボート競走開催によって得た交付金にあることは事実だ。その資金があったからこそ、笹川が獄中慰問の際に語った「あなた方が「捨て小舟」であってはいかん」という言葉に重みがあり、裏づけが担保されたのだ」
    「小石川の家は大きいとはいえ、雨漏りさえし始めているような古い代物を買ったのだ。雨が降れば金だらいやバケツが並ぶのは当たり前の光景だった。それでも本人は平気なのだ。「雨漏りで死んだ奴はいないから心配するな」が口癖だった」
    「笹川が大きな声で「よーい!」と叫んだ。誰もが号砲一発、続いて歓声が沸き起こるものと思った刹那、ピストルからは「カチッ」という小さな音が漏れただけだった。すぐ脇にいた主催者たちは思わず心臓が止まる思いだったに違いない。空砲だったのだ。だが、笹川本人は少しもあわてず騒がず泰然自若、1秒の間も置かず、「ドン!」と大きな声を上げるや、両手を「バチッ」とばかりに打ち合わせた。選手総員がその瞬間にスタートを切って、会場からは大喝采が起こったのだった」

  • 実はイイ人だったのか。やはりマスコミのいうことを鵜呑みにしてはいけない。
    それにしても、子供の頃のCMが忘れられない。

  • なんというか、自分に正直でありスケールのでかい人である。白洲次郎、吉田茂といい、この時代の金持ちはでかい人が多い。それにしてもメディアの扱い方は鵜呑みにしないように心がけねばならないと感じる例が最近多いと感じる。

  • 新聞の広告でタイトルを見た時は、ドロドロした内容を想像したけれど、それはまさに世間のつくった笹川のイメージだった。戦前の右翼活動にしても、実際はそれほど極端でもなかったし、それよりも、ケチっぷりを始めとする笹川氏の信条、遺族会や慈善活動への思い入れ、多くの女性達との関係などが興味深く、読後、素顔は意外とチャーミングなおじいちゃんだったのでは?と思わせられた。

  •  ステレオ・タイプな見方を切り崩した。その点は素晴らしい。極端な性格であることも、よく描かれている。
     彼が世間の批判に対して、馬耳東風のスタンスを取れたことの豊かさ。
     ただ、もう少し何か隠されていないか?そんな興味も湧く。

     
     

  • 我が世代にとっては、♪戸締り用心火の用心の歌とともに「一日一膳」を唱える日本船舶振興会のじいさんである。右翼、ドン、フィクサー、A級戦犯、胴元。常にそうした言葉がまとわりつくから、表は慈善事業家ながら裏は日本の黒幕であろうと思ってきた。ところが、元より裕福な家庭に育ち、カネは貯めずに惜しげもなく人のために使う。厳しい母のしつけを守り、日常生活は過ぎるほどの倹約で、粗食だし風呂の水は半分しか溜めない。他人に裏切られようとも、よくもそこまで堪えられるなと呆れるほど恨みを表さない。

  • 凄まじい人生‼この言葉に尽きる。
    明治から昭和の時代の豪傑は、男としての魅力がたっぷり漂う。
    大胆かつ、まめさを兼ね備えている。
    人生にひとつ筋の通った男の生き様は、感動を覚えた。

  • 何か昔CM出てたなーくらいの記憶しかないボートのおっちゃん(失礼・・・

    読み終わって。へー。すごいやん。

    今こういう豪快な人いないなぁ。時代かね。

  • 純粋におもしろいでしょ。あれだけ功をなした人が、愛人と赤ちゃん言葉で会話するなんて、爆笑もんだよ。いろいろ批判があると思うよ。左翼じみた人は、フィクサー、右翼の側面が薄いと言うだろうし。ただ、そういう世間を跋扈する負のイメージばかりではない、と言いたいわけでしょ。筆者は。そういう意味では、成功だし、意味ある本だよ。負の面が見たいなら、そういう本、記事を読んで留飲をさげればいいじゃん。問題はリテラシーやな。読む側の。

著者プロフィール

工藤美代子(くどう・みよこ)
昭和25(1950)年東京生まれ。ノンフィクション作家。旧チェコスロヴァキア・カレル大学を経て、同48年からカナダに移住し、バンクーバーのコロンビア・カレッジ卒業。『工藤写真館の昭和』で第13回講談社ノンフィクション賞受賞。そのほか『国母の気品 貞明皇后の生涯』『香淳皇后と激動の昭和』『美智子皇后の真実』『美智子さま その勁き声』など著書多数。

「2021年 『女性皇族の結婚とは何か』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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