- Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344423213
作品紹介・あらすじ
可愛くないけどモテたいし、頭の中はエロい妄想でいっぱい。絶望と欲望の狭間で、私は「女をこじらせ」、気がつけば職業・AVライターに。過剰な自意識と恋愛欲と性欲のせいで、坊主にしたり、サブカルにかぶれたり、親友の彼氏で処女を捨てたり…。それでも「女」はやめられない!コンプレックスを吹き飛ばす力をくれる自伝的エッセイ。
感想・レビュー・書評
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雨宮さんの血と肉と魂で書かれた本だった。
途中まで私の本かと思った。私かよ、と思った。
雨宮さんとは違う形で私は女子をこじらせていた。
私はヒエラルキーでも真ん中辺にずっといたのに、うまいことやってきたはずなのに、男から愛されず、でも平気なふりをして生きてきて、はたちの頃に壊れてしまった。
人間は自分の思考と行動が矛盾し、限界のところまでくると、心ではなく体がこれ以上嘘を重ねるな、休めとストップをかけるのだなと妙に納得した。
一度休んでまた歩き始めても、また自己矛盾にぶつかり、それを徹底的に考え込み悩みぬき、「私が悪い」という結論に落ち着き、治りかけたかさぶたをはがしては血を流し乾ききらぬ内に傷をえぐっていた。痛いな。イタイ。
そんな私を誰が愛してくれるだろうか、とまた納得する。堂々めぐりで救いがないね。
私は雨宮さんのように「これしかない」というものがないから、雨宮さんほど這い上がる力がなかったけれど、今なんとかこうして生きていて、なんとかやっている。
形はちがえど私みたいな人が他にもいたんだなと思うとほっとしてしまう。世の中にどれくらいこういう人がいるんだろうか。その人たちはどうやって今を生きているんだろうか。
恋愛をするということは、汚い自分を引き受けることです。まったく汚いところのない恋愛なんて、ない。どこかに必ず汚い自分の影が現れる。そのことを知らずに、自分は童貞だ処女だと、恋愛している人間を恨んだり憎んだりするのは、浅い考えです。汚い自分を他人に見られ、知られ、そういう自分に自分で気づくことは、何も知らずにいるよりずっときつい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
なんて気高く上品な文章だろうと思う。
こんなに真剣に自らの性と欲望に向き合った人を
私は他に知らない。
その情熱をその真面目さを、
他のものに注げばよかったのに、と
思う部分もあるけれど、
この世界だからこそ、
貴重な一石を投じられたのかもしれないとも思う。
性や恋愛に悩む多くの男性・女性、
そして、思春期の子どもたちに、
この本を読んで欲しいと思う。
* * *
装丁はよくない。
AVの世界について描かれているからといって、
エロい表紙にする必要はない。
それをすることによって、
この本は読まれるべき人から門前払いされてしまうのではないか。
まったくポルノと遠そうな表紙にして欲しかった。
だってこの本は、性をもてあそぶ本ではないから。 -
ネットのニュースでフリーのライターが亡くなったという記事を読み、雨宮まみを、初めて知った。
こじらせ女子、という言葉も、初めて聞いた。
自殺か?
またはオーバードーズの事故死か?
強い酒飲んで、向精神薬も多量に飲んで、自殺ともオーバードーズの事故死とも、どっちとも判断しにくい状況に意図的にしたのかもしれない。
図書館で最初に『自信の無い部屋へようこそ』を借りて読んだんだけど、コレ読むと、ふつーの、どこにでもいる女の人の感覚だった。
でも、こちらのエッセイは、たしかに「こじらせてる」感がすごい。
女で、ここまで本当のことが言えるって、リッパだ。
でも、それだけに、生きるのがたいへんだったんだろうなあって思う。
この本を読んで、逆に、死なずにすんだこじらせ女子もいるんじゃない?
彼女は死んでしまったけれど、誰かの命を救ったのかもしれない一冊だ。 -
著者の雨宮まみさんは、かつて「巨乳じゃないとセックスしてもらえない」と思い込んでいたという。
雨宮さんは、世間一般的にみて美人だし仕事も認められてじゅうぶん恵まれているはずなのに、満たされず自己否定がやまない。
二股も浮気もしない、自分のことを大事にしてくれる彼氏ができても、幸せどころか「こんなことは二度とない」と怖くてたまらなくなるという。
雨宮さん自身「内面がダメ。心が喪女から逃れられない」とおっしゃっていたけど、自縄自縛に陥ってしまっているな、と思った。
学生時代にスクールカースト底辺で青春できなかったこと、すぐに自分のことでいっぱいいっぱいになって余裕がなくなること、雨宮さんと自分に共通点をみつけてシンパシーを感じてしまった。
文章を読んでいると雨宮さんの根は真面目な性格が伝わってくるので、幸せになって欲しいと切に願った。
残念ながら40歳という若さで急逝された雨宮さん。
本書の最後では希望を見出されているようだった。
以下は引用↓
『「やりたいことをやる」なんて、すごい才能のある人にしか許されていないことのように思っていましたが、べつに自分がやったっていいわけです。何か選択肢が目の前に現れたら、自分が楽しそうだと思うほうを取ろう、選択肢がなかったら自分がいいと思う方向に進もう』
↑引用ここまで。
この本を読んで思ったことは、たとえ何者でなくても「私は私である」ことを肯定しよう。
こんな私でも、家族や友人、私を愛してくれる人はいる。
その人たちのためにも、自分を卑下するのはやめよう。
「私はどうしたいのか」これが一番大事。
雨宮まみさんのご冥福をお祈りします。 -
わたしとは違う。
でも、わかるところがたくさんある。
違うところから自分のことが分かってくる。
そういう本だった。
幸か不幸か、中高は女子校だったので、雨宮さんとは逆で自分の女子としての評価みたいなものに身をさらさないで思春期を過ごしてた。
でも、その反動がすごかったね、大学入ったら男の子たくさんいて、しかも自分はやり方すら分からないメイクとかナチュラルに楽しめてる女子が当たり前にいて、たしかにあの頃は自分は女子として劣っているとなんか思っていたような気がする。
そしてそれは、自分の中で形を変えて、今もあるなとこの本を読んで少し気づけた。
そうか、私もこじらせてたのだ。
最近は自分で色々と考えていたことがあって。
雨宮さんも書いていたけど、これは本当に真実だと思う。
文章にすると、当たり前によく見る文章になっちゃうんだけど、自分の評価を他人にしてもらうことをゴールにしたくないということ。
ここでいう他人っていうのは、社会って意味も含まれる。
自分の評価を他人に預けるというのは、結局、成功を目標にするっていうことなんだと思う。
何かをすることは、そのことをしたいからすることじゃなくて、全てが何かのためにするということになってしまう。
そうすると、失敗したらいけないとか、うまくいかなきゃいけないってことばかりに気持ちがいってしまって、こわくなってしまうのだ。
これの怖いのは、一見自分の目標に見えちゃうところ。
でもその裏に成功したいという気持ちがあるときは、成功の基準を社会の中でと考えてる時は実は自分のほんとの目標じゃないんじゃないかなと思うのだ。
誰かが良いと思うこと、そんなの本当は分かるわけなくて、一般化なんてできないはずのものなのに、でも自分でそれを勝手に一般化して自分の中に取り込んでしまう。
それに比べて自分はできてないと思ってしまい、ひいてはそれは自分が劣っているからだと考えるようになる。
雨宮さんが、階段を昇ることがゴールじゃなくて、映画や小説じゃないんだから、人生にゴールもないしと書いていたのは本当にだから、そうだと思う。他人がどう思うかなんて分かんないし、未来の自分がどう思うかすら、今の私には分からないのだ。
だったらそのときそのとき、自分のしたいことを一生懸命やって、好きな人に試行錯誤アプローチして、会いたい友だちに連絡とって、そうやってやっていけばいいんだって思う。
生きるのが最近楽しいと書いてあって、思わず胸が詰まった。
雨宮さん、屍を越えていけなんて言っていて、比喩じゃなくなっちゃってるじゃん!ってつっこんでしまう。
もしなんてあれだけど、もしまだ雨宮さんが生きてたら、40代にきっといつかなっていく私たちへのエールをまた書いてくれただろうか。
そんなことを考えてしまう。
でもこの本を読んだから、小さい雨宮さんが自分のハートの中にいるんだと思おう。
越えるんじゃなくて、一緒にいてもらおうと思う。 -
地方でサブカル趣味をこじらせた少女が、やがて上京し、大学生活を送り、(なぜか)エロ本編集者、AVライターなどを経て、全身傷だらけになりながら、自己にかけられた呪いから自由になっていくプロセスを記述している。
正直に言って、男の僕には、この本についてわかったような感想を書くことはできない。それらしい分析的なことは言えるだろうが、しかしそんなことでは、自分の内臓をひっくり返して、血まみれになりながら、同時にそれを笑い飛ばすような、この本へのレビューとしては、何も言っていないのと同じである。読むもの(男)の安易な言葉を摘み取る、それだけの破壊力に満ちた文章である。
ところで、この本における「女にかけられた呪い」の正体は、「男目線の内面化」であり、雨宮はAV業界やライター業における女性の立ち位置を通して、それについて考察している。
これについて僕が考えたのは、昨今流行っている(ヒップホップの)フリースタイルバトルである。そこでは、男性ラッパーが主役となって、自分がいかにクールであるかを競うわけだが、それは別の言い方をすれば「どちらが男前であるか」を競うゲームでもある。だから、女性ラッパーがそこに参加した際の立ち位置は、簡単に定まらない。どのように振る舞ったとしても、フィメールラッパーは見た目をdisられたり、「男に媚びている」と言われたりするし、フィメールラッパー同士で対戦する際に「クソマンコ」と(男の視点を内面化した)disを展開したりする(もちろんすべてがそうではないが)
そこには、圧倒的に男性に有利になったヒップホップの価値観の中で、「自分らしくある」ための視点が持ちづらいというジレンマがあるのだが、これは雨宮が自己の立場をどのように規定して物を書いたりすればよいか、葛藤してきたことと同様のテーマを持っているのではないかと思う。
というか、そうした男視点に満ち満ちているのがこの社会であるということなのだろう。
本書で文庫版の解説を書いているのは、フェミニズム、ジェンダー論の権威である東京大学の上野千鶴子だが、そこでは、昨今注目を浴びるジェンダー関連のライターである田房永子や鈴木涼美、ジェーン・スーや湯山玲子などにも言及しながら、「こじらせ女子の当事者研究」についての考察を展開しており、本編との相性がとても良く、読み応えがあった。 -
イタい…!それは見ている自分が恥ずかしくなるような"イタさ"ではなく、もう物理的に痛い。自分を掘って掘って掘りまくっている。こんなの書くの痛みを伴うに決まっている。
私は最近メンタルを病んで心療内科に通っていて、治療の一環で過去の出来事とどう対処してたかみたいな文章を書いたんだけど、主治医に提出したら「辛かったでしょう」と言われて、ああこれは辛くなる類の作業なのだなと認識したのですが。
仕事上の辛かったことなんかより性の話やスクールカーストの話はもう自傷じゃん、書くことで癒される部分もあるんだろうけど。
書かれた時代も時代だからか、たぶんここ数年で書かれた女流作家のエッセイとかよりなんか切実で、雨宮まみさんが亡くなってるというバイアスもあるのかもしれないけどもう生きづらさの塊のような方で、もしかしたらあと5年10年早く生まれてたら、あと5年10年長生きしてたらもう少しマシだったかもとか思うとなんか辛い。
私には「THE BOLD TYPE」があるし、「30までにとうるさくて」があるし、「僕の狂ったフェミ彼女」がある。ここ数年で女が主体の性に関するコンテンツはすごい数で増えたと思う。本当に本当にありがたい。
上野千鶴子先生が後書き書いてるのびっくりした。結構読み応えあってよかった。 -
よくここまで赤裸々に書けるものだ。圧倒された。自分も男をこじらせているが、ここまでじゃない。ここまで掘り下げようと思わないし、やりたくもない。しかし、ここまで掘り下げざるを得ない業が切実な表現へ繋がって、多くの人に届いたのだろう。
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最初は面白いと思って読んでたけど、この人ずーっと苦しんでてだんだん疲れてくる。
環境が変わって、良い方向に進み始めても、結局自分の女としての価値を極端な形で確認しようとして自爆する。
その繰り返し。
でもこの本ってすごく人に影響を与えるし、考えさせられる。
テレビで見たフェミニンで変に優しそうな印象とまるで違う人。
まだ読んでる途中だけど、この人の他の本も読みたくなった。