- Amazon.co.jp ・本 (197ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344982208
作品紹介・あらすじ
科学-誰もが知る言葉だが、それが何かを明確に答えられる人は少ない。しばしば「自然の猛威の前で人間は無力だ」という。これは油断への訓誡としては正しい。しかし自然の猛威から生命を守ることは可能だし、それができるのは科学や技術しかない。また「発展しすぎた科学が環境を破壊し、人間は真の幸せを見失った」ともいう。だが環境破壊の原因は科学でなく経済である。俗説や占い、オカルトなど非科学が横行し、理数離れが進む中、もはや科学は好き嫌いでは語れない。個人レベルの「身を守る力」としての科学的な知識や考え方と何か-。
感想・レビュー・書評
-
文字通り科学について書いてあって、「科学離れ」について触れている。すでにタイトルで科学嫌いにとってはハードルになってるんだけど、読んでみたら人にとっても科学者にとっても優しい言葉が書かれてあった。
科学は人をしあわせにするためにある、という言葉は響きがもうしあわせだった。科学は慎重に時間をかけて実証していくことだというのも優しさを感じる。
「実験をすれば科学的だと勘違いしている人がかなりいる」と書かれててそこにも興味がわいた。何度も再現性を確かめて、「正しい」と思える状態に近づくプロセスが科学なんだって言われてちょっとわくわくした。
「科学を遠ざけることは損だし危険すらあるのだから、もう嫌いと言っていられる状況ではない」という主張も、今まで誰からも言われたことなかったことで素直に聞き入れてみたくなった。おとなってすぐ「科学って面白いよ」って科学実験ショーなんか見せて子供を喜ばせることばかり考えるんだけど、そういう科学が見たいわけじゃなかったぼくは損得とか言われたほうが面白かった。
科学って聞くと数式とか思い浮かべて降参しちゃうんだけど、考えたら社会科学も科学のうちだし。社会や人間はより複雑な気がするけどそっちの科学には興味がないわけじゃなかったわけで、結局科学嫌いというより数式についていけないと思ってただけなんだろなって思った。
科学が嫌いって自分で思い込んでたところあるけど、別にそんな「思い込み」にこだわることもないんだなって思えた。
難しい数式はわからないけど、日々の人とのやりとりを数字に置き換えて計測したことがある。いつ会ったとか、何日ごとにメールを書いたとかだけど、それだけでも、やってみたら、目の前の出来事が少しだけ以前より理解できた(気がする)。それだけでも科学に寄り添ってるということかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「文系理系ってどうやって決めればいいの?」と聞かれて、「数学が好きかどうかかな」と答えたけれど、そういうことじゃない気もすると思っていたときに、目についた本。
思考停止せずに、とにかく自分でちゃんと考えなさいよという本。これで、「なんで数学の勉強しなければいけないの?使う?」って聞かれてもだいじょうぶ。 -
本書は「科学的とはどういう意味か?」というタイトルではあるが、この点を深く追及するというよりは、この問いを起点として水平的に問いをずらして展開し、「文系と理系」「科学と非科学」と言った具合に対立構造を強調しつつ、科学の優位性を強調する仕上がりとなっている。
「科学的とはどういう意味か」という問いについては、その結論もその過程もこの本の数分の一程度のボリュームで済むと思われる扱いになっており、タイトルを見直した方が良いと感じる。中身も重複している部分があったり、順序がバラバラだったりで、体系的にまとまっているとは言えない。正直言って書きあがったエッセイがあまり編集されることなくそのまま書籍化された印象すら受けてしまったのは残念だ。事実筆者自身が後書きにて「本書は3日間、計12時間で執筆した」と認めている。
その他具体的に疑問に思われた点は幾つもあったが、例えば、
1.理系と文系というように二項対立で捉えることの非科学性を指摘しながら、理系が文系より如何に優位であるかにかなりのページが割かれている。(理系は文系を避けないが、文系は理系を理解できないため理系の人を「人間としての心が欠けている」と批判する、文系は理系に醜いコンプレックを抱えている、など)
2.科学の優位性、万能性を強調しすぎているきらいがある。非科学の例として、「神を信じている人」を挙げ、科学は「神の支配からの卒業」と捉えている。発展途上国ならともかく、科学の普及した先進国でさえ神を信じている人が多いことに疑問を呈している。しかし、そもそも科学と宗教はどちらを信じるかといった二項対立的なものではないはずである。筆者の論理でいけば、神を信じるという非科学的な思考をもつ人が多い国ほど、国家レベルでは科学の進歩は停滞し、個人レベルでは不利益を被り、最悪の場合生命の危機に脅かされるはずである。しかし、現在最も科学技術研究の先端をいく国はどこなのか?宗教のような非科学的なものを信じている国は困窮しているのか?神の存在を信じている、有能な科学者の存在はどう捉えればよいのか?
つまりは「科学」と「非科学」という2つのカテゴリで括ってこれらの問題を捉えようとすることに無理があると思うのだ。
科学は、「印象や直感をできるだけ排除し、可能な限り客観的に現実を捉えようとする」。その厳格さが「他者による再現」を可能とし、その信頼性を担保する。
だが、あくまで個人的な意見ではあるが、その厳格さによりそぎ落とされたもの、定量化できないもの、印象や直感、その部分にこそ今後の時代を生き抜く上での重要なファクターがあると個人的には思える。科学的な考え方はもちろん重要だが、だからといって厳格な科学的思考にそぐわない考えを「非科学的」とみなし、それを見下して軽視してしまうようでは、それこそ狭量で危険な考え方なのではないか。
今回は思想的な部分での主張が強く、なかなか腑に落ちない所が多かったため、かなり辛口の批評となった。しかし、何かと考えさせられた一冊でもあるし、得たところも非常に多かった。森さんの今後の著作にも期待したい。 -
科学的に考えるのは面倒くさいなぁと思った。
でも科学的に考えないと、煽動されるかもしれない。
科学的に考えるのが好きじゃないと大変だなぁと思う。 -
401-M
小論文・進路コーナー -
科学的とは、「誰にでも再現できるもの」で、再現する方法として実験がある。
文系と理系で分類することはナンセンスであることや、理系や数学に拒否反応を起こしてしまう人に対して、嫌いにならなくていいよと説明している内容であった。言葉での感想ではなく、客観的に説明できる数字が重要ということが分かった。ただ、注意すべきなのが、実験や自分の目で見たことが全てが正しい訳では無いということ。客観的に、定量的に判断する思考を大事にしていきたいと感じた。 -
科学とは? ということを理解するのに最適な入門書。身近で、もはや誰もかかわらずに生きていけない科学。科学について、一般の人間が理解しておくべき視点について簡潔に示してくれている。
非科学的なものを非難するのではなく、何が科学と異なっているのか、また、科学を理解しておくことの重要性が示されている。
とてもドライな姿勢が気持ちがいい。
内田麻理香氏の『科学との正しい付き合い方』も併せて読みたい。 -
「科学的」の捉え方が自分の中で変わった。
面倒を避けない、メソッドを重視する、データと慎重にお付き合いする、などなど。
震災直後に執筆された本とあって、当時の原発事故に対する人々の反応に向けた批判が背骨になっている。けれど、これはそのまま今年のコロナの話として読み替え可能だ。
そういえば、そんな話を朝日新聞の特集で見たような。論者は誰だっけな?
私たちはどんな悲惨な出来事からも、基本的には、何も学ばないらしい。
……いやいや、こういうペシミスティックな態度も、科学的じゃないんだった。
あくまでもデータと向き合い、現実的かつ慎重に、前向きに処していく態度。それが、科学的、という言葉の意味するところだと諒解した。そうなれるかどうかは、これからの行動次第だけれど。
これを読んだ後は、池内了さんの『疑似科学入門』あたりがよさそう。 -
名古屋大学で建築学を学んだ工学博士である一方で、推理小説で作家デビューを飾り、作品に科学関係の専門的な描写や数学の謎解きなどが多く登場することから「理系ミステリー作家」と評される著者が「科学と非科学」の違いを明らかにして、科学的な知識とか考え方について自身の意見を述べる。科学とは一言で言えば「誰にでも再現と観察が出来る現象」のことであり、それを確かなものとする手段が数字や実験であるというもの。読書やスポーツと同じように「科学」を好きになって欲しいという内容の本ではなく、科学を避けて現代を生きる事はもはや不可能であり、科学から目を背ける事は個人にとって「不利益」で、社会にとっては「危険」であるとさえ論じている。ちょっとお堅いテーマでありながら、小説家らしく興味をそそるタッチで書かれた「科学論」は大変に面白く、科学アレルギーになってしまった文系人間にもぜひ呼んで欲しい。
-
とても読みやすく分かりやすい表現で書かれていたのでさらさらと読めた。
理系としては知っていることの再確認なので、こうすれば伝わりやすいのだなということが確認できた程度でした