アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

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  • 幻冬舎 (2013年9月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (289ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344983212

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)の感想・レビュー・書評

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  • 久々に途中で挫折(>_<) 
    後半にためになることが書いてあるかもしれないけれども「瞑想メソッド」を超える という章から難解度が増してちんぷんかんぷん。 
    まったく合いませんでした。 私は、お説教仏教が合ってます。

  • いや~、これは画期的だろ。
    久々にエキサイティングな読書だった。
    どうしてここに気づかなかった?坊主たち!?
    という感じだが、このお二人とて、日本の禅寺から海外へ行って、あの足し算な言語世界で仏教を説明するという体験無しには「ここ」に到達し得なかったわけだから、なるべくししてなっているんだろう。
    自分も(彼らほどに切羽詰った想いで行ったわけではないが)ヴィパッサナー瞑想を体験したから、とてもとても腑に落ちるものがある。
    ちょっと、いや…、かなりワクワクする仏教界隈である。
    当初は図書館で借りたが、すぐに買った。
    その後、本屋で、この二人に哲学者永井均氏を加えて鼎談された『〈仏教3.0〉を哲学する』の平積みを見て「キテるなぁ~…♪」と思う。(^^;)

  • 熱心さは時にエゴになる。練習が自我の表現にならぬように我を振り返る。自分の心が落ち着いてないのに型ができてしまうのは、外から見れば同じかもしれないが内側は全く違う。暴れる猿を無理に抑えようとするのではなく、また放しておくのでもなく、身体の微細な感覚に意識を向けること。

  • 人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。



    仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。



    デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理に至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。



    行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事



    マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。



    マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。



    マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。



    ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。



    雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。



    心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。



    ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。



    エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。

    つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。





    体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。



    強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。

    「アップデートする仏教」藤田一照、山下良道



    人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。



    仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。



    デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理に至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。



    行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事



    マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。



    マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。



    マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。



    ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。



    雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。



    心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。



    ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。



    エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。

    つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。





    体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。



    強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。

  • 何とも刺激的な対話だ。共に曹洞宗の檀家を持たない修行道場・安泰寺で出家した後にアメリカで仏教を教え、うち一人は更に東南アジアでテーラワーダ仏教を得度した者による真摯な仏教対談。既存の仏教を批判し、本来の仏教に帰ろうとする「仏教3.0」という主張には危うさも感じさせるが、それでも伝統と現実をきちんと結び付けた上で、どうすれば仏教を現世で苦しんでいる人たちに活かせるかを論じ合う対話には夢中にならずにはいられない。その実践である瞑想については興味深い発見の連続であり、自分も瞑想を始めてみようかと思ってしまうほど

  • 面白かったです。
    今までの数々の疑問が、すっと解けた感じです。
    まだまだ咀嚼できない部分もありますが、また時間がたったら、読み直したい本です。
    アップデートする仏教、1.0、2.0、3.0の考え方は斬新です。
    進化は必要ですね。
    そして、やはり、元に戻っていく。
    原点回帰も大切です。
    久しぶりに、エキサイティングな本でした。

  •  著者の一人・藤田一照禅師の仏教塾の直前に読了しました。

     仏教もアップデートが必要と言う内容です。仏教の系譜もアップデートと言えますが、ここでは日本仏教における話です。とても簡単に言うと、仏教1.0は葬式仏教、仏教2.0は苦行仏教、仏教3.0は無我仏教かな?でも仏教3.0には1.0/2.0も含まれます。多くの気づきがありましたが、特に印象深かった三つに絞って記録に残そうと思います。

     一つ目は、仏教1.0/2.0/3.0は全て必要と思えた事です。今まで葬式仏教たる仏教1.0に対して、敵対意識を持っていました。それはせっかくの仏教の教えを、檀家も僧侶も法事と言う気休めでしか利用しておらず、そもそも僧侶が仏教にコミットしてない!!と言う事からでした。でも入口という観点から考えると、法事は仏教に出会う大きなキッカケですね。そこから本格的に仏教に入ってくる人もいます。そして大きな悲しみを持ってしまった遺族には、教学云々ではなく、法事が慈悲そのものなのかもしれません。檀家寺の僧侶もそれを強く感じているからこそ、意識が高ければ高いほど葛藤が大きくなるのだと思います。現在の葬式仏教は、江戸時代の檀家制度の弊害だと思っていたのですが、それだけじゃないですね。もし日本が大乗仏教でなく上座仏教だったならば、在家の仏教感も全く違うため、きっと僧侶に求めるものが、法事<修行となり、お布施が、法事の対価ではなく、功徳積みと言う本来の姿に戻れたかもしれません。

     二つ目は、仏教に慈悲が必要な理由です。自我(エゴ)は表面的には幸せを求めているのですが、自我を守るためにはネガティブエネルギーが必要との事。そのため、自我が大きいほど不幸になってしまいます。そして自我の対極にあるのが慈悲で、慈悲を願えば願うほど、自我は存在できなくなります。だから人に優しくなれる時は幸福感を感じるんですね。確か生長の家の教えに、全ての人間は根っこで繋がっている(同一の主体)ため、誰かに優しくする事は、自分に優しくする事と同じ事となり、故に幸福感を感じる...ような内容があったような気がします。まさに万教帰一ですね。

     三つ目は、一元論です。そもそも仏教は一元論なんですが、シンキング・マインドを使ってしまうので、つい二元的な意識で考えてしまいます。いや、考えてしまうから、シンキング・マインドが動作してしまうのかな?これは難しいです。これに関連して、瞑想/坐禅をしているのは誰か?自分が雲と思って座るか、青空と思って座るかと言う例えが出てきます。極論ですが前者が仏教2.0、後者が仏教3.0だと思います。今までは青空になるために瞑想/坐禅をしていたのですが、それが間違いで、その証拠に苦痛の域を脱してません。自分は青空という認識で座ればいいんです。自我を滅すると思うのではなく、自我はないと気づく事ですね。

     本だけでなく、仏教塾での内容も含めてしまいましたが、教学ありきの瞑想/坐禅だと思いました。また盲目的に教学を信じるのではなく、倫理的に理解する必要性、そして常にアップデートする意識の重要性を感じました。

  • 良道さんとスマナサーラ長老の対談が一番読みたい。意気投合してより理解しやすくなるように思うんだよな。議論になればそれはそれでお互いの問題点が浮き彫りになるだろうし。

  • アメリカの仏教の状況についてと、ヴィパッサナー瞑想が陥りがちな罠が特に参考になった次第。

  • 「わたしと山下良道さんはこの対談の中で、自分たちの周りにある日本の伝統的仏教、二人がアメリカやビルマ(ミャンマー)で体験した海外の仏教、そして自分たちがいま現在開拓しつつある仏教、という『バージョン』の違う三つの仏教のことを『仏教1.0』『仏教2.0』『仏教3.0』という聞きなれない新造語を持ち出して縦横に語っている。」――本書 はじめに より
    この一節を呼んで、この本は面白いと確信しました。心理学を専攻している私が何故仏教に関する本を薦めるのかというと、答えは「心理学的に仏教思想は面白く、有益である」ためです。
    この本は、藤田一照師、山下良道師という、二人の曹洞宗僧侶の対談をまとめたものです。曹洞宗といえば、有名な禅宗です。つまり、坐禅を組んで修行する宗派です。なぜ坐禅をするのか、「思いを手放す」とはどういうことか、「強為・云為」とは何か、そういうテーマが好きな人にとってはニヤニヤが止まらない本だと思います。なかなかマニアックな一冊だと思いますが、オススメです。
    (ラーニング・アドバイザー/心理 KANAI)

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1484439

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アップデートする仏教 (幻冬舎新書)の作品紹介

欧米の仏教が急激に進歩しているのに、なぜ日本の仏教だけが旧態依然としているのか。ともに日本の禅宗(曹洞宗)からスタートして、アメリカで仏教を教えた二人。その後、藤田はアメリカに留まり、山下は東南アジアやチベットで仏教を学んだ。三十年にわたり修行を実践し深めてきた二人のカリスマ僧侶が、日本の仏教を根底から更新する。「形骸化した仏教」(仏教1・0)と「方法・テクニックとしての仏教」(仏教2・0)の現在から、ラジカルな「本来の仏教」(仏教3・0)へ-。

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)のKindle版

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