アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

  • 幻冬舎
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  • Amazon.co.jp ・本 (289ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344983212

作品紹介・あらすじ

欧米の仏教が急激に進歩しているのに、なぜ日本の仏教だけが旧態依然としているのか。ともに日本の禅宗(曹洞宗)からスタートして、アメリカで仏教を教えた二人。その後、藤田はアメリカに留まり、山下は東南アジアやチベットで仏教を学んだ。三十年にわたり修行を実践し深めてきた二人のカリスマ僧侶が、日本の仏教を根底から更新する。「形骸化した仏教」(仏教1・0)と「方法・テクニックとしての仏教」(仏教2・0)の現在から、ラジカルな「本来の仏教」(仏教3・0)へ-。

感想・レビュー・書評

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  • 嫌いな人の幸福を願うことについて。

  • ・覚りには、理論だけで到達することが難しく、師について瞑想をしたとしても、覚れる人は決して多くない。それだけ自我の拘束は、強いのです。

     どのような道であっても、書物から学ぶことのできる知識と、師からしか学ぶことができない暗黙知や技があるわけですが、意外にも、仏教にも、その事実が当てはまることを突きつけられるような内容でした。

     また、たとえ優れた師に学んだとしても、それまでに身体に染み付いた自我という固定観念を捨てることができなければ、習得することができない境地があることも思い知ることになりました。

     釈尊が自らの力で到達した覚りを乞われるまで伝える気持ちがなかったという話も、真実味が増してくるのです。覚りには、理論だけで到達することが難しく、師について瞑想をしたとしても、覚れる人は決して多くない。それだけ自我の拘束は、強いのです。

     仏教は、個人や社会を導きうる思想なのに、そうならないのはなぜか、それは仏教の伝来がゆがめられ、仏教自身が生き残るために、思想としてではなく、ある意味、様式を示すビジネスになってしまったからかもしれません。

  • 彼らの深い問題意識、経験が率直に語られている。普遍性がある。なにが本当の仏教の目的か、問うている。道元の禅とテーラワーダー仏教がメインの話題。

    ・学校という宗教の教義「幸せというのはいつも未来にあるのだ」「全ては競争。負けたら終わり」
    ・マインドフルネスという英語は、サティというパーリ語の翻訳。漢字だと念なのが誤解を生んでいる。
    ・エゴは、なんとかして実在感を持とうとして、強烈なネガテイブ・エナジーを得ようとする。
    ・「わたしが幸せでありますように」はエゴに対する死刑宣告。

  • 慈悲、呼吸、そして青空へ

  • 久々に途中で挫折(>_<) 
    後半にためになることが書いてあるかもしれないけれども「瞑想メソッド」を超える という章から難解度が増してちんぷんかんぷん。 
    まったく合いませんでした。 私は、お説教仏教が合ってます。

  • いや~、これは画期的だろ。
    久々にエキサイティングな読書だった。
    どうしてここに気づかなかった?坊主たち!?
    という感じだが、このお二人とて、日本の禅寺から海外へ行って、あの足し算な言語世界で仏教を説明するという体験無しには「ここ」に到達し得なかったわけだから、なるべくししてなっているんだろう。
    自分も(彼らほどに切羽詰った想いで行ったわけではないが)ヴィパッサナー瞑想を体験したから、とてもとても腑に落ちるものがある。
    ちょっと、いや…、かなりワクワクする仏教界隈である。
    当初は図書館で借りたが、すぐに買った。
    その後、本屋で、この二人に哲学者永井均氏を加えて鼎談された『〈仏教3.0〉を哲学する』の平積みを見て「キテるなぁ~…♪」と思う。(^^;)

  • 熱心さは時にエゴになる。練習が自我の表現にならぬように我を振り返る。自分の心が落ち着いてないのに型ができてしまうのは、外から見れば同じかもしれないが内側は全く違う。暴れる猿を無理に抑えようとするのではなく、また放しておくのでもなく、身体の微細な感覚に意識を向けること。

  • 人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。



    仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。



    デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理に至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。



    行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事



    マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。



    マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。



    マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。



    ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。



    雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。



    心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。



    ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。



    エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。

    つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。





    体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。



    強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。

    「アップデートする仏教」藤田一照、山下良道



    人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。



    仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。



    デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理に至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。



    行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事



    マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。



    マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。



    マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。



    ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。



    雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。



    心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。



    ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。



    エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。

    つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。





    体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。



    強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。

  • 何とも刺激的な対話だ。共に曹洞宗の檀家を持たない修行道場・安泰寺で出家した後にアメリカで仏教を教え、うち一人は更に東南アジアでテーラワーダ仏教を得度した者による真摯な仏教対談。既存の仏教を批判し、本来の仏教に帰ろうとする「仏教3.0」という主張には危うさも感じさせるが、それでも伝統と現実をきちんと結び付けた上で、どうすれば仏教を現世で苦しんでいる人たちに活かせるかを論じ合う対話には夢中にならずにはいられない。その実践である瞑想については興味深い発見の連続であり、自分も瞑想を始めてみようかと思ってしまうほど

  • 面白かったです。
    今までの数々の疑問が、すっと解けた感じです。
    まだまだ咀嚼できない部分もありますが、また時間がたったら、読み直したい本です。
    アップデートする仏教、1.0、2.0、3.0の考え方は斬新です。
    進化は必要ですね。
    そして、やはり、元に戻っていく。
    原点回帰も大切です。
    久しぶりに、エキサイティングな本でした。

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著者プロフィール

1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科教育心理学専攻博士課程を中途退学し、
紫竹林安泰寺にて曹洞宗僧侶となる。1987年よりアメリカ合衆国マサチューセッツ州西部に
あるパイオニア・ヴァレー禅堂に住持として渡米、近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の
講義や坐禅指導を行なう。2005年に帰国。神奈川県三浦郡葉山町にて独自の実験的坐禅会を
主宰。2010年よりサンフランシスコにある曹洞宗国際センター所長として日本と海外を往還
している。


「2017年 『退歩のススメ 失われた身体観を取り戻す』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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