教養としての仏教入門 身近な17キーワードから学ぶ (幻冬舎新書)

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  • 幻冬舎
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  • Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344984301

感想・レビュー・書評

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  • 常々手を合わせるくせに、何も中身がわかっていない、との自覚あり、手に取った一冊。わかりやすいし、へーそういうことなのか、という理解には非常によかった。

  • 感想
    千と千尋に出てくる海の中の電車の行き先が「中道」って話はへーって思った

    一 諸行無常「あらゆるものは変化する」→現実は変化する
    物理学的に何事も変化していっている、世の中も自分自身も身体を構成する物質も思想も習慣も
    でも我々の感情はその変化の事実を受け入れづらい。
    自分自身変化するが、静止したアイデンティティは存在しない。
    二 諸法無我「あらゆるもの我はない」→こだわるな
    解釈①「あらゆるものは我(自分)ではない」
    ものと自分とを切り離せ。ものに固執してしまう。オモチャに固執した子供。
    解釈②「あらゆるものは我(=不変のアイデンティティ)を持たない」=諸行無常と表裏一体→そして変化してやまないからこそ解釈①固執するなが生きてくる
    三 一切皆苦 いっさいかいく
    「人生は苦だ!」
    生命は必然的に苦を呼ぶ
    苦からの脱却→ポイントは「悪循環からの脱出」 母だ苦の生産マシンを止める」例えばアルコール依存症、逆上。
    四 涅槃静寂 ねはんせいじゃく
    出発点が苦であるなら、終着点は苦の消失である
    涅槃=火が消えた状態
    四諦(したい)・八正道(八正道)→四つの真理と八つの修行メニュー
    五 輪廻転生 りんねてんせい→死後のファンタジー
    六 中道→快楽と苦行の両方の極端を避ける
    釈迦の話
    王族の家での生活→快楽、苦行に励む→苦、瞑想に専心→good
    千と千尋の話
    神々のお湯屋→苦行、カオナシの食欲と金銭欲の酒池肉林パーティ→快楽、海の中の江ノ電のような電車の行き先屋中道
    七 縁起

  • 仏教の入門書、というよりは、"学問として"の仏教入門書という印象。

    まぁタイトルに「教養として」と付いてるから、そうなるか。

    仏教の歴史や仏教用語の解説が書いてあったので、学問として読むのなら良いかも、かも?

  • サブタイトル「身近な17キーワードから学ぶ」とあるように、身近なキーワードをが用いられており、とても分かりやすいです。また、表現も割とフランクなため、より身近に感じられる、とても読みやすい一冊です。
    自分は何か宗教を信仰しているわけではありませんが、共感できる考え方は多くありました。
    どの宗教もそうですが、人間としての高みを目指すというものは普遍的だと思います。
    良いところを上手く取り入れて、正しい行動をしていきたいものです。

  • 読む前は南無阿弥陀と南無妙法蓮華経の違いすら知らなかったので、読み進めるうちに目からウロコがぽろぽろ落ちました。宗教ときくと身構えてしまう人は、文化や教養として知ると考えてはいかがでしょう。如来と菩薩の違いがわかると仏像巡りも一層楽しくなりそうです。余談ですが、ダルマさん人形は禅宗の祖・菩提達磨(ボーディダルマ)が座禅する姿であり、ダルマのまるっとした姿はボーディダルマという名前の響きにぴったりだと思いました。

    p37
    ブッダを積極的に拝む代表的なセクトは、浄土宗や浄土真宗など、阿弥陀信仰(浄土信仰系)の宗派である。これらの宗派が拝むブッダは阿弥陀仏あるいは阿弥陀如来と呼ばれる。阿弥陀というのはインドのサンスクリット語のアミターバ(無限の光)とアミターユス(無限の寿命)を合成してできた名前であり、悟りの光明と永遠性の象徴のような存在である。
    この悟りの光の前に自分自身を無にすることができたら、そのときにあなたは救われている。つまり無限の至福に包まれている。
    阿弥陀に対して自分自身をすっかり任せきるのは、一種の悟りである。悟りと呼んでも、安心、安心立命と呼んでもいい。それは一神教的な意味での神との対話でも契約でもなく、宇宙に潜在する慈悲の力を前にしての心の静まりなのである。

    p38
    「南無妙法蓮華経(私は法華経に帰依します)」

    「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀ブッダに帰依します)」

    p45
    釈迦は仏教の開祖だ。建前として、釈迦は悟って完成された人格=ブッダになった。ダルマはボーディダルマ(菩提達磨)のことで、六世紀の西域の人。禅宗の祖とされる伝説的人物である。ダルマさん人形はボーディダルマが座禅する姿を描いたものである。

    p46
    四諦というのは「四つの真理」という意味で、釈迦の人生の診察を要約的に示した標語である。ポイントは、これが病気の診断になぞらえて整理されたものだということである。

    苦諦(病気の認定)あなたの人生には苦があります。
    集諦(病因の特定)煩悩が集合して苦をもたらしています。
    滅諦(治療の目標)苦を取り除いた生活を目指しましょう。
    道諦(治療の計画)そのための処方箋を書きます。

    最後の「処方箋」というのは八正道という具体的な修行のメニューのことである。

    p56
    地獄を恐れる人は地獄に行く。地獄を恐れない人は地獄に行かない。

    p60
    さて、日本仏教の属する大乗仏教では、一体のブッダではなく、無数の「ほとけたち」を拝む。相対主義的な仏教は、拝む対象も一体と決めずに、どんどんと増殖させる。そうした数々の「ほとけたち」は基本的に如来、菩薩、明王、天の四つのカテゴリーに分けられる。

    p62
    最初、仏教では開祖の釈迦のみを「ブッダ」として崇め奉っていた。ブッダとは悟った存在である。そうした悟った存在は釈迦の他にも無数にあるち想像されるようになり、やがて大勢のブッダを拝むようになった。
    次いでブッダの候補生のような存在である菩薩、呪文のパワーの化身としての明王、ヒンドゥー教の神々にあたる天なども拝むようになった。いずれも瞑想の中でリアルな存在として現れ、修行を助けてくれる霊的な存在である。
    このブッダ、菩薩、明王、天が大乗仏教とくに密教の「ほとけたち」の基本的なカテゴリーである。このうちブッダは礼拝の対象としては-あるいは仏像の分類法としては-如来と呼ばれることが多い。

    p64
    如来は無数に存在するが、寺院の本尊として造形されているのは、いくつかの有名な如来に限られている。
    ・釈迦如来(法隆寺)-斑鳩の里にある法隆寺の里の金堂中央には、開祖のブッダである釈迦如来の像が安置されている。日本仏像史において古い時代に属するものである。
    ・薬師如来

    p65
    如来すなわち仏が修行の完成者だとすると、菩薩というのは修行途上の存在のことである。修行の中身には、他の人間や生き物たちの救済活動も含まれる。自ら修行をしながら人々を助けて回っている奇特なヒーローが菩薩である。

    p66
    ・観音菩薩-京都の清水寺や東京浅草の浅草寺の本尊は観音菩薩である。観音はさまざまな姿で我々迷える衆生を救ってくれる有難い菩薩だ。手が千本あったり(千手観音)、顔が十一もあったり(十一面観音)するのは、救いの「手段」をたくさん講じていることの象徴だ。
    ・弥勒菩薩-京都の広隆寺や斑鳩の中宮寺は、神秘的な弥勒菩薩の像があることで有名だ。もっとも、中宮寺の寺伝ではこれを観音菩薩としている(本来は弥勒であったという)。弥勒は現在天上にいて将来救世主として地上に現れるために待機しているという。
    ・文殊菩薩-「三人寄れば文殊の知恵」で有名な文殊菩薩は、知恵に秀でた菩薩である。仏像としては、たとえば先ほど見た法隆寺の金堂に、釈迦如来像の脇侍として普賢菩薩とともに鎮座している。
    ・地蔵菩薩-菩薩で最もなじみ深いのは、なんといっても地蔵菩薩だろう。これは輪廻のどんな境遇に生まれた者でも救おうと頑張っている菩薩である。とくに地獄に堕ちた者にはとても有難い菩薩だ。お地蔵さんの像は全国の路上どこにでもある。また、現代になって中絶した赤ん坊のための水子地蔵の信仰が広まった。

    p67
    如来が修行世界の超大先輩だとすれば、菩薩はそれに次ぐ大先輩である。ある意味で如来よりも菩薩のほうが有難い先輩だ。というのは、徳の高いスーパー菩薩たちは、自分自身が語りすまして完全な頂点に達するのを諦めてまでも、人々の救いのために奔走しているからである。

    次は明王だ。これは呪文のパワーが人の姿をとって現れた者であり、基本的に怖い顔をしている。それは我々の煩悩を威嚇しているからだ。如来や菩薩は基本的に優しい顔をしている(中には怒った顔の菩薩も存在するが)。
    明王で有名なのは不動明王(いわゆるお不動さん)と愛染明王だろう。不動明王は、動かざる頑固な明王であり、我々の煩悩があまりに大きいときには、その愛のムチが有難い。愛染明王は愛に染まっているというくらいだからエロスの神様なのだが、愛欲を浄化して悟りにまで高めてくれるのだ。

    p77
    というわけで、諸法無我の教えのポイントは、結局、我執の断ち切りにあるということになる。
    「我」というこだわり、執着は、余計な苦を背負い込む原因となるので、仏教ではそうした我執を一回断ち切ることを勧める。どんなものも変化してやまないし、どんなものも自分ではない。

    p79
    パワーを身につけるのではなく、錯覚を取り払うのが修行である。足し算ではなく引き算なのだ。

    p85
    ちなみに、四諦の最後にある道諦(処方箋)として、古代から八つの項目が挙げられている。これを八正道という。

    思想的指針
    ①正見 四諦という根本的展望を忘れない
    ②正思(惟) 煩悩や怒りや人を害する思考に走らない

    生活上の指針
    ③正語 虚言や妄言、乱暴な言葉遣いを避ける
    ④正業 殺生・偸盗・邪淫といった行動を避ける
    ⑤正命 極端を避けた適切な衣食住を保つ

    瞑想上の指針
    ⑥正精進 善に向かい悪を避けようと努力する
    ⑦正念 心身の現象を絶えずチェックする
    ⑧正定 欲望を離れるための適切な瞑想を行う

    p90
    さて、仏教者は無常、無我、苦の現実から出発し、それに飲み込まれる悪循環を避けるべく、心を平静に保つ修行を続ける。そしてそのやり方の根本方針は、お釈迦さまの時代から中道と決まっている。快楽と苦行の両方の極端ん避けるのである。

    p99
    ちなみに般若心経はしばしば魔除け代わりに読誦されるが、「からっぽ」を説いているのだから、魔物への恐れも消えてしまうという次第だ。耳なし芳一が全身に書いてもらったお経も般若心経であった。我々の恐怖の中には妥当な恐怖もあるのだが(たとえば本当の蛇に襲われるとき)、空しい恐怖も多い(たとえば縄を蛇と勘違いしたとき)。「敵が襲ってくる」という恐怖はどこまで本当でどこからが単なる観念ないしデマであろうか。

    p100
    たとえば貧困とか憎悪とか病気は間違いなく存在している。それにかかわらず仏教的には「貧困は空です」「憎悪は空です」「病気は空です」ということになる。それは貧困、憎悪、病気を実体視することで、それに囚われ、身動きがとれなくなることを戒めているのである。
    たとえば相手の憎しみを実体視すると、こちらも相手の憎しみに応じた憎しみを抱くことになる。それがさらなる憎悪を招きよせる。そうした悪循環を仏教は避けようとしているのだ。常に気持ちをゼロに切り替えよという実践的な誘いを行っているのである。常にゼロ(シューニャ)を思考や感情のデフォルトにせよと言っているのである。

    般若心経はよく知られたお経だが、これを長く言うと般若波羅密多心経と呼ぶこともご存じかれない。般若(サンスクリット語でプラジュニャー)とは知慧のこと。波羅密多(サンスクリット語でパーラミター)とは究極ということ。究極の知慧の心髄を説いたお経がすなわち般若波羅密多心経である。
    この究極の知慧とは(中略)空(からっぽ)のことである。つまり般若心経は空を説くお経だ。

    p106
    観音菩薩などは三十三の姿に変身して人々を救う。だからそのへんにいるふつうのおじさんもおばさんも、あるいは子供でさえ、実は変身した観音の姿かもしれない。救いのメッセージは誰の口から発せられるか分からないのだ。

    p106
    観音が救ってくれるというのは、言い換えれば、どんなに絶望的な状況でも希望を捨ててはいけないということだ。絶望や恐怖に飲み込まれないこと。これは立派な仏道修行である。

    p107
    奈良の大仏は毘廬遮那如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来なのであった。(中略)曼陀羅の真ん中に描かれるのも釈迦ではない。これは大日如来だ。

    p108
    現代日本において勢力のある宗派として、阿弥陀ブッダを信仰する浄土宗・浄土真宗などの浄土系宗派と、釈迦ブッダを信奉する日蓮宗や日蓮系新宗教教団(霊友会、立正佼成会、創価学会など)がある。

    p113
    なお、阿弥陀を信じる浄土真宗の開祖である親鸞には、『歎異抄』というおもしろい語録がある。その中で親鸞は、徹底的にお任せモードの発言をしている。
    たとえば、念仏を唱えると極楽に行くというのざ真実かどうかは分からないけれど、自分としてはかまわないと言っている。親鸞の先輩は法然(浄土宗の開祖)だが、この先輩にだまされて地獄に堕ちることになったって別にかまわないというのだ。

    p123
    禅では真理が言葉を超えているというばかりでなく、そもそも言葉と事実との間には常にズレがあるということを強調する。

    p125
    煩悩とは苦をもたらす原因となる迷いのことだ。除夜の鐘が一〇十であるのは煩悩の数によるそうだが、一〇八という数字にはそれほど深い意味があるわけではない。

    p128
    廻向(回向でも同じ)とは、自分の善行による功徳を他人のために振り向けること。廻らし向けるので廻向と書く。葬式とか法要にお坊さんを招いてお経を誦してもらって、故人の冥福を祈るというときに「廻向」というのは、要するにお経を読んだ功徳を死んだ人の来世での状況の向上に使ってもらおうということである。

    p134
    浄土宗や浄土真宗では阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経など阿弥陀仏について書いたお経を誦し、日蓮宗では法華経を誦します。よく知られた般若心経は禅宗や天台宗、真言宗で読むことが多いです。他にも宗派によってとくに大事にしているお経があります。
    また、日本の寺院では、インド伝来のお経と並んでらそれぞれの宗祖、たとえば浄土真宗であれば親鸞、日蓮宗であれば日蓮の書き物を重んじます。

    p161
    タイの男性の多くは、生涯に一度、僧になる。会社から有給休暇をとって、数か月間の戒律生活を送る。托鉢をして歩き、瞑想を練習する。

    p166
    絶対的な権威とされる神仏のイメージに手を合わせて、一切を神仏に委ねることに専念すれば、自我への執着が消えて、実質的に悟りに近くなるだろう。

    p168
    般若経典は要するに空の智慧(般若波羅密多)を説く。物事には実体がないので囚われるな、との心を「空(からっぽ)」という言葉で強調している。

    p177
    今日の日本仏教には、おおざっぱに言って、密教、禅宗、阿弥陀の信仰、法華経の信仰の四つのセクションがある。

    p179
    ②禅宗
    中国化した瞑想の伝統すなわち禅を、単独の宗派として初めて日本に招き入れたのは、天台僧である栄西(一一四一~一二一)である。彼は鎌倉幕府の庇護のもとで臨済宗を開いた。京都の建仁寺や鎌倉の寿福寺は栄西の創建した寺である。
    次に道元(一二〇〇~一二五三)も比叡山で学んだあとで、中国に行って禅を修行した。彼は永平寺を創建し、『正法眼蔵』という大哲学書を著した。道元によれば、坐禅の修行そのものが悟りの姿である(修証一如)。ひたすら座ること(只管打坐)でブッダが現れるのである。彼の宗派は曹洞宗と呼ばれる。

    心を無にする坐禅は、絶えず生きるか死ぬかという張り詰めた意識の中にいる武士の間で流行した。禅僧たちは芸術方面においても研ぎ澄まされたセンスを発揮し、やがて絵画、作庭、茶道、俳諧など、さまざまな文芸に影響を与えるようになった。禅は高尚なレベルの日本文化を支えるバックボーンであり続けている。

    p193
    キリスト教とイスラム教は実は親戚関係にあり、その血脈の出発点はユダヤ教にある。

    紀元前からユダヤ教は存在しており、西暦一世紀にそこから派生したのがキリスト教、七世紀にユダヤ教とキリスト教の影響のもとに誕生したのがイスラム教である。

    ユダヤ教の神学によれば、天地創造的の神はユダヤ民族にさまざまな教えや戒を授けた。それを守るのがユダヤ教徒の仕事だ。
    そして、キリスト教の神学によれば、天地創造の神は新たにイエス・キリストという形で姿を現し、人々に範を示した。キリストを信じるのがキリスト教徒の仕事だ。
    そして、イスラム教の神学によれば、天地創造の神は、かつてユダヤ教徒とキリスト教徒に示した神の教えを、最も簡潔な形で預言者ムハンマドに託した。この教えを実践するのがイスラム教徒の仕事だ。

    p198
    キリストはメシアとも言うが、救世主のことである。
    イスラム教の開祖であるムハンマドは神の言葉を人間に伝えた「預言者」だ。神の言葉を預かったので預言者と書く。ムハンマドはイスラム教徒から尊敬される模範的人物であるが
    キリストと違って神ではない。神と人間との違いにはっきりケジメをつけるのがイスラム教の特徴である。
    (なお、紀元前の昔に一千年もかけて徐々に成立したユダヤ教には、特定の開祖はいない。ユダヤ教はヒンドゥー教や神道などと同様に、民族の歴史の中から生まれた宗教である)

    p213
    アラビア語で「イスラーム」は神に帰依すること、「ムスリム」は神への帰依者を意味する。そのムスリム砂川イスラム教徒の生活は、基本的に五行を基本とする。五行は信仰告白、サラート(礼拝)、ザカート(喜捨)、断食、ハッジ(巡礼)の五つである。

  • 配置場所:摂枚普通図書
    請求記号:180||N
    資料ID:95170709

  • 17/06/12。

  • 仏教の基本原理についても書かれていますが、この本を読んで良かったと感じたのは、仏教をほかの宗教(キリスト・イスラム教)との比較を意識して書かれている点です。

    この本の筆者である中村氏は、宗教についてしっかりと研究した方の様で、仏教の特色がよくわかりました。

    この本で、如来・菩薩・明王の違いが分かりました、仏像に怖そうにしているのと、柔和な顔をしているのも、仏さまの種類が違うし、怖い顔をしている訳(明王は、我々の煩悩を威嚇している)もわかってよかったです。

    以下は気になったポイントです。

    ・日本には伝統的に様々な習い事が多いが、師匠について少しずつ習熟していくシステムであり、どこか精神修養的な側面を持っている。起源を辿ると、禅宗などの仏教修行の伝統が影響を与えている、西洋と異なり何か一つだけ凄い事をやったらOKというわけではない(p42)

    ・仏教修行はコンピュータゲームと異なって点数化された格闘技サバイバル能力をため込むものではない(p43)

    ・四諦とは、釈迦の人生の診察を要約的に示した標語である、苦諦(病気の認定)、集諦(病因の特定)、滅諦(治療の目標)、道諦(治療の計画:処方箋を書く)、処方箋とは、八正道という具体的な修行のメニューである、四法印として、諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静がある(p46、156)

    ・仏教では、六道輪廻といって、生まれ変わった先の生の状態を6つのカテゴリーに分けている、地獄・飢餓・畜生(欲望ばかりの境遇)・阿修羅(闘争心にさいなまされる境遇)・人界(ふつう)・天界(神のような境遇)(p52)

    ・「ほとけたち」は、如来・菩薩・明王・天、の4つに分けられる、如来は知恵と慈悲を無限にもち神通力がある、菩薩は面倒見の良い先輩、有名な如来は、釈迦(法隆寺)・薬師(薬師寺)・毘盧遮那(東大寺)・大日(東寺)阿弥陀(本願寺)がある、明王は呪文のパワーが人の姿をとって現れていて基本的に怖い顔をしている、我々の煩悩を威嚇しているから(p63、67)

    ・八正道とは、思想的指針(正見:四諦を忘れない、正思:怒り・害する思想に走らない)、生活上の指針(正語:正しい言葉使い、正業、正命:適切な衣食住)、瞑想上の指針(正精進、正念:心身の現象をチェック、正定:欲望を離れるための瞑想)(p86)

    ・六波羅蜜とは、布施(与え方)、持戒(戒の保ち方)、忍辱(辛抱の仕方)、精進(努力の仕方)、禅定(瞑想の仕方)、般若(智慧)波羅蜜(究極の智慧)である(p101)

    ・他力本願とは、阿弥陀ブッタのような他者の救済力を借りて、悟りを行うこと。他人に甘えて何もしないことではない(p111)

    ・般若心経は、禅宗・天台宗・真言宗、浄土宗や浄土真宗は、阿弥陀経・無量寿経等、阿弥陀仏について書いたお経、日蓮宗は法華経を読む(p134)

    ・日本の神々は仏教システムの中に位置づけられた、ブッダや菩薩が化身となって日本の神になっているという思想も広まった。アマテラスの本体は大日如来、八幡神の本体は阿弥陀など(p139)

    ・日本仏教の宗派として、1)密教:真言宗、天台宗、2)禅宗:臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(おうばく)、3)阿弥陀信仰:浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、4)法華経信仰:天台宗、日蓮宗(p177)

    ・空海は804年の遣唐使として中国にわたり、密教第七祖とされる、恵果から3か月で密教の正統的後継者として認定された、帰国後、京都の東寺を天皇から賜り、高野山金剛峰寺に真言宗を始めた(p178)

    ・天台僧の栄西は、鎌倉幕府の庇護のもと、臨済宗をひらいた、京都の建仁寺、鎌倉の寿福寺などは栄西の創建した寺(p179)

    ・ユダヤ、キリスト、イスラム教の「神」は、理論的には同一の神である(p193)

    ・復活した救世主のことを、ユダヤ人の言葉では「メシア」、当時の国際語であるギリシア語では「クリストス」、日本語読みしたのが、キリストである(p201)

    ・イスラム教誕生のころは、各部族が部族の神を信じていて、差別的なものも多かった。経済格差も大きくなっており、問題が起きていた、そうした神々を超越した、唯一絶対なる神の視点で社会システムを一新したのが、イスラムであった(p207)

    ・カトリックは、聖書のみならず聖書を編纂した教会の伝承も重んじた、プロテスタントは聖書のみ(p209)

    2017年4月9日作成

  • 変な宗教本じゃないですw オタク的にいうと"設定"が書いてある。法華経メインに書いてあるかな。ちなみにうちは真言宗。真言宗は密教なんだってさ、知りませんでしたw 密教ってなに?検索しよう。

  • あまり信心のあつくない自分にも、語り口が優しく分かりやすい。
    南無妙法蓮華経と南無阿弥陀との違いも、分かった気がする。

    分かりやすくはあるが、特定の宗派に偏らないようにしているせいか、記載内容が単調でメリハリが薄く、記憶に残りにくい気がする。

    また、仏教とキリスト教、イスラム教との比較も、無理矢理な感じがして違和感があり、分かりにくかった。

    ただ、目次が詳しく、あとで読み返したいときに便利そう。

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著者プロフィール

1958年生まれ。北海道大学工学部建築工学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科修了(宗教学専攻)。
著書に『信じない人のための〈宗教〉講義』(みすず書房)『信じない人のための〈法華経〉講座』(文藝春秋)『人はなぜ「神」を拝むのか?』(角川書店)『初めて学ぶ宗教――自分で考えたい人のために』(共著、有斐閣)『超訳 法華経』(中央公論新社)『宗教のレトリック』(トランスビュー)ほか。
訳書に『宗教の系譜――キリスト教とイスラムにおける権力の根拠と訓練』(T・アサド、岩波書店)『世俗の形成』(T・アサド、みすず書房)『心の習慣――アメリカ個人主義のゆくえ』(R・N・ベラー他、共訳、みすず書房)『ファンダメンタリズム』(M・リズン、岩波書店)
『科学と宗教』(T・ディクソン、丸善出版)ほか。

「2014年 『宗教で読み解く ファンタジーの秘密 Ⅱ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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