フルキャスト創業者・平野さんの著書。
創業時のハードシングス、執念、人との縁、エピソードに溢れた面白い本だった。
高校時代の渡辺さんという友人から卒業旅行に誘われ、初めて会う人の中にフルキャストテクノロジー社長の貝塚志朗さんがいてそこが初の出会いだった。
シーブリーズで有名なブリストルマイヤーズスクイプ社に内定が決まっていて、
平野さんはハーベストフューチャーズという先物の会社。
入社したらひたすらテレアポで当時は個人情報が余裕で取れたからひたすら個人ケータイにテレアポするも殆どがガチャギリ
先物取引は例えば金の場合値決めの単位はgで最低取引単位(業界用語で“1枚”)は1kg
金の証拠金が1枚(1kg)6万円
証拠金とは取引総額の4-10%でいわゆる担保。
現在価値が1g1000円→1kg100万円だとすると、
6万円を担保に100万円の取引が出来る。
それでg単価が1000円→1060円に上がったら
100万円→106万円に上がり6万円利益。
元金が6→12万円になる。
ただ、このレバレッジは当然逆(損失)にも作用するから、担保を下回る損失が出ると追証と言われ、
そのまま赤字で損切りするか、追加の証拠金を払わなくてはいけない。
それでいろんな資産家から激ギレされて、50人いた同期は1年で半分以下になったらしい。
基本給11.7万円、営業手当や税金など引かれて、支給額が15万8620円。
この初任給の給与明細をおみくじと共に今も財布に大切に保管していると。
3年以内にアイデア、仲間、出資者を見つけて起業をすると決めていたが、結局見つからないまま3年経った1987年に独立。
仲間に関しては、貝塚さんを当てにしてて、
奇遇にも貝塚さんが入社直後に横浜支店に配属になり、
車で10分以内で行けるくらいの距離で、しょっちゅう会っててた。
独立後、営業のアルバイトを行っていて、その中の家庭教師センターの若手ホープだった石川敬啓さんが現フルキャストファクトリー社長。
当時、浪人生の19歳だったらしい。
起業するタイミングで、その石川さんから起業するから来ないかと誘われたそう。
平野さんは石川さんを誘おうと思っていたが、事業が軌道に乗ってからと思っていたタイミングで誘われたので、逆に一緒にうちに来いと誘い返して創業開始。
社名は神奈川進学研究会。
彼女(現在の奥さん)も込みで、当初は3人で起業するも、
電話回線を1つしか契約しておらず、1人が電話をかけている間は後ろでゲームをしている音がうるさくてテレアポの迷惑だったそう。
入会金の2万円はその場で現金で貰ったが、月謝は週1回コースで2.5万円。
家庭教師に払うと自分達には1万円弱しか残らず、
電話代や営業の交通費、食費などを減らすと起業前の300万円の貯金はどんどん減っていった。
ワンルームのオフィスにはエアコンを入れる余裕も無く、アルバイトにホッカイロを渡して呆れられたこともあった。
100回くらい辞めようと思ったこともあるが、踏みとどまったからこそ今がある。普段回転寿司でもサバやイカなど安い100円の皿しか食べれなかったが、大きな契約が決まるとエビやウニなどの高い皿を食べるのを楽しみにしていた。
そうして事務所を構えて半年経ったタイミングで貝塚さんが合流。
ポスティングも行ったが、そこには本部事務局、横浜事務局、など5か所の番号を書いた。
ただ、全て転送番号で武蔵小杉のワンルームにかかるようになっていた。
また、平野さん石川さん貝塚さんの3人しか営業マンがいないのに名刺にも第四営業局、などと大きく見せるための知恵を使った。
創業1年目は売上2000万円、2年目は4500万、3年目6000万年、4年目8000万円、5年目には1億に行こうとしていたが、平野さんの給与は29歳で600万円。
リスクを取って起業したのに5年でこれでは大手で活躍する人たちと比べて何も良さを感じなかったため、
何か新しいビジネスを立ち上げて伸ばそうと決意。
とある時、知り合いの引越し会社の社長から、
「学生がたくさんいるなら手伝ってよ」と言われ、
引っ越し現場に学生を紹介。
8時に5人手配してと言われたのでそれをしっかりと行ったら、
9時で良いし、3人で十分だったのに、と言われた。
意味がわからなかったが、聞いてみると、バイトや時間にルーズで全員来ないことも当たり前だと思って余裕を持って依頼をしていたらしい。
適当な産業だなと思いつつ、それかビジネスチャンスになると感じ、
あらゆる人を紹介して適材適所を実現すると言う意味で、フルラインキャスティングでフルキャストという社名に決定。
当時は派遣は受付や秘書などに限られていたため、
軽作業の請負業で立ち上げた。
(派遣業に許可がいるのは、1947年施行の職業安定法で禁止されているからで、港湾労働者や建築労働者がタコ部屋に押し込められた挙句給与をピンハネされ強制労働させられていた戦前の反省から生まれた法律。
1985年の労働者派遣法で派遣が事業として認められたが派遣できる職種は13職種のみでホワイトカラーの仕事ばかりだった)
その事業を立ち上げようと横浜銀行に1500万円の融資をしてもらったら、
300万ほど使ったのちに、食事中に印鑑と通帳を盗まれ、残高の1200万円を盗まれたらしい。
1200万円あるはずの口座残高が13万円。
その時ばかりは貝塚さんたちからも怪しまれたそう。