- Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
- / ISBN・EAN: 9784385363714
感想・レビュー・書評
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対話一本目。
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フィンランドの教育を参考にして
日本のコミュニケーションについて考える本。
・境界線の引き方が個人や社会によって異なる問題について
みんなの意見を聞くことで他人の価値判断を知ると同時に
自分で価値判断をする力をつける
・価値観を押し付けることは童話であっても刷り込みとなる
・「ほんとうの自分」も「ほんとうの意見」も「自分に適した仕事」も、
そういうものはもともとない
・表現には対立や選択も必要。答えがない選択なら多数決でもじゃんけんでもいい
・自分の経験だけを意見の根拠にするのは危ない
・大きく分けて利益共同体、地域共同体、個の共同体の
3つの層を持っていたほうがいい
・個性とは自由勝手にやらせれば伸びるというものではなく
みんなと共通性があるからこそどこかに共感できるものがあり、
一般性のある方法で表現しているからこそ
多くの人が個性を個性として理解できる
・「思考の型」は基本ルールだが「表現の型」は不自然
・考える力と基礎・基本の教育のバランスが難しい
・感情移入型のシンパシーから自己移入型のエンパシーへ
・多文化共生にシフトするには「最初の、ちょっとめんどくさいこと」を
どう乗り越えるかが課題となる。それがグローバルコミュニケーション。
・回避をせずに、対立を恐れないでぶつかって、
その上でお互いどう変われるのかというプロセスを理解するのが重要
装丁・レイアウト:臼井弘志(臼井デザイン事務所)
写真撮影:塩沢秀樹
日本の移民問題についてもっと考えた方がいいのかも。
それ以前の話かもしれないけれど。
これからは日本人同士でも阿吽で伝わらないことも増えるようです。
さんざんESで経験を書かされる中で
自分の経験は意見の根拠にならないと言われたらどうすればいいんだと。
まぁ自分について語る分には大丈夫だと思うけれど。 -
フィンランドの教育や演劇の方法を参照項として、日本の教育の特徴と課題を論じる。その要約は表題の通りだが、そのことを原理的な悪として批判するのではなく、対外的、対内的なコミュニケーション能力が必要性となりつつある状況(例えば移民の受け入れに対応するものとしての)を踏まえて、ある価値を一方的に教える教育の弊害を指摘するなど、結論に至るまでにはバランスの取れた議論が展開されている。
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大学の授業のテキスト。
この本では主にフィンランドと日本の教育方法を対比させて、そこからこれからのコミュニケーションのあり方を「対話」するもの。
教師志望の人でなくても多文化社会の中で生きるのにとても有用な本だと思う。 -
図書館所蔵【370.4NI】
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異文化共生。実感はないけれど、実際そうなったら本当に大変だと思う。
子どもたちの話を聞くのも一苦労だもんなぁ。 -
今年の7月頃に読んだ本を再読しました。ずばりタイトルにある通り、ニッポンには対話がない。まず考える時間がないと思います。社会全体がそうだし、教育の現場でも、少なくとも私の経験上はそう思います。そして対話する体力のある人が少ない。だから釘を刺す社会になってしまいます。この本を読んで、私が感じていた社会に対する危機感が一人よがりではなかったと思いました。それと同時に、絶望に近い思いも抱かずにはいられませんでした。まだ大丈夫だと思いたいです。
「日本語が亡びるとき」も合わせておすすめします。
2008/12/26 読了
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北川達夫 フィンランド教材作家 教育アドバイザー
平田オリザ 劇作家 演出家 青年団主宰 大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授
<価値判断という学力>
あらかじめ決められた答えはないんです。話し合っているなかで、「ここまで言われたら自分だったら許せない」「この程度なら許せる」というラインを子どもたちがそれぞれ決めていくんですね。 p3
境界線の引き方が個人や社会によって大きく異なってくるような問題が意図的に立てられているんです。それは話し合いでみんなの意見を聞くことによって他人の価値判断を知ると同時に、自分で価値判断をしていく学力が子どもたちに必要だという考えに基づいているんですね。〜日本の国語教育とフィンランドの国語教育の違い〜
「良いか、悪いか」「許せるか、許せないか」を自分で考え、判断していく。そういう経験を子どもの頃か積み重ねる。
価値観というものは、ある国や集団の文化の影響を受けながらも、その個人が自分で判断したり経験したりするなかで育てられていくものだということを、したがって、どんな集団や社会にも、いろいろな価値観を持った人がいるんだということを前提として教育を考えていかなければならない。子ども自身が考え、判断していく意欲や力を育てる学習をほんとうに保障していく教育は、そういう部分を認識することから始まるんじゃないかと思います。p11
誤ることは義務ではなく、チャンスである。
ヨーロッパの道徳教育では一般に、「誤ること」と「許すこと」を小学校1年生から習います。人間とは不完全なものであるから、無意識のうちに悪いことをしてしまうことがあるし、意識的に悪いことをしてしまうこともある。たとえば、だれかに迷惑をかけたとわかっていても、人間とは不完全なものであるから、相手に謝ることは難しい。また迷惑をかけられたほうも、やはり不完全なものであるから、相手を許すことは難しい。このように「誤ること」と「許すこと」は人間に与えられた最後のチャンスなんだと教えられるんですね。 p27
チャンスを利用するかしないかは子どもの選択の問題。
「言うかどうかは選択の問題だが、主張しない『個』は社会においては存在しないと同じことである」p29
<対話空間のデザイン>
「正しい意見」「まちがった意見」という発想は捨てる。
問題解決とはコミュニケーションである。
内面はそれぞれ違う意見や感想をもっていてもアウトプットするときにはみんなで考えて、その時点で最善のものを出す。それが集団でやる表現芸術のおもしろいところなんです。
集団でやる場合やる場合は、ある程度話し合ったうえで、。最終的には決めていかなければならない状況になります。これが日本では難しい場合がある。ひとりひとりの思いや考えを大事にしなくてはらならいと思うばかりに、決めなくてはならない状況でも意見の対立や選択を避けようとする傾向が日本の学校にはありますね。思いやりとか、やさしさということで、プラスに評価されていることだと思いますが、ヨーロッパでいわれている内申の自由の尊重、あるいは民主主義という考え方を学ぶ学習ではみられないことです。〜最終的には多数決という手段が有効になる。これは人類が歴史のなかでいろいろなことを試してきていちばん有効だからそうしているんでしょう。少なくとも、多数はのほうの考え方が正しくて、少数派のほうがまちがっているちうような発想ではない。みんなが違う意見を持っているのだとすると、多数決をとらざるをえないということなんですよ。〜多数決で負けたほうの子どもたちは、自分たちの意見が採用されなかったことに傷ついたり理不尽さを感じたりするんです。それを感じて体験して、それでも意見を出し合って解決に向かうということがみんなで生きていくには大切なんだということを学習していく必要があるんですね。表現すること、人とコミュニケーションすることには痛みやリスクを伴う。そこのところを通過させずに、かわいそうだから、多数決はしないというのであれば、本当の優しさも対話の場も生まれない。p50
「あなたの意見には反対だけども、あなたが意見を表明することの権利は命がけで守る」
「自分の経験の絶対化からは、何も生まれない。経験のある人と、経験のない人とが対話することによって、新しい発想は萌芽する。」p61
いやだったらいつでもやめていい。
好きなときだけ参加すればいい。
そういう、人々のゆるやかにつながりあうコミュニティのネットワークが対話型社会を支える。
<目に見える変化のみを期待しない>
日本人のコミュニケーションのさまざまな問題を考えるうえで、会話(conversation)と対話(dialogue)を区別する必要があるのではなかと、わたしはつねづね言ってきました。
わたしなりの定義は、会話は親しい人同士のおしゃべり、対話は異なる価値観などをすり合わせる行為を指します。
「目に見える変化のみを期待しないでください」といっているんです。
そればかりにめがいくと、変化がでない個はだめなのかという話になってしまうし、目に見える変化というものを大人が求めがちになって、そういう授業にもっていこうとしてしまうと思うんですね。p86
<表現の型、個性、教育>
自分の個性は、対話を通じてはじめて見出すことができるもの。p91
はじめから「自由に発言しなさい、自由に書きなさい」と言うことは、ルールも道具の使い方も教えずにスポーツさせるのと同じ。
型通りに表現することの安易さと、型を破りたいという欲望のバランスのなかで、その融合点を自分で見出していく。
「美しい日本語」「正しい日本語」は、排斥的になりやすい。
ことばの美しさや正しさは人に強要するものではなく、個人で追求するものである。
少なくとも多文化共生のプログラムのなかでは、たとえば、きちんとしているけれども伝わってこないものと、たどたどしいけれどもしっかり伝わってくるものを並べて、どうしてこっちほうが伝わるのかということを考える教材もこれからつくっていかないといけない。美しい日本語だけをめざしてきたいままでの国語教育とはまったく概念が違ってきます。
<発想の転換ができるかー「考える力」と基礎・基本>
要はバランスの問題なのですが、そのバランスの取り方に国によって発想の違いがあらわれていておもしろいんですね。発想というのは、何を「主」と考え、なにを「従」と考えるかということです。フィンランドの場合は、もちろん最低限の基礎・基本の存在は前提になるんですが、明らかに「考える力」を主とし、基礎・基本を従と考えていいます。何よりも大切なのは自分で考えて、自分の意見を表明することであり、そのために必要だから知識や技能を身につけなくてはいけないというんですね。こういう発想が基礎・基本の低下をもたらした部分もあると思いますが、PISAのように「考える力」を問うテストでの好成績をもたらした部分も大きいと思います。p123
<ともに生きる力>
表現というものの理不尽さといいますか、自分の言葉が通じないということの体験は、子どものうちから必要なものだと思うんです。これは教育理論で明らかになっていることですが、いつでも通じていたら表現は上手にはならない。わかってくれない人という存在が絶対に必要になってくる。そういう意味では親や先生には擬似的に意識的にですが、ものわかりの悪い対話者としての役割があるべきなんですね。「話せばわかる」ではなかく「どんなに話したってわからない」ということがあること、現実の人生なんて話したってわからないことの連続で、その理不尽さに耐えていかなくてはいけないわけですから。p126
互いによく知っている者同士の集まった「やさしいコミュニケーション」環境の中に育ってきて、企業へ就職する時点でいきなり、自分が知らない人間たち、自分のことをよく知らない人間といっしょにされる。そこではじめて、社交術を求められたり、グローバルスタンダードだといわれて強い説明責任を要求されたりする。ーーー「やさしいコミュニケーション」と「厳しい現実」のギャップがさまざまな社会現象を引き起こす。−−−
「その人の気持ちになって」考えることと、(シンパシー)
「もし自分がその人だったらどう感じるのか」(エンパシー)を考えることの違い。p135
「相手の気持ちはわからない」という前提に立つ、エンパシーという発想が、言語、文化、宗教、性別、立場など、あらゆる「違い」を超えたコミュニケーションにおいては、必要不可欠なものとなる。
ぼくはよく、コミュニケーション観の転換が必要だという話のときに、これからの社会のキーフレーズは「<<協調性から社交性へ>>です」って言うんですけれども、社交性というのは「人間同士は分かり合えない、分かり合えない人間同士だけれども、どうにかして共有できる部分をみつけて、それをひろげて何とかうまくやっていけばいいじゃないか」という考え方を基本とするものだと思っています。p139
心からわかりあうことだけがコミュニケーションの本質ではない。p141
コミュニケーションというのが、まったくわけのわからないところから、なんとかして共通部分を見つけていくものだということがよくわかります。p142
崩壊したコミュニティを再生するために、芸術文化振興、表現教育を徹底的におこなった。そこにいまのイギリスがある。
「この小さい島国のなかで、さまざまな人間がひしめき合って生きていかなくてはなりません。文化も宗教も異なるから、最初はめんどくさいことがあるけれども、結果的には、いろいろな文化や人間によって成り立つ国や社会のほうが大きな力を発揮するんですよ」っていう教育を子どものうちから繰り返し繰り返しおこなっていくわけです。学校で。p149
「やはり日本は察しの文化だから、その美徳を大事にしたい」ということなんです。コミュニケーション観を変えるといっても、その美徳を捨てる必要はないし、何かをいちいち説明しなくちゃいけない欧米型のコミュニケーションに傾倒してそれに染まるというのは、これは大きなまちがいで、どちらがいいかというと、日本人の心情としては、やっぱりいちいち説明しない美徳のほうがたぶん大事だと思う。けれどもそれだけではやっていけないんです。やっていけないからあえて、意識的に自分たちのコミュニケーションをなんとかしていこうというわけで。p157
グローバルコミュニケーションのポイントは常に「自分の立ち位置」を明確にしておき、相手の土俵に乗り切らないこと。
多文化共生というのは、相手を圧倒するとか、相手に圧倒されることを前提とするのではありません。いっしょに生きていくことを探っていくことなんですから、お互いにとってどうするのがハッピーだろうということになる。価値観が違うのならば、お互いの価値観をすり合わせて、ハッピーな妥協点を見つけていく。そのためにはお互いに変わっていくしかないんですよね。p169
<移民社会への秒読み>
論理的に考え、論理的に表現するということは、「ともに生きる力」を育む教育プロセスの基礎・基本の一部分にすぎない。それは手段であり、目的ではない。p194
日本人というのはきまじめで、目的と過程が摩り替わってしまうようなところがあるので気をつけないと。
いまほんとうに日本が試されているのは、学力観の世界的変化のなかで、進むべき方向を主体的に決めていけるかどうか。p197
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先日、北川先生のお話を聞いた後だったのでこの本の内容もすんなり入ってきた。この本を読むにつけ、平田オリザさんとも是非お会いしたかったな…と悔やまれる。なんで土曜日も授業なんだ、ウチの学校。
奇しくも、今日のニュースで確かインドネシアから看護師・介護士の受け入れが始まる、というようなことを言っていた。
私も含め、オトナは今のままではいけないと思いつつも、どこかまぁ大丈夫だろう、という程度なんじゃないか。まだ周りは日本人が多くて、今後、移民も含めて外国籍の人がどんどん入ってくる、というのが実感としてわきにくい。
そんなこれからの日本を生きていく彼女らに、私はあと2年弱で何を伝えられるだろう―そう思った。 -
素晴らしい対談集