渾沌への視座: 哲学としての華厳仏教

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  • 春秋社
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  • Amazon.co.jp ・本 (392ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393132968

作品紹介・あらすじ

専門外からはその凄さを想像するしかなかった中国仏教思想の精華を哲学的共通言語で読み解き、「カオス・複雑系」等、これからの科学にも大きな示唆を与えうる驚くべき理論と、仏教神学ともいうべきその宗教的迫力を初めて開示。

感想・レビュー・書評

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  • 法蔵さんの研究。
    きょうは増上縁という発見があったよ!

    ◆学んだこと
    ○法蔵の理事無礙法界は理と事の重層的な二項対立?

          ┌─理(不変) ───┐
    理(真如)──┤         ├───理事無礙
          └─理(髄縁) ───┼─┐ (真如門)[理]
                   │ │
          ┌─事(無体即空) ─┘ ├─理事無礙─※
    事(無明)──┤           │  (生滅門)[事] 
          └─事(有用成事)───┘

            ┌─(違自順他) ───┐
      ┌─理───┤          │
      │(隋縁真如)└─(違他順自) ─┐ │  
    ※─┤              ├─┼─理事無礙
      │     ┌─(違自順他) ─┘ │  (覚)[理]     
      └─理───┤          ├─理事無礙 
       (成事無明)└─(違他順自) ───┘  (不覚)[事] 

    真如と無明はいつもいっしょ。
    真如の体は不生不滅だけど不変。事の体はもちろん空。
    事(無明=現象)が作用すると真如は髄縁して作用。
    真如が輝けば覚り、輝かせなければ覚らず。
    事に従えば覚らず、真如に従えば覚る。

    つまり・・・
    真如を輝かすか、事に従わなければ、覚れるということ?

    隋縁真如と成事無明の後の流れを詳しくみてみよう。

    *隋縁真如
    違自・・・隠自真体→根本不覚
    順他・・・顕在妄法→枝末不覚
    違他・・・翻対妄法染顕自徳→本覚
    順自・・・内薫無明起浄用→始覚

    本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)ということで、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。

    修行の進展によって諸々の煩悩をうち破って悟りの智慧が段階的にあらわになるのが「始覚」(しかく)。

    順自が始覚なのは、意識して真如を輝かすではまだ初心者という意味? 違他が本覚なのは、無心で真如自らが輝くことが大切ということ?

    *成事無明
    違自・・・能反対詮示性功徳→本覚
    順他・・・能知名義成浄用→始覚
    違他・・・覆真理→根本不覚
    順自・・・成妄心→枝末不覚

    無明側から、隋縁真如と同じことを言っている。

    ○法蔵の修行観?
    事事無礙法界の解説と格闘する準備として、
    少し長いけど、身体と時間についての解説をピックアップします。

    認識主観と認識対象とは、あくまで対他関係において背き合っているけれども、行為主体と行為対象とは、行為そのものによって主客一如のかたちで溶け合っている。(P192) 

    仏教は主観と客観との分裂を内在的な方向へと乗り越え、現に生きている生身の人間における経験の具体的な連関である「生」へと踏み込み、それを内側からダイレクトに構造化しようとする。それゆえ、仏教は「心身一如」ということがつねに前提とされている。(同) 

    修行とは、自己における自己自身を目的とした働きであり、自己を真に自己として成就してゆく働きである。それは自己自身を深く意識することではあるが、それはたんに内部知覚的に自覚することではなく、行為を通じて自己の内容を外部に表現してゆくことである。(P192-193)

    衆生とは、当人が存在する限りにおいて自己の可能性へと志向すべき資質(種性) を先天的にそなえており、それにもとづいて後天的に精進してゆくべきものである。すなわち衆生とは、可能性おいて自己を了解すべきことが「先取り」されている存在者である。(P205) 

    衆生が自己の本来的な可能性を志向するア・プリオリの資質をそなえているということは、衆生が実在するそのつどの時々刻々において可能性を自己に到来せしむるということである。(P206) 

    修行『時分』とはタイミングの謂(いい)である。静止した対象から距離をとり、これを坐視しているような主観にとって、タイミングは問題にならない。リアルな行為の現場においてのみタイミングは実感されるのであって、さめた認識のことがらではない。(P207) 

    時分(タイミング)とは、現在の位相において過去および未来の地平を志向的に保持するような、脱自的な統一ともいうべき事態である。タイミングを測っている現在とは厳密な一点ではなく、その内に過去や未来を孕んでいる曖昧な、つまり「不定」な領域である。(P211)

    生起済みの過去の出来事をどのように記述しうるかは、時間の経過とともに変化する。過去の出来事はつねに未来にたいして開かれており、或る時点から遡及的に物語ることができる。悟りの成就という結果によって、たんなる座禅という行為に、はじめて悟りの原因という記述が与えられる。ただし、本来において私の行為にどのような抜き差しならない記述が与えられるかは、現時点ではまだ「不定」である。

    私の経験世界は時間的かつ空間的な場面のなかで働く「身体」という生地によって仕立てられている。私の身体は、世界という風景を眺めている認識主体ではなく、世界という舞台に身を挺している行為主体である。私の体験は、単なる閉ざされた内部の知覚によってではなく、身体的な限定(つまり行為)を通じて自己を外部に表現するという意識の具体化によって実を結ぶ。(P218)

    私は行為によって私の世界を毎刹那に創っている。私による私の世界の想像は、かならず私の身体を媒介としてのみ遂行されうる。私が作っている世界は、私が行為するときのみ存在する。そして、この世界を創る行為の最中における心身一如態としての身体、つまり私が観察にもとづくことなく知っている身体は、身体と意識を峻別する心身二元論に対して根本的な批判を突きつける。(P219) 

    「回心」とは、対象にたいする「存在」志向ではなく、対象に対する主体の志向的な関わり方についての「方法」志向である。存在志向とは、自体的な存在者を対象化して、その存在様態にたいして操作し、態度をとることである。方法志向とは、対象に向かう志向そのものを志向し、当の志向のありさまを方法として示すことである。まずは、対象に向かい、ついで対象に‘向かうことに向かうのである。(P228) 

    「主体の実践を支える超越的な根拠はどこに在るか」といった設問自体が、そもそも見当違いである。超越的な論拠は、衆生が具体的に生きていくプロセスにおいてのみ実現されうる。(P235)

    〇法蔵の事事無礙法界?
    ミクロとマクロの2つの観点から解説している。ひとつは因縁と力、もうひとつは、全体と部分。

    真如(理)が無明(事)に溶けた世界って、すごいユートピアをイメージするけど・・・。

    中国の華厳は、事事無礙法界をミクロ的に見たとき、因と縁が力を奪い合いっていう激しい見方をするんだよね。因と縁といえば、原因と条件、自分と他人、力と愛、成長と貢献・・・。どうしてこういう見方をするんだろう。理事無礙法界で終わっとくという手もあったのでは?

    果倶有=空・有力・待縁
    生起した結果と同時に離れずに存在すること

    待衆縁=有・有力・待縁
    種子の一因のみで現象を生起するというのでなく、必ず多くの縁をもって現象を生起するものであること

    この見方は、唯識の縁起説がベースなので唯識とも関わる。
    またガンダーラですかな。

    でも、その前に、事事無礙ってなんのために誕生したのだろう?
    仏の境地を教えるため?

    山田氏は次のように説く。

    按ずるに、華厳哲学で考える「事」とは最終的には「人間(自己)」のことである。縁起的なコスモロジーを構想するとき、その存在根拠の連鎖を辿り、仏という究極原理を突き抜けてさらに歩を進めてゆくと、ついには人間主体という根拠に至り着かざるをえない。(P277)

    人間になぞらえる事は、ナルシスのごとく静的な自己陶酔に耽るものではない。自己と異なるものを青眼をもって迎え、それと徹底的に対峙し、それと動的に作用し合うことによって己の主体性を実現してゆくものである。かかる自己実現のプロセスを記述しようとするとき、他者を包摂することによって自己を全体化しようという「力」の哲学としてのみ、それは記述されうるであろう。(P277)

    自己とか主体というのはわかる。
    でも、ことさら「事=人間」をことあげする必要はないと思うけど。。。

    とろろで、「力」といえば、ベルクソン?
    ベルクソンは新プラトン主義のプロティノスの影響を受けた。
    by Wikipedia

    へー、そうなの?

    法蔵の「力」の話に戻ろう。

    法蔵は「彼の増上縁のほうから自の増上果を見る」と云っているが、そういえば彼は先の「探玄記」の相入義でも「互いに障礙し合わない増上縁は寛大であるから」と云っていた。どうやら法蔵は、原因をもたらす作用に関して、そこに「増上縁」という概念を介在させて考えているようである。(P269) 

    増上縁には、他のものが生ずるのに積極的に力を与える「有力」増上縁と、他のものが生じるのを妨げないことが原因となる消極的な「無力」増上縁がある。はなはだ迂遠な推測ではあるけれども、この増上縁における有力・無力の別をヒントとして、法蔵が力用の有無という範疇に想到したという可能性はないだろうか。(P269) 

    なるほど、増上縁か。。。教える、教わる縁。
    これって、教育、コーチング?

    つづきは、あとで。

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著者プロフィール

1959年、福井県生まれ。東北大学文学部卒業。東北大学大学院修了。博士(文学)。現在、弘前大学教育学部教授。著書に『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)『禅問答100撰』(東京堂出版)『龐居士の語録 さあこい!禅問答』(東方書店)『物語として読む 全訳論語・決定版』(トランスビュー)など。

「2020年 『哲学として読む 老子 全訳』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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