- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784393135204
感想・レビュー・書評
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原始仏教についての本。
徹底的に思考する瞑想、というのに心魅かれました。
そういう瞑想もあるんだ!
ブッダは認識論的現象主義の哲学者である、という見方を知り、原始仏教に興味を抱きました。
最初の仏教は、こんなにも違うのだということを知った一冊。
そして、人を介することで、こんなにも内容が変わってしまうのだということを知ることができる一冊。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
Road To Meditation
瞑想を実践していく中で、ブッダのことについて理解したく、再読しました。
仏教用語については難解でしたが、ヨーガ・スートラに基づくであろう(マインドフルネス瞑想)への過程については、理解できました。
ただ、ブッダはこの"感情や思考の停止を目指す瞑想"では満足しません。
次のステップである"徹底的に思考する瞑想"についても知りたかったのですが、著者は後の研究に託すと結んでいるため、本書に於いては疑問が残るままとなりました。 -
村上憲郎 シンプル仕事術で推奨
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原始仏教って全然違うなあ。
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読み終わったが、しかし難しい。よくわからない。
仏教が現象学的実在論を根拠にしているのはなんとなく知っていたので、そこを知りたいとおもっていたのだが、よくわからないので他の著書を読むことにした。 -
原典から原始仏教を説く。考える瞑想から生まれた,輪廻思想に対する哲学的回答としての苦楽中道。その中身としての八正道,四聖諦,十二因縁。プラグマティストとしてのブッダ。此縁性の発見から展開されるインド的因果関係論。うん,分かりやすいけど,難しい。現代日本において一般的な大乗仏教的感覚やオカルティックなイメージの密教とは違う,実践的かつ論理的な哲学としての仏教。そこに形而上学は一切ない。
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この本は、半ば期待が満たされ、半ば期待を裏切られた。期待していたのは、ブッダは輪廻を説いたのか、ブッダはヴィパッサナー瞑想つながるような瞑想を説いたのか等々、文献的な検証に裏付けられた明快な答えだった。説得力のある全体的な「初期仏教」像だった。
しかし、たとえば輪廻説についてはどうか。日本では、ゴータマ・ブッダは輪廻説を否定したとする論文も忘れたころに出現し、仏典で輪廻を説く箇所はみな後世の付加によるものとされるという。日本の仏教学者の最大の問題点の一つは、インドに生まれた仏教を、インド思想のなかで捉える努力をほとんどしなかったことだという。もし仏教誕生の土壌となったインド思想界から出発するなら、輪廻思想こそが最重要である。輪廻思想が成立してこそ、解脱へのあこがれが生まれ、出家という独特の生活形態も登場した。ブッダもそういう背景において出家したのだという。
しかし、これらは文献的に異論の出ようのない検証と考察というよりも、当時の思想的な背景からしてブッダの出家や教えは輪廻説を前提としなければ理解できなという推論的な考察であった。これはかなり強力な考察だと思うが、説得力のある文献的な検証ではなかった。一般向けの書物であることはわかるが、もう少しだけ文献的な裏づけをして欲しいと思うところにそれがなかった。
全体として文献的な説得力のある裏づけというより、著者の推論による考察が多かったのが意外だった。それなりに説得力がないとは言えないが、かなり反論の出る余地はありそうだった。
ひとつ非常に不満の残った考察があった。ブッダの目覚めの内容についての考察だった。根本的な生存欲の滅を達成することが目覚めであるが、それは完全な智恵を獲得を意味する。そのための修行法は、「思考停止を目指す瞑想」ではなく、「徹底的に思考する瞑想」だという。ブッダのいう智恵とは、徹底的に分析的な知識のことである。けっして「無分別智」ではないというのだ。
しかし、そうだとすればそれは分析的な知識として言葉によって表現できるものである。そして、それを読んで内容を理解したものは、誰もがブッダと同じ目覚めに達することができるはずだ。そして根本的な生存欲の滅を達成できるはずである。しかし現実にはそうではない。とすればブッダの目覚めの内容を分析的な知識に限定するのは、矛盾している。
著者は、別の箇所で、ブッダの「わたくしが知ったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、微妙であり、思考の域を超え‥‥」という言葉を引用している。思考の域を超えるものは、分析的な知識に還元できないはずである。
これまで日本の仏教学者たちは、口をそろえて、ゴータマ・ブッダが何を解いたのかは文献学上は確定できないと強調してきた。しかし実際は文献学的手法によって、成立がたいへん古い仏典はほぼ確定されており、それらは一貫した体系をもっている。これによって99.9パーセントの確立で、ブッダの教えといえるものを抽出できるという。
にもかかわらず多くの仏教学者が、金口の説法は確定できないという。確定されてしまうと、自らの宗派的な信に合致する「正しい仏教」が紛糾されることを恐れるからだという。驚くのは、とりわけ近年、わが国では、近代仏教学を宗学でもって換骨奪胎しようとする動きが加速ぎみらしいということだ。
この本の随所に、従来の著名な仏教学者の説を覆すような発言が目立つが、そう主張する論理には、かなり粗雑なとこがあると感じた。 -
■ブッダは何を考えたか?
今回の主題である、「ブッダが考えたこと」であるが、自分の認識を非常に改めることになった。小さい頃からお釈迦様とはということを叩き込まれてきたハズなのに、お釈迦様の無とは、仏教という宗教の枠組みからは本来はうかがい知ることができない事なのである。通常、仏教とは大乗仏教と小乗仏教に大別されると認識していた。それが、結婚してはいけないなどの禅宗的な世界観と、肉等を食しても良いという世界観に分かれていたという認識だったが、実際はどちらもハズレており、どちらもあたりであった。
この書籍の素晴らしいところは、いきなり教義を分析していないところになる。当時の時代背景特に、カースト制度との対比、バラモン教の影響、ブッダへの影響等、社会情勢から迫るところが特筆的だ。これが筆者の言う宗教に携わらない人間が神学者をやることの意味であると思われる。つまり、常にフラットな視点で物事を分析出来るのである。
余談ではあるが、ソーマと言う神の飲み物は当時の時代背景から、ベニテングダケからチュ出した幻覚物質であるという記載もある。(Wikipediaでは否定されているが)しかも、いわゆる聖仙は私有財産もあり、家庭生活も営んでいるそうだ。非常に人間的な存在だ。こんなところが本書のつかみであり、まんまと自分は罠にはまっていくのである。(笑)
■哲学者カントとのつながり
p64にドイツの哲学者カントの名前が出てくる。「純粋理性批判」の名のもとに。ここでは、カントのややこしさを省くために、世界の始まりがある事と無い事について、ブッダが答えなかった事柄の事柄と同じであるとある。つまり、原書の仏教においては認識論であり、読めば読むほど、カント的な認識がなされていたであろうことがよく判る。目の前にあるものは◯◯というものではなく、色と形でしか認識されておらず、経験から自らの理性に拠ってそれが◯◯だと認識していると言うのだ。これはカントが言っていた事とほぼ同じである。ただし、ブッダはこれを根拠に我々の非実態性の実在性を無視しようとはしていない。知覚できないからといって、それがそこに無いとも言い切っていないのである。ブッダが経験論者であるからこそ、知覚・認識出来ないものが存在するしないは経験論を超えているわけだ。(経験していないからいないともいい切れないから)
■すべてを知る者
p90にブッダは「すべてを知る者」とある。ここは素晴らしく難解で、まだきちんと理解しないが、経験論者から類推するに、経験則から事柄の始まりと終りを経験から分析し、ある事象の始まりと終りを認識出来ていた、鎖のつながり先がわかっていたと言うことになる。また、知るべき事柄と知らざるべき事柄の境界を認識していたからこそ「解った」のかもしれない。幹だけでなく、必要な枝と葉、そして実がどのようにサイクルにのっかってエコシステム化されるのか、つまり輪廻転生の理を見通していたのだろうか。
■苦楽中道が理解されない
p100について、ミリンダ王の問いがあるが、弟子デーヴァダッタがブッダの苦楽中道というポジションを取ったことにより破僧伽を行う。そして厳しい修行を行うことになるのだが、輪廻転生という概念は日本では幸せな意味合いに捉えがちだが、インドは違った。再生があるならば再死も存在する。もう一度死ななければ行けないのは嫌だと言うのだ。だから、解脱すると。生地獄なのだと言うことらしい。そして、その苦しみから人々を開放してあげたいというのだ。肥大化した全知と肥大化した慈悲が合わさると何事も暴走する。幕末の志士達のように。第二次世界大戦時の軍部のように。ミニマムはゲリラ的なテロ行為だし、マキシマムは戦争となる。
■プラグマティズム=実際主義
p128ではブッダの修行への向き合い方が詳細に書かれている。プラグマティズム=実際主義というべきもので、悟りを開いた当初はいわゆる修行(滝に打たれるような)を行っていた。質素で貧しい乞食のような生活を送るのである。しかし、出家集団が肥大化するとそうもいってられなくなり、不殺生戒からするとどうかと思うが、肉・魚を三聚浄肉という条件が揃っていれば問題ないとしたそうだ。ただし、これは上座部仏教(小乗)と大乗で大きく異なるのは、大乗が前者であり、上座部仏教が後者を広めたものであるからだ。日本では上座部仏教が比較的精力的には大きいと思われるが、大乗仏教(禅宗)はよく断食や精進料理などでお目にかかるものである。なんて日本はおおらかなんだ。これからも分かるように、ブッダは実際主義だからこその対応だ。人が増えてきたときに、こじんまりした組織ならできた話しも、組織が肥大化すれば難しくなる。そこで自らが緩和することで、人々の心に平定をもたらすと言うことだったのかは分からないが、そういう事ではないだろうか。
そういう意味だとキリストもアブラハムも実際主義だと思われる。人々を率いるためには柔軟に対応していかなければ、自分以外が困るわけであるから(もちろん、他にも理由はあるにせよ)生き残るための術だったのだと私は思う。
■Twitter身体論に近い無常観
先日から、興味を持ってみているTwitter身体論であるが、ブッダもこのように語っている。
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ること無く修行を完成させなさい」
Twitterの様に川のように流れ出て行ってしまうのは人生そのものである。過ぎた事に執着していては目の前のことにすら取り掛かることが出来ない。人の命は限られており、平等だ。明日死ぬかもしれない。この言葉はブッダが入滅する直前に残した言葉であった。親鸞聖人も同様のことを残している。
「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」
■哲学者であったブッダ
哲学を最近読み始めているわけだが、特に自己境界線についての考察が大半である。無とは己を捨てることと言われるが、実際は我を無くすと言うよりも、我以外を無くすという事ではないだろうか。死ぬ間際のブッダは以下のとおり述べている。
「それゆえに、この世で自己を島とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、正しい教えを島とし、正しい教えを拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ」
他人を頼らず、正しい法を見つけ、それを拠り所にし、それ以外に依存するなということである。この時教えというのはブッダの教えを守れではない。教義は死後出来上がっているから、当時の法律に相当するものと解釈するようだ。また、ブッダは私は導かない、教えは説かないと話しをしているそうだから、確かなのだろう。また、ブッダは悟りの境地は自らで見つけるしか無いと悟っていた訳で、アドバイスは与えるが、答えを見つけ出すのは自分としていたと考えられる。強烈な自己の存在である。むしろ、他者の存在との明確な境界線がそこにあり、自らが影響を与える範囲は自らの中にしか無いと言っている。これはカントが純粋理性批判で話していることとそう違うことではない。ただし、そういう自分自身には興味が無いからこその無我の境地であり、無心ではないのだ。現在のワガママと我は同義ではない。これらのことから、筆者も書いていたが、私も同様の感想をもった。ブッダは宗教家というよりも間違いなく哲学者なのだと。カントがキリスト教信者だから純粋理性批判がキリスト教が根底にではなく、突き詰めた自己解釈は原初宗教論に行き着くのではないだろうかと言うことだ。従って、私はカントはブッダに近いなと感じたのである。
■まとめ
初めての宗教書の感想なのでまともに書いてあるかはわかないが、少なくとも私の想像していたお釈迦様と実際のお釈迦様との間には相当なギャップがあり、もっと人間的であったということだ。歴史上の偉人の人物像など、後世の歴史家や一般大衆によって印象を積層していった結果であるからあてには出来ない。しかしながら、このようにバイアスの余りかかっていない(と自称でしかないが)ものを読むに連れて、つくづくこの手の書物は原著を読まないと真意は分からないものだなと思う。
しかしながら、本著は非常に優れたバランスの上で書かれた書籍であることは間違いない。個人の感情ではなく、調査と分析から非常に論理的に書かれているため、理解しやすいのである。(もちろん、言い回しが難解な部分が所々あるが、純粋理性批判の入門訳本よりまし)