大峯千日回峰行 修験道の荒行

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  • 春秋社 (2007年3月17日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393135402

大峯千日回峰行 修験道の荒行の感想・レビュー・書評

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  • 桜井識子さんの本で紹介されてて読んでみた。対談集。
    予想してたよりずっと面白かった。千日回峰行とか四無行ってあまりに荒行でびっくり。ひさびさにこういう厳しい話を読んだ。今風ではない。
    ただ、わが身を振り返り、本当に甘ったれてるな~と思ったわ。。。
    以下、ちょっと引用しておく。
    -禅師様のおっしゃるとおり、人間はだめだと思ったらそこで終わりです。そうではなくて、自分ならできると自信を持つことです。自信と過信は違います。自分の努力に対しての自信です。だから、絶対にあきらめないこと。粘り強く、根気強く、ぼちぼち、です。あとは常に心を明るく持つこと。心を明るく持つことによって、どんなマイナスでもプラスに変えることができるような気がします。
    -志とは何か。‥‥本当の志というのは、自分自身に納得すること。~人間だけが自分を滅してまでも、自分自身に納得したい、いのちを充実させたいと思う生き物です。

  • 1968年生まれの仙台市慈眼寺住職の塩沼亮潤大阿闍梨に、1927年生まれの曹洞宗大本山總持寺元貫首の板橋興宗禅師が話を聞いた対談。
    塩沼大阿闍梨は、1987年に吉野の金峯山寺で出家得度し、1999年に大峯千日回峰行満行、2000年に四無行満行、2006年に八千枚大護摩供を満行している。
    大峯千日回峰行とは、吉野山・蔵王堂から大峯山山頂にある大峯山寺までの往復48km、高低差約1,400mを15時間かけて歩くことを、1年のうち(山頂が雪から解放される)120日間×9年続けるものである。また、四無行とは、食べない・飲まない・寝ない・横にならないの四つを9日間続けるもの、八千枚大護摩供とは、100日間五穀(米 大麦 小麦 小豆 大豆)と塩を断ち、その前行成満後すぐに24時間、食べない・飲まない・寝ない・横にならないで八千枚の護摩を焚き続けるものである。
    この類の荒行は比叡山延暦寺が有名で、比叡山の千日回峰行は過去40数名が満行し、二度満行(3人目)した酒井雄哉大阿闍梨(2013年逝去)は多数の著書も出しているが、吉野山で満行したのは塩沼大阿闍梨が過去1,300年で2人目だという。
    本書を読んでまず驚くのは、大阿闍梨が出家するまでの子供時代である。当時を知る知人が「当時、仙台市内であのような水準の生活をしている家庭があるのを見たときには、愕然とした」と語るような極貧の生活を送り、両親は中学生の頃に離婚したのだそうだが、大阿闍梨は小学5年生のときに酒井大阿闍梨の比叡山千日回峰行をテレビで見て以来、回峰行者になるという気持ちを失うことなく、身体を鍛え続けていたのだという。そして、高校卒業後には、敢えて、比叡山よりも行程が長く、過去の満行者も少ない吉野山金峯山寺の門を叩く。
    本書で詳しく語られる大峯千日回峰行、四無行、八千枚大護摩供の荒行は、生身の人間に堪えられるのが不思議なくらいの凄まじいもので、ただただ圧倒される。
    そして、そうした荒行を経た大阿闍梨が語るのは、「生まれ落ちたところ、それはだれが定めたものでもない。偶然のところにみんな落ちていく。人間もいろいろなところに縁を通じて、いろいろなところに生まれてくる。その与えられた環境のなかで生きていくわけです。でも、お天道様は毎日同じように昇ってきて、万民に対して同じ時間、照らしてくれる。また、同じように沈んでいく。空気も水も、みんな仏様は平等に授けてくださっている。・・・やはりいろいろな中で人間というのは生きていかなければなりません。・・・不平不満もあまり言わなくていい。生き方次第で明るくもなるし、もののとらえ方次第で明るくもなる、幸せにもなる。行を通じていろいろなことを教えていただきました」という、至極シンプルなことである。
    今最も注目される僧侶のひとり、塩沼大阿闍梨の原点に触れることができる。
    (2015年10月了)

  • 2014年11月4日読了。

  • 塩沼氏の幼少のこと、修業中に感じたことなどがよく分った。自然を受け入れながら、自分のやりたいことをして、そこから学んでいくこと。感謝と反省と思いやりを大事にしている塩沼氏の生き方から学べるもとが多い。

  • 板橋興宗
    彼にも興味が湧いた。
    塩沼さんの本自体では、致知の本のほうがよかった。

  • 日に三度のご飯が食べられて、空気も水も光も平等に与えられているのに、どうして人は不平不満ばかり行っているのだろう。

    大峯千日回峰行ルート
    吉野蔵王堂~水分神社~金峯神社~青根ヶ峰~四寸岩山~百丁茶屋跡~大天井が岳~小天井岳~山上ヶ岳(大峯山寺)

    百日回峰行 5月3日から8月10日まで毎日。前半の50日は、行きに1日帰りに1日。そのあと50日は日帰り。
    そのあとに千日回峰行。

    山を歩くのは5月3日から9月22日まで。
    あとの4ヶ月は体を戻し、そのあとの4ヶ月で準備。
    午前0時前に起床(午後11時25分)、滝行を行う。
    0時30分に出発。百丁茶屋跡で夜明け、朝ごはん。8時半に大峰山の山頂、山上ヶ岳に到着。昼食。午後3時半に蔵王堂に戻る。

    行者は、追い込まれれば追い込まれるほど楽しい。自分自身をかばったらドツボにはまって精神的に参ってくる。

    体の中を綺麗にするために、スナック菓子や清涼飲料水は取らない。
    最初に断食を繰り返して空腹感を無くす。

    修験道は神仏一体の宗教。神仏習合の賜物。
    行者が山伏。

  • p15
    小学校三、四年のころは、ずっと母も寝たきりでして、友達の家にお世話になることが多かったですね。一年の三分の二ぐらいは近所の友達の家でご飯を食べたり、お風呂に入れてもらったりしました。家にはお風呂がなく、週に二度ほど銭湯に行っていました。このように友達の家でお風呂を貰ったり、ご飯をもらったり、みんなで助け合って、私を育ててくれたんです。

    p21
    親が見ているところだったら、酒でもビールでもたばこでも、何でもやっていいんです。ただし、見ていないところでやったものに関しては、一切私は責任を負わないと。

    p37
    ストレートに行くのもそれはそれで感謝ですし、回り道をしても感謝です。いい出会い、悪い出会い、どちらもやはり感謝していくことが、私たちお坊さんにとって一番大事なことであると思います。

    p45 千日回峰行
    よく連続して千日間歩かれるのですかと、皆さんから聞かれることがございますが、そういうことではございません。
    山を歩く期間は五月三日から九月二十二日までと決められているんです。その約四ヶ月を目途に百二十日を悪くわけですけれども、まず五月三日に大峯山の「戸開け式」という儀式がございます。

    p46
    山開きです。九月二十三日の「戸閉め式」以降、翌年の「戸開け式」が行われるまでの期間は危険ということです。

    大峯山では戸閉めのころ、すでに山頂には霜が降りはじめますので。八月十日を過ぎると山はもう秋になります。身体も非常に冷えてきますので、体力的な面からも、この四ヶ月を目途にというのが回峰行の決まりになっております。

    四ヶ月間を行で過ごしまして、その後、年末にかけての四ヶ月で衰弱した身体を元に戻し、年明けの後の四ヶ月で、行に向けて体力づくりをするというのが、おおまかな一年のスケジュールになっております。
    毎年、回峰の行を終えて一週間の休みをいただいて、あとは作務に戻ります。ところが、血尿が出るくらいまで極限まで身体をずっと追い込みますので、なかなか体調が戻らないのです。その年の行が終わりますと、けっこう心臓が、ご飯を食べていても不整脈になったり、ちょっと横にならないと元に戻らないような状態になったり、ふつうの生活に戻るまで数ヶ月はかかるんです。そして、年明けから四ヶ月でいろいろな用意をしながら体力づくりをしてということで、全部で九年がかりの行になります。
    ちなみに、百日回峰行の百日は、後半の五十日が千日に加算されますが、前半の隔夜の五十日は加算されない決まりです。
    (板)一年で百二十日歩いて、九年がかりですか。そうして千日を行ずるわけですね。

    p54
    栄養バランスという点では、まったく栄養失調状態になりますので、行が始まって一ヶ月ぐらいしますと爪がぼろぼろと割れてきたり、三ヶ月目になりますと、血尿が出たりもします。尿に血が混ざったりするわけですが、そういうふうに体力的にも限界に近い、非常に追い込まれたなかでの行になります。

    p55
    追い込まれれば追い込まれるほど、普通は自分自身をかばってしまうんですけれでも、かばったらドツボにはまります。どんどん精神的にまいっていきます。追い込まれれば追い込まれるほど、自分ならできる、と自分自身を信じなければならないんです。それで、どんな困難も乗り越えられます。それしか自分たちにはありません、それが決めごとですから。
    もし万が一、途中で行をやめるようなことがあったら、腰に巻いてあるひもで首をつるか、あるいは腰にさしてある短刀で自分の腹を切るか。死して行が終わるという定めの行なのです。

    p56
    われわれが学ばなければならないところは、ここですね。ともすると、ちょっと体調が弱ったからといって、つい必要以上に身体を大事にしてしまうんですね。これではだめなんですね。一度引っ込み思案になって、これはだめだと思って、だめなほうに目を向けたら、本当にだめになってしまうんです。そういうとき、だめなほうに目を向けないで、よしやってやるぞと、いつも前向きの姿勢ですね。これが大事なんですね。
    これがなかなかできないんですね。身体のことですから。ノーベル賞をもらうような人は、夜中でも研究をつづけるということがありますけれど、そんなに栄養も取らないで、血尿も出て、なおかつ体力を酷使するkとをやるというのは、本当に命を捨ててやるようなものですね。

    p59
    毎年のことだったんですけれども、行の始まり、始まって一週間とかすると鼻血が止まらなかった。歩いているときにワーッと鼻血が出てきて、日本手拭いが一本丸ごと赤くなるぐらいでした。それでも歩くことをやめることはできない。一分一秒がもったいないので、手拭いで押さえながら歩いておりました。

    p62
    歩行禅、と私たちは聞いております。必ず腰を入れて、顎を引いて、姿勢を作って、それで呼吸をなるべく深くしてやる。そうすることによって精神が乱れない。雑念が入らずに歩くためには、まず姿勢からです。

    p64
    調子が悪いからといって、そこであきらめるのではなくて、調子が悪くても、昨日の勤行よりも今日の勤行、今日の勤行よりも明日の勤行という、日々向上する姿勢というのは、非常に大事だと思います。山も昨日より今日、今日より明日、なにか自分自身を向上させようという、貪欲な向上心が大切です。
    はじめはできなかったんです。でも、だんだん行を重ねていくごとに、今日はだめだから・・・・・・、ということがなくなりました。たしかにいい日、悪い日、必ずあります。良くても悪くても、最後は百点満点に自分自身がまとめられるか、まとめられないかというのは、自分の精神の持っていき方、気持ちの持っていき方次第です。
    どんな日でも今日はよかったな、ということがだんだんできるように千日回峰行の中でなりました。それまでは、今日はだめだなと思って、そこで後手後手に回って、今日は三十点だ、四十点だと言っていたんですけれども、それが五百日くらいまで行ったときには、すでになくなっていたような気がします。
    自分自身の問題です。身体の調子、精神の調子が悪いからといって、この大切な今日一日を無題にするわけにはいかない。最後は何としても充実した一日に、百点満点にまとめることができるように、ということです。

    p74
    自分を甘やかそうと思ったら、いくあrでも甘やかせます。千日回峰行といいましても、手を抜こうと思ったらおそらく手を抜けるかもしれません。たしかに四十八キロを行って帰ってくるところは、みんなが見ています。大事なのは内容なのですけれども、その内容はいくらでもごまかすことができるのかもしれません。
    でも、自分に正直に、一生後悔のないようにと思ったら、一歩一歩真剣に、ていねいに、あるいは素直に、正直に行じたいという気持ちになります。これはその行者のこころだと思うんです。

    p75
    人間というのは、人の目はごまかせても、自分自身の心は絶対にごまかせません。どこで手を抜いたかというのは、自分がいちばんよくわかることだと思うんです。
    ですから、甘やかそうと思えば甘やかせるけれども、一方で、行というのはあまりにも自分自身を追い込み過ぎたら死に至ってしまうわけです。死んでしまっては意味がありません。
    死なないように、また甘やかさないように、ちょうどいい按配のことろで、自分自身をずっとそこに、耳をすまして、心を研ぎ澄まして、自分自身というものを自分自身に問いただしていくんです。まだ出会えぬ自分に気付くために・・・・・・。
    それがある意味、こういう表現はどうかと思いますけれども、非常に心地よいのです。

    ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けません。自分の心というのは自分の心でしか磨けないと思うのです。

    p92
    (板)ちなみに、千日回峰行を満行されたのは、平成十一年九月二日ですね。満行されたときは、どういうお気持ちでしたか。
    なんともなく平常心でした。どんな苦しみも過ぎてしまったら、ただの思い出にしか過ぎなくて、今はそれすら忘れかけております。

    p94
    九百九十九日目の夜、なかなか眠れなくて色紙を何十枚か書きました。「九百九十九日、人生生涯小僧の心」と色紙にたくさん書いたのです。

    p98
    あるいは人生も怖いものと思って用心をしながら、努力をしていく。決してあなどったり、うかつなことをしたら、自分自身に帰ってくるということを、いろいろな経験の中で痛い思いをして、身をもって勉強させていただきました。

    p99
    いい日、悪いひがあっても、常に思いやりを持つこと。自然に対しても、人に対しても、思いやりを持つことです。これが大事だと思うんですよね。それが山であったり、いろいろな草木であったり、鳥の鳴き声、雨音、蜘雲の流れ、そういうものも全てそうです。
    例えば、ぼたぼたと傘に雨が落ちます。自分が昨日まで流した涙が、雲になり雨となり、そしてまた傘におちる雨音となり、がんばれがんばれと励ましてくれているんだな、そういうふうに思えるようになりました。何にでも心を開いて、何かを求めようとしたときに、山は何かを教えてくださる。常に謙虚な姿勢で臨むことを学びました。

    p101
    (板)平成十一年九月二日に千日回峰行を満行されて、四無行は、平成十二年九月二十八日から八日間、あしかけ九日間、十月六日までなさるわけですが、回峰行を終えられて一年ちょっとえすね。四無行は千日回峰行を満行した後でないとできなのですか。

    ええ。私も聞いた話でありますけれども、千日回峰行をすると心臓に非常に負担がかかります。それに耐え得るだけの心臓ができるから、この四無行ができるんだよと、お師匠さんから聴きました。ですから、千日回峰行を終えた人が四無行をやるという流れになるとお聞きしました。


    断食・断水・不眠・不臥、つまり、食べない、飲まない、寝ない、横にならない。この四つがなくて四無行という行なのです。

    p105
    三日間断食して、また戻してということをやって、最後の三日前から、断食状態に入りました。少しずつだんだん食を削っていって、一週間前からさらに削っていって、三日前から断食状態に入りました。
    断食状態に入って、一日一回だけ米と五穀を削ってつぶしたものをそのまま流し込むという食事だけで、ほぼ断食状態でした。ですから、きょうから行に入りますというときには、空腹感は全然ない状態でした。

    p108
    (板)飲まない、食べない、寝ない、横にならないという四つの中で何が一番きつかったですか。

    飲まないことが一番きつかったです。その次に、寝ない、横にならない、食べないでしょうか。眠気のほうは三日目までで、三日目を過ぎると眠気はもうなかったです。ただ水のつらさは最後まで克服できなかったですね。

    p111
    入堂して三日目ぐらいでしょうか。ちょうど三日目、四日目ぐらいから、私の脇についていた助法の方が死臭がしたということを後で教えてくださいましたけれども、おそらく生きるか死ぬかの瀬戸際だったんだと思います。

    p112
    目の前で、線香を九日間絶やさないのですけれども、その線香がずとと燃えていったときに、折れて下に砕ける瞬間がスローモーションのようになって、灰のところに落ちるのが見える。落ちたときにドーンという音が、普段は聞こえないのですけれども、聞こえるんですね。

    p120
    たしかに追い込まれれば追い込まれるほど、人間というのは攻めの姿勢でいかなければいけないなということは、行を通して学んだことです。どうしても人間というのは、精神的、肉体的に追い込まれると、どんどん自分で悪いこと、悪いことを考えていく。それで泥沼に入っていきます。
    でも、現実を受け止めて、なるようにしかならん、どっちでもなるようになるんだと、すべてもうお任せするという気持ちが大事ですね。それで、なお攻めていく。

    p129
    碑伝を書いている時、助法の方が私の後ろでむせぶように泣いているんですね。後ろでしくしく泣いているんです。「何で泣いているの」と聞いたら、「自分でもわからないです」と。私の姿を見て泣いているんです。何で私が書いている姿に涙するのかなと思いました。
    いまも会うたびに聞くんです、「何であのとき泣いたの?」って。「わからないです、自分でもわけがわからないけれども、姿を見ていただけで涙が出てきました」と言ってました。
    私自身ではよくわからないんですけれども、極限で行じているときの姿というのは、人間は清らかできれいなのかなと。理屈抜きに、清らななのかなと思いました。

    p132
    八千枚の大護摩供というのは、まずはじめの百日間、五穀(米、大麦、小麦、小豆、大豆、それに胡麻)と塩を断って、それで最後の二十四時間で護摩を八千枚焚くという修行になります。五穀断ちですので、醤油もだめ、味噌もだめになります。

    p133
    身体が重いようなかんじがしました。三日過ぎてから、塩を取らないせいか非常に記憶力がなくなるんです。さっき自分は何をやっていたんだろう。これもしなければ、あれもしなければと思うんですが、すぐに忘れてしまうんですよね。塩を取らないせいだと皆さんおっしゃるんですが。それが十日ぐらいしますと、不思議なことにかえて頭が冴えてきまして、普段より三倍ぐらい本を読むスピードが上がったり、記憶力が非常によくなって、あとは楽になりました。

    p143
    人間はだめだと思ったらそこで終わりです。そうではなくて、自分ならできると自信を持つことです。自信と過信は違います。自分の努力に対しての自信です。だから、絶対にあきらめないこと。粘り強く、根気強く、ぼちぼち、です。後は常に心を明るく持つこと。心を明るく持つことによって、どんなマイナスでもプラスに変えることができるような気がします。

    p160
    明治神宮にお参りする人々は、明治天皇にお参りするという意識はあまり持っていないと思います。やはり、あの森です。ただし、明治天皇のお徳が、あれだけの森厳さを作ったのでしょう。いまから百年ぐらい前のことです。日本人は山や森林の深さ、そういう神秘さを感じさせるものに敏感な魂を持っていますね。これは日本人の宗教心、魂の根源だろうと思っています。

    p166
    日本人は本来、いわゆる山岳信仰、自然宗教ですね。大きな山を見たり、大きな木を見たり、大きな岩を見たりすると、畏怖の念を抱いたようです。そのときに、すべてに霊魂が宿るという意味でアニミズムという宗教用語がよく使われるのですが、西洋の一神教から言いますと、これは最も原始的な宗教なんですね。
    原始的というのは、素朴な、根源的な、粗野なという意味です。しかし人間の動物としての感情に訴えるアニミズムこそ、人類の最も自然な宗教感情だろうと思います。だから、西洋の一神教が成立するまでは、みんなアニミズムの宗教だったろうと思います。
    アニミズムの宗教は、どうかすると邪教にもなるんです。祟りとなったり、悪魔になったり、そういうことで弊害もあるわけです。それらを正そうとするのが西洋の一神教ですね。ところが、人間にとってアニミズム的な感情というのは、最も自然な感情だと思います。

    p171
    役行者は「身の苦によって心乱れざれば、証果自ずから至る」というご遺訓を残されました。苦行をすることによって、心が乱れず、平常心で普通にいられることが、いわゆるひとつの悟りであるということですね。

    p172
    人間は自分を甘やかしたらどんどん甘えていきますので、甘えた自分をきちっと改心させるために、本来の人間の姿とはどうあるべきなのかと、徹底的に自分自身を鍛えるのです。死んではいけませんけれども、死ぬ一歩手前まで自分自身を追い込む。自分自身の心がどうあるべきかということを問いただすために、厳しい修行を通じて自分自身をどんどん深く掘り下げていくのです。
    ただ、苦しめばいいとか、苦しい思いをすればいいとかいうのとは違うんです。いかに行を通して自分自身の心を見つめて、邪心をいかに抑えて本心を引き出してくるかということが大切です。常に新しい自分と出会っていく。これが行にとって一番大事なことであると思うんです。
    山でいくら千日回峰行をしました、こんな荒行をしました、断食をしましたといっても、人間はつらいもの苦しいものに対して、それに耐える気持ちがおのずとそなわっていて、力と勢いがあれば、それに強く立ち向かうことができると思うんです。
    ところが、いったん行が終わりましたというときに、甘いもの、やわらかいもの、ぬくいもの、そういうものには非常に人間の心は弱いのです。では、そういうものを、行が終わったときに、どう克服できるのか。人間は追い込まれたら一生懸命に頑張ります。しかし何もしないときに、自分自身をどう精神的にコントロールして追い込むことができるか、そのへんも含めて修行をしないと、行が終わったときにはもぬけの殻になります。
    ですからそういう意味でも、もっとさらに一歩、また一歩、自分自身を突き詰めていかなければならないというのは大事なことではないかと思います。それが修験の修行です。

    p180
    行の終わりの頃は、自分の思いの中では、右足に「素直」、左足に「謙虚」というわらじを履かせて歩いておりました。「素直、謙虚」、「素直、謙虚」と、ただそれだけです。あとはひたむきに、心はひたむきに、一歩一歩、「素直、謙虚」と。それだけしか考えずに、歩くというよりは歩かせていただくという気持ちに変わってまいりました。

    p181
    (板)私はそれを、いつも「ありがとさん、ありがとさん」と自分でつぶやいております。何々に感謝という観念でやっているんではないです。いまの一刻一刻に目を向ける。自分自身を見つめるために、私は「ありがとさん、ありがとさん」と心の中でつぶやくように努めています。

    p183
    人間だけがいろんなことでつまづく。子どものときには邪心がなくて、無邪気というのでいいのでしょうけれども、大人になるにしたがって、いろいろな欲望にがんじがらめになって自分自身を苦しめている。
    そんな苦しみから自分自身を開放するために、本来の姿、あるべき姿を訪ねるために山に入っていく、大自然の中に入っていくということではないかと思います。
    山はいろんなことを教えてくれます。悪いことするなよ、人を思いやれよ、ああなりたいこうなりたいと欲を出すなよ、くよくよするなよ、あれこれ思い悩むなよ、そんなに悩むほど人生悪いもんでもないぞと大自然が教えてくれます。それを素直に受けいれると、少しずつ仏さまに近づいていくのです。大自然こそが最高の教科書だと思います。

    p193
    雨降れば雨、風吹けば風、あるがままお山と自分がひとつになることです。毎日歩く同じ山でも非常にやさしいときと厳しいときがあるんです。それは春のおだやかな日に蝶々が飛んで、一輪の山野草が咲いて、風もなく、ほがらかな日もあれば、一転にわかにかき曇って、厳しい嵐のときもある。でも、いつもと変わらない同じ道なんですね。
    これを、一般の生活に置き換えた場合、つらさ、厳しさ、あるいはやさしさ、そういうものが人生の中で巡りくると思うんです。でも自分の人生には変わりない。そのつらさ、厳しさ、やさしさの中で、いつも心豊かに生きること、あるがままに気付くことです。気付いた時には悟ります。あれ、環境は前と何も変わってないなと。

    p197
    結局それを自慢するなということだと思います。千日回峰行とか四無行と言われると、人と変わった行です。人と変わったことをすることによって、人も変わった目で私を見ると思うんです。そういうときに、自分自身を見失うな、行じ終えて人として何が一番大切かということを改めて自分に問いなさい、原点に立ち返りなさい、そういう意味ではないでしょうか。

    p200
    自分のああしたい、こうしたいとい願望とか夢とかは、常にだれでもあると思うんですねそれが達成されて百点満点ですけれども、人生、必ず自分が思ったようにならないのが当たり前です。例えば一生懸命がんばっても五十点だったり、結果が七十点の時もあります。でも七十点でも、これがいま与えられたものだ。ゼロより七十点のほうがいいと感謝する。
    だから、いろいろな現象に対して、起きてくる物事に対して感謝する気持ちを持つことです。そうすると不平不満を言わなくなりますね。人間というのは愚痴っぽいので、自分の思い通りにならないと不平を言いますからね。そうではなく感謝です。

    p201
    期間と距離が長いと、どうしても人間というのは基本を忘れてくるんですね。感謝する気持ちというものがどうしてもなくなる。一歩一歩の繰り返し、その繰り返しで、だんだんそれができてくるようになるのではないでしょうか。何事も基本に忠実に、根気よく丁寧にということです。

    p209
    いまは因果応報というのですか、やったことは必ず返ってくるということを自覚しておりますから、絶対に愚痴は言わないようにして、ありのままを受け入れ、急がず、焦らず、背伸びせず、大らかにのびのびと、というふに変わってきました。

    p210
    (板)どのような結果になり、どんな出会いになっても、それを愚痴らないところが大切ですね。もし失敗しても、失敗という出会いですね。そういう判断は、心が落ち着き頭が静かになっていると自然に判断がつくのです。

    p211
    (板)結局、修行というのは、グチグチ考える思考のさざ波を、だんだん鎮めていくことなんです。坐禅をしていると、自然な深呼吸になって、セロトニンというホルモンが分泌されて、あまりグチグチ考えないようになります。
    自然にセロトニンが分泌されるような状況になるわけです。頭も身体も自由なニュートラルな状態になるのです。そんあときだったら、何を見ても輝いて見えます。

    p221
    人から愛されるより人を愛していく立場に。自分の夫であったり、子どもであったり、愛情なり、友情なり、そういうものを深く、みんなで何か一歩前に進んでいかないといけない時代だと覆うのです。
    声を大にして何かを叫ぶより、一隅を照らすことを淡々と、ですね。そして背中には、世の中の人がみんな幸せになるようにという願いをもって。

  • 与えられた全ての環境に感謝。
    全ての自分の行いは自分に返ってくる。
    他人をどうこう言う前に自分の器を大きくする事が一番大事である。
    当たり前の事だが、今の自分には大きく響いた。

  • 以前比叡山での千日回峰行を行った方の本を読んで、その自然にいきる様に感銘を受けた。今回はそれよりもっと過酷と言われる吉野での千日回峰行を満行した方の本を読んでみた。やはり共通していたのは、その行がすごいのではないということだった。もちろん行の過酷さや厳しさをつづっているのではあるが、そこから苦労や苦しみ、いわゆる苦行のイメージがわいてこない。むしろ自然に生かされていることを実感した者から伝わるやさしさのようなものを感じた。それこそがこの行の意味であるのかと思った。

  • 千日回峰行のことは、この本で初めて読みました。
    その荒行については、その修行や最中のお話にただ驚きました。しかし、それ以上に普段の考え方などについての言葉が印象深かったです。その荒行を成し遂げたからこそ、その言葉に説得力が宿り、胸にしみいるのでしょうね。

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