- Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
- / ISBN・EAN: 9784393135402
感想・レビュー・書評
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塩沼氏のことは、これまで出会った人との話の中で何度となく出てきたり、テレビの対談番組などを観たりして存じ上げていたのだが、新年にあたり、今年一年をどう歩んでいこうかと考えていたときに本棚で積読になっていた本書を手にとった。
千日回峰行、四無行、八千枚大護摩供など生の限界に挑み、文字を追いながら何度か驚嘆の声を上げてしまったほどの荒行を乗り越えられる氏のお姿は、さながら現代版役行者というにふさわしい。そんな氏のお話は、さすがに苦行を乗り越えられた行者ということもあって、全体としてピュアで清浄なる印象を受けるが、同時に幼少期のころのご苦労や、人間関係で悩まれたエピソードなどをありのままに語られていたり、「千日回峰行、四無行をやって、あなたはどんな人をも受け入れること、理解することができますか、と言われますと、できませんと答えざるをえません」などと率直に語られる部分もあり、深い人間的魅力を感じさせるのである。板橋ご老僧の引き出し方も絶妙である。
何度も反芻したい珠玉の言葉が散りばめられたこの対談は、折りにふれ読み返したい本となった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
まず、大峯千日回峰行について、
奈良の吉野山、蔵王堂(364m)からスタートして、山上ケ岳(1719m)までを往復、時間は夜中1時過ぎから15時か16時くらいまでかけて。距離にして48㎞。
時期は5月3日から9月22日まで、約4か月で120日を歩く。
山を下りている時に、体を元に戻したり、翌年に備えて体力づくりをしたりして、9年かけて千日を行ずる。
と書くととても簡潔に終わってしまうが、これは我々俗人にとって想像できるものではない。
5月3日から9月22日までは、雨が降ろうが台風がこようが、雷が落ちようが、体調が悪かろうが、休んだり、途中でやめることは許されない。やめるということはそこで命を絶つこと、すなわち命がけである。
山での食事は小さなおにぎり2個と水のみ。
まさに命を削っての修行。
この行に入る前に、百日回峰行というのをやられていて、また少しやり方は違うが、その行で体を慣らしたり、様子を見ていた師匠から、千日回峰行の許可を得る。
平成11年に無事千日回峰行を終えると、翌年今度は四無業(しむぎょう)を行う。
四無業とは、食べない、飲まない、寝ない、横にならない。これを九日間行う。
ただじっと座っているのではなく、一日に、何度か井戸まで水を汲みに行ってお供えするだとか、念仏を20万遍唱えるだとか決まりごとがある。
自分は飲むこともできない水を汲みお供えする、だなんて。これは、千日回峰行の出発場所だった、蔵王堂の中にこもって行われる。
千日回峰行にしても、四無業にしても、人間の限界を超えていると言える。
塩沼さんは、小学五年生のとき比叡山での回峰行をたまたま見て、自分もやるんだと決めたという。
生い立ちは両親の離婚後、病気がちの母親と祖母の三人で、暮らしに困るような生活だったが、周りの人たちの支えで高校まで卒業して、吉野の金峯山寺の門をたたかれた。普通だったら横道にそれても不思議ではない家庭環境で、真っすぐやるべきことをやる姿に、周りの人もいろんな援助の手を差し伸べるという、まさに進むべくしてこの道に入られたように感じる。
千日回峰行の九百九十九日目の夜、眠れなくて色紙に書かれた「九百九十九日、人生生涯小僧の心」塩沼さんの心根は、この一文に尽きると思う。 -
人間の範囲を超えた過酷で壮絶な千日回峰行の先に見える世界
成し遂げたことを捨て去り、自然を認識して、人との関わりを大切にする
宗教や修行の意味にはじめて触れた気がする
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行とはどんなものか興味があったので読んでみた。
対談形式で書かれてあり読みやすかった。
回峰行をした方は、その発言から落ち着いていて誠実、謙虚であることが感じ取れました。
学ぶべきこと、見習うべき考え方があった。 -
凄絶な修行・修業
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このような本に出会えたことに感謝します。「歩行禅」を読み、こちらを読み、また、歩行禅を再読したくなりました。
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【注:本レビューは,旭川高専図書館Webサイトの「私の推薦する本」に掲載した文章を,執筆者の許可を得て転載しています】
Quae sit sapientia,disce Shugendo.
本書はジャケット買い(ジャケ買い)した。
表紙の写真には,白装束に身を包んだ修行僧が大峯奥駈道(奈良の吉野の山々)を進む後ろ姿。中景。霧に霞んでいる。表紙左上にフォントサイズ57ptの赤縁白抜きで「大峯千日回峰行」の縦書き,副題に「修験道の荒行」とある。
てっきり大阿闍梨の修行ドキュメントか荒行解説の本かと思ったが,然に非ず,塩沼亮潤大阿闍梨(しおぬまりょうじゅん・だいあじゃり)と板橋興宗禅師(いたばしこうしゅう・ぜんじ。大本山総持寺元貫首,曹洞宗元管長)との対談をまとめた一冊である。
題名は恐ろしいようなものであり,また,大阿闍梨と曹洞宗管長との対談とは畏れ多いようなものであるが,本書の実際は,気さくなお二人の和気に溢れた語らいである。
塩沼 禅師様のおっしゃるとおり,人間はだめだと思ったらそこで終わりです。そうではなくて,自分ならできると自信を持つことです。自信と過信は違います。自分の努力に対しての自信です。だから,絶対にあきらめないこと。粘り強く,根気よく,ぼちぼち,です。(143頁)
板橋 何が煩悩かといったら,それを愚痴ることです。愚痴るというのは,人間だけですね。(210頁)
本書「おわりに」に板橋禅師がいう,「以前から比叡山の酒井雄哉阿闍梨さんの『千日回峰行』のことを知り,人間の範囲を超えた猛修行ぶりに,畏敬の念を抱いておりました。/それを若い青年僧,しかも同郷の仙台出身の僧がやり抜いたことに驚き,深い敬愛の念を抱きました。…中略…/阿闍梨さんのような青年僧がおられることを知り,この日本の将来にも希望が持てる明るい気持ちになりました。ありがとうございます。嬉しいです。」(228~229頁)
共に宮城県出身のお二人であるが,年齢には41歳の開きがある。
板橋興宗禅師は,残念ながら昨年(令和2年)7月老衰で亡くなった。93歳であった。
塩沼亮潤大阿闍梨は現在も,福聚山慈眼寺(宮城県仙台市太白区秋保町)の住職を務めながら,講演や雑誌のインタビュー,地元ラジオへの出演など,各種メディアをとおして「執らわれない心」の大切さを説いている。清々しい修験僧だ。
版元・春秋社のホームページには,塩沼亮潤大阿闍梨による講演会の模様が一部,動画で紹介されている。慈眼寺のホームページもまた情報豊かである。
*余註:題句は羅語の格言を模倣した。
(人文理数総合科 石本 裕之 先生)
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