天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡

著者 :
  • 春秋社
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感想 : 12
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  • Amazon.co.jp ・本 (593ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393323304

作品紹介・あらすじ

普遍論争、現代哲学を先取りする知識論、経済の基礎となる利子の正当化、「概念」という概念そのものの発明など、知られざる中世哲学の偉大な成果を、神の存在証明と天使の堕落問題を軸に、哲学史の常識をくつがえす新たな知見をちりばめて一挙に紹介。現代思想にも巨大なインパクトを与えずにはおかない革新的論考。

感想・レビュー・書評

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  • 書名こそ宗教学の本のようだが、実は中世哲学史を新たな
    側面から記述しようとした哲学史書である。中世における
    哲学とはすべてキリスト教の名の元に展開されたので
    あるからこのような書名になるのは実は正しい。

    今までは暗黒の時代とされ、哲学史的にも見るべきものが
    少ないと思われ切り捨てられがちだった中世哲学と、その
    偉大な成果に再び脚光を当てる、その端緒となる本なの
    だろう。確かに私は中世における哲学についてはまったくと
    言っていいほど無知であった。この本で初めて目にした名前
    も少なくなかったしね。まぁこの一冊を読んだだけで中世
    哲学が頭に入るほどいい脳みそ持っているわけではないの
    だが(苦笑)。

  • 西洋史、というか西ヨーロッパ史は、おおまかに分類すると「古代」「中世」「近代」ってカンジで分けられるわけですが、そん中でも「不毛」なものと思われがちな「中世」における哲学が語られています(といいつつ、中世の哲学はプラトンやアリストテレスといった「古代」の哲学がベースとなっており、「歴史の断絶というのはありえない」ことをしっかり書かれています。というか、中世におけるアリストテレスは、あくまでも「中世的解釈によるアリストテレス」なのであって、それってようは、アリストテレスの言葉を借りて語られる中世的思考なんですよね)。
    ともあれ。西ヨーロッパって、ローマが多神教国家であったがゆえに衰退し、そして、おそらくその反動としてキリスト教が拡大、結果、その宗教のものとで、一なるもの、つまりは「真理」を追求してった結果、科学と個人が誕生したわけです。その過程が大変大事で、なんもナシで突然そういうものを与えられた日本とヨーロッパには社会通念において凄まじい差異があると思わざるを得ません。精査された精神を持ち合わせていない者が「貨幣」や「科学」、そして「権利」を扱うのって、バカに刃物を与えるのと一緒のような気がするのです。
    中世の哲学者、ドゥンス・スコトゥスは14世紀の段階ですでにこう語っております――

    【もし、だれかの知性が、幾何学の真理を理解することができずにいて、しかし、だれかによって、幾何学的真理を信じることが出来るとしたら、幾何学それ自体は科学であるとしても、かれが持っているのは、科学的知識ではなく、信仰である】

    どこが暗黒の時代というのだ!

    ------------------------------------

    (メモ)エデュケイションとはそもそも「教え込む」という意味ではなく「引き出すこと」を意味する。
    (メモ)中世の思考でいうと、忠誠=正義であり、自由はそれにともなうひとつながりのことがらである。
    (メモ)自分を知ることについての力不足、それが天使にもあると考えるなら、純粋精神である天使にも傲慢が生じても不思議ではない。

  • 佐賀大学附属図書館OPACはこちら↓
    https://opac.lib.saga-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB00537933

  • YY6a

  • 天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡
    (和書)2011年01月27日 23:45
    八木 雄二 春秋社 2009年12月22日


    asahi.comで柄谷行人さんの書評を読んで知りました。

    哲学と神学というものがどのように捉えられていたのか著者の悟性によって書かれている。
    中世というものの認識が読んで変わる作品でした。といってもこの本は入門編と言われているけど内容を正確に捉えることは僕にはできなかった。

    でも近代というものと中世、古代というものが哲学によっているという指摘は面白く哲学というものを捉え直すことにとって良かった。

  •  私たちはなんとなく、西欧中世といえば「暗黒の時代」であり、中世哲学はなんだかよくわからない「煩瑣哲学」であるというある種偏見にも似たイメージを持っているのではないかということは否定できない。
     
     しかし、本書を読んで蒙が啓かれた思いがした。中世とはそれ自体で完結した世界であり、近代哲学の跳躍は中世哲学によって準備されていたのだ。本書を読んで、中世一流の哲学に比べれば、デカルトの『省察』など検討するに値しない大学の卒論レベルであるという著者の強気な言葉も宜なるかなと感得した。さだめし、デカルトやライプニッツなど近代哲学の巨星たちは中世哲学から直接的に多大な影響を受け、それらを応用発展させたに過ぎないのだろう。たとえば、アウグスティヌスの著作には「わたしは疑うゆえにわたしはあることは確実である」、同『神の国』において再度、「わたしが欺かれているなら、わたしは存在する」と述べている。つまりデカルトの「我思うゆえに我あり」という人口に膾炙している言葉より遥か千百数十年前に発見された概念だったのである。

     さて、中世の哲学というのは信仰と密接に連関しており、両者は不可分のものであった。宗教と哲学が融合し、あらたに、神学という学問が創設されることと相成った。この流れは、真理性の探求という純粋科学的信条から発生したというよりもむしろ、政治的、宗教的理由によるところが大きい。当時、西ヨーロッパでは教育機関として教会がその主導権を独占していたが、世俗の大学が隆盛しそこで、哲学が教えられ力をつけていたからである。つまりキリスト教会の世界という完結した世界が壊される危険があったので多くの協会側の人間があせったのだ。哲学は理性の力によって、論理的に命題を吟味していく営みである。哲学に魅せられて続々と大学に集まった有能な若者たちを教会に留めおくためにも宗教の側も論理的に神の存在を、その合理性を明らかにする必要が生じた。これがいわゆる「神の存在証明」である。神の存在証明は当時いわば、タブーであり、非常に危険な試みであった。なぜなら神の存在など自明であって。信じることによってその存在は保証されているからである。とはいえ、前述のような現実に対処するため、信仰をかっこに入れて証明することでより神への理解が深まるものとして、正当化されたのであろう。

  • 中世を舞台にした哲学の興亡。キリスト教の伝播、商業の発展、ケルト文化の衰退、イスラムの隆盛を交えて

  • 中世哲学について、理解を試みるにあたっては、この本を読むのが一番手っ取り早いだろう。アウグスティヌスからオッカムまでの思想の流れが、当時の社会情勢、民族対立、宗教といった背景とともに論じられているので、非常にわかりやすいものとなっているからだ。

    哲学は、自らが時間や環境を超えて普遍的であり、その知を愛し求める欲求は、純粋にその知のみから触発されること、つまり有用性の域外にあることを固く信じ、またそうであろうと常に欲望してきた。したがって、研究書はそれが書かれた文化についてほとんど言及することがない。そうした論述のしかたは、オリジナルのテクストと、それに対する研究書が同じ文化に属している場合はまだしも、まったく異なる文化に属している場合は、論述そのものの主張にも誤りを生む恐れがあるし、読者に誤解を与えやすい。研究書がいつも味気なく、わかりにくい理由はここにある。

    本書では、キリスト教神学と切り離せないゆえに、純粋ではないと切り捨てられてきた中世哲学の背景を詳しく語ることで、近代哲学の哲学観を相対化することが試みられている。
    近代哲学では自明と思われている考え方、すなわち哲学は感覚経験の吟味からはじまる、という定立は、中世哲学を読むにあたって大きな障害となる。そもそも、「存在」の捉え方がまったく異なるからだ。中世では、抽象的な存在こそ実在であるのに対し、近代では感覚的・具体的な存在こそ実在である。その区別を知らずに中世哲学を読むのは狂気の沙汰である。そのことをまず痛感されられた。

    さらに次の2点については、非常に勉強になった。
    ①存在の一義性という発想と、かつての存在観との差異、またその後の哲学および諸科学に与えた決定的な影響を整理することができたこと。
    ②かねてより奇妙な発想だと思っていた知的直観という考え方が作られた所以を知ることができたこと。

    文化的背景をまじえて語ることによって、哲学という純粋に思索的なものに対する理解も深まる。「哲学」と同じ名で呼ばれても、定義そのものがまったく異なることが、哲学に対する理解を阻害する一因であることは確かであり、哲学を分析し、理解する際には、文化についての知識が不可欠である。

    ただし、最後にひとつ、付け加えておきたい。それは、哲学は文化の産物であり、文化そのものを正当化するためのレトリックだと決め付けることもできない、ということだ。書かれたものとしての哲学はいやおうなくそのような性格をまとうかもしれないが、行為としての哲学は、間違いなく普遍的である。哲学は中世において神学に仕えてきた。それが近代以降、科学に仕えるようになったことはたしかだが、何を支配的な学問とするかは、哲学に任されている、と著者が主張するとおりである。哲学は自らの思考に対して常に批判を繰り返し、自らを更新していく。その営みが、新たな文化を準備し、醸成する。哲学は、方法についての学問であり、方法がまったく異なれども、同じ名で呼ばれる特異な学問である。それゆえ哲学は特権的な重要性をもっており、終わることがない。

  • 面白い。でもタイトルの良さが5割。

  • ぶらりと本屋でぶつかったこの本。
    この時代は、個人的に昔から非常に惹かれる。
    考察はいろいろあれど、実は知らないからこそ(現実問題として)
    惹かれるものというのは多いのだろう、なんにしても。

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著者プロフィール

1952年、東京生まれ。慶應義塾大学大学院哲学専攻博士課程修了。文学博士。専門はドゥンス・スコトゥスの哲学。現在、清泉女子大学非常勤講師、東京港グリーンボランティア代表。東京キリスト教神学研究所所長。著書に『スコトゥスの存在理解』(創文社)、『イエスと親鸞』(講談社選書メチエ)、『中世哲学への招待』『古代哲学への招待』(平凡社新書)、『「ただ一人」生きる思想』(ちくま新書)、『神を哲学した中世――ヨーロッパ精神の源流』(新潮選書)、『カントが中世から学んだ「直感認識」』(知泉書簡)、『天使はなぜ堕落するのか――中世哲学の興亡』(春秋社)など。訳書にドゥンス・スコトゥス『存在の一義性 ――ヨーロッパ中世の形而上学』(知泉書館)、『中世思想原典集成』(共訳、平凡社)など。

「2022年 『1人称単数の哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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