意身伝心: コトバとカラダのお作法

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  • 春秋社 (2013年7月29日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (392ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393333211

意身伝心: コトバとカラダのお作法の感想・レビュー・書評

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  • 読み終えて、本を閉じて、タイトルが眼に入ってきた。

    意身伝心。

    なるほど、コトバ・カラダ。意識・身体。
    本書の中では、正剛さんの言う「型」と泯さんの言う「動き」とが縦横無尽にぶつかりあい、積み上がり、広がっていく。
    気分的には、宇宙空間に投げ出されて、無数の星々を眺めながら、ものすごいスピードで行ったり来たりしている感じの読書体験だった。

    それが、読後にパタンと閉じて表紙をみたとき、すうっと一箇所に納まった気がした。

    意身伝心。
    なるほど。

    なんだか、大旅行を終えた気分。

  • ・日本では「狂ふ」とか「ただ狂へ」とあれば、ゆっくりスピニング・ダンスをすることだったんです。「をどる」はジャンピング・ダンス。「舞ふ」は坐り位置や立ち位置から動き出すことですね。

    ・まとめようとすると、たいてい失敗するね。たとえば、どんなに語りがうまい人でも、何かのお祝いの会かなんかで、五分でスピーチしてほしいなんて言われてやると、たいていうまくいかない。だから、どうしてもまとめないといけないときは、ぼくの経験では、例えば五分くらいのスピーチでも、三回くらい全部をまとめるつもりになって、最後にそれをほどいていくというふうにする。ありきたりなまとめで終わらせないようにするには、そうしないとだめですね。

    ・男性の視覚的欲望は途方もないでしょう。だからアートにも文芸にもダンスにもなりうる。

    ・おそらく練習の仕方からして変えるべきなのかもしれないですね。男と女とでは、そもそも方法が違う。
    男の場合は、同じところに行かないように道をずらしていくような稽古が一番いいと思う。
    女はたぶん、もっと行きつ戻りつの稽古がいいんじゃないかな。ぱっときびすを返して戻ってくる、みたいな。

    ・芸術家がみずから表現をするということは、実は同時に自分に矢を向けているという行為なんです。ということは、みずからがそれを受けて、その次の瞬間からはそれごと生き続けなきゃいけないんですよ。

    ・舞踏は資源であると考えた。そして「舞踏資源」というコトバを思いついて、「舞踏資源研究所」を白洲につくった。資源というからには、とにかく舞踏に関する資料を集めたい。あっというまにものすごい量になった。映像、ポスター、踊りにかかわる本なんかですね。
    そうやってわかってきたのは、一口に「踊り」と言っても、ヨーロッパの舞踊と、アジア・アフリカ・南米あたりの踊りの歴史とではまるっきり違うわけです。
    とくに西ヨーロッパは、キリスト教文化が少数の人たちの踊りを消し去ってしまって、日本に残っているような意味での舞踊文化というものが、なくなっていた。つまり踊りの歴史がバレエからやっと始まっているということになtってしまった。
    そういうふうにして舞踊史を見ていくと、やっぱり断トツに日本がすごいということもわかってきた。日本においては、あらゆる層の舞踊がすべて残されていた。

    ・好奇心、そうですね。ぼくもそもそも生命体に好奇心があると思う。一人の人間の中に全生命の歴史が入っているということに気がつきさえすれば、好奇心は動いてくれる。自分は人間である、日本人であるということ以前に、生命体としてこの世に生まれてきたということを思いっきり広げて考えることができれば、好奇心は果てしもなく動くはずじゃないか。

    ・編集も同じ。一番重要なスコープは類似です。相似律です。その物差しがいつも自分の中でどの程度研ぎ澄まされているか。こっちが研ぎ澄ますことをやめれば、鶏と象だって類似だと言えてしまう。そうじゃなくて、類似性をもっとぎりぎりまで、ノギスで測ったみたいに近づけていけないとダメなんですよ。

    ・コトバも、筋肉の束とは多少は違うけれど、モジュールを解体したり組み替えたりする。このことは編集にとってすごく大事です。たとえば「国家」と「自己」みたいなものを一緒に扱うときは、このままだとものすごく対比が強すぎて動かしにくい。だからいったん「赤い国家」と「青の自己」とか、「不埒な国家」と「迷走する自己」というふうに置いて、「赤」と「青」や「不埒」と「迷走」のほうをいろいろうごかしてみる。

    ・手に較べると、足というのは本当に不器用で正直で、古代のまんまじゃないかという気がしてならないんです。

    ・ぼくの場合はもうはっきりしている。一番大事なことは遅らせる。デタミネーションです。遅延はすごく大事だと思っているから、超重要なことほど判断も遅延しますね。たんに遅らせるんじゃないんです。そうすることで大事なことがたまる。もちろん自分の能力とも関係があるんだけども、総じて大事なことは遅延させることによって多義性に達することができます。

    ・じつは、ぼくがずっと裸体の踊りを続けていたころ、初めて踊りにタイトルらしいタイトルをつけたのが「感情」というものだった。82年のことです。それから3年くらいずっと「感情」というタイトルで踊っていたんですが、いま役者としてやっていることは、そのとき考えていたことに近いんじゃないかと思いますね。
    もくはカラダの感情というものがあると思っているんです。正直なカラダには感情がある。それは、人間が社会と関わっていくときの感情とは何か別のもののような気がしている。「感情」という踊りは、まさに「感情というのは何物だろうか」というテーマでやっていたわけですし、あの当時、ぼくの踊りを見て笑う人となく人が同時にいた。

    ・ちょうどレオナルドやフェルメールやレンブラントの時代に、画家たちがカメラ・オプスキュラをつかって、光と影と空間と遠近をぎゅっとタブローに押し込んでいくようなああいう絵を生み出したわけですが、このとき、それまでのスケッチやエッチングや彫塑とは違う、まったく新しい何かが誕生したのだろうと思う。しかもそれは、どちらかというと古代に近いものじゃなかったかと思いますね。古代人の感覚って、スケッチとかタブローよりも写真的だったんじゃないか。だから、写真家はもっと誇りを持つべきだと思うんです。まだ何もない頃に生まれた原始の感覚が写真にあらわれたということについて。

    ・ぼくは文章を書いているときに、「ああ、このままじゃ進まないな」と思うと、たいてい仕事場の本棚から別の本を取り出して見るか、あるいは本屋に行く。で、行くと20冊くらい買ってきちゃう。文章を書くためにそんなに必要なわけではないんです。文章が進まないから資料を買いに行くというのではない。自分のやったことを捨てるために、似て非なるものにコストをかける。だからそれだけの本が必要になってしまう。

    ・S:踊りのワークショップは、大きく分けるとどういうふうになっているの?
    M:大きくは、視覚、つまり目にかかわるものと、「私」をテーマとするものかな。目の方は、簡単にいうと視覚の優位性をはく奪するんですね。目を見えなくするということによって、耳や指、ほかの感覚が肥大していくということを実感してもらう。「私」のほうは、どうやってカラダから外へ出るか、戻るかということをやるんですが、このときに「自分を前へ蹴り出す」とか「自分を差し出す」みたいなコトバを使うこともある。何度も言ってきたように、カラダのワークショップではコトバがすごく大事なんですよ。
    S:ぼくも、コトバのエクササイズをするときに、逆にカラダをつかうというころをずいぶんやってきた。会話のワークショップなら、互いに目をつぶって話し、次に一人だけ目をあけるとか、手をさわってしゃべるとか。声を出さないで筆談で進めてみるとかね。筆談なんて簡単そうだけど、たちまちその人物の「場」と「知」をあばきますよ。

  • 私は「時代」に生まれてきたんだろうか、「私」として生まれてきたんたろうか。時代がこうだったから私はこうなったと言ってしまうのは、ぼくにとっては風景なんですね。それは絶対に言いたくない。
    「風景を見た」と思ってしまったら、時代論や世代論のワナにはまると思っていた。
    「ぼくは管理されて自由である」とか「私は私という例題のために生きてます」といったことを書いたんですが、たくさんの制約やたくさんの管理を同時に受けているからこそ、私たちはおもしろく動くことができるし、考えることができる。何の制約も受けていないものは存在すらもしていない。
    ぼくがなぜこの時代に生まれてきたのかということも制約です…運命だとか偶然だとかいうのではなく、自分でそのことの意味を自分で決めつけてやらないと、命というものの意味が、わからなくなるんじないですか。

  • カラダとコトバをキーワードにした対談集。深いです、深すぎてわからないところもありますがここまで濃厚な対談は久しぶり。この本のコトバに追いつくにはもっと自分のカラダを深く追求していく必要があるような気がする。10年、20年後にもう一度読んでみたらさらに面白いかも。

  • コトバとカラダはつながっている。
    松岡正剛さんを知ってから、なんとなくわかってきたこと。いや、実感するようになってきた、というべきなのかな。
    内容は私にとっては難解だったし、よく意味がわからないところもあった。だけど、2人の話の中で言わんとしていることはざっくりと伝わったと思う。
    難しいし、理解できない部分もたくさんあるのだが、それをなんとか理解したい、わかりたいと思わせるのが、松岡正剛さんの文章。背伸びして読む文章。それが今は心地よい。

  •  舞踏の巨星田中泯と、『千夜千冊』などで知られる著述家の松岡正剛の2人の盟友が、彼らの出自から出会い、そしてこれまでの40年にわたる交流やコラボレーションを話のおもむくままに語った対談集。
     「他人から見るとはた迷惑になってしまうようなことをそれでもやり続けることが、何かのエンジンになる」と思いながら、身体と言葉という、ある意味対極とも思える分野で走り続けて来た2人に共通しているのは、「2人とも非常に方法的であるということ」で、それは「アーティストとしてもクリエイターとしても表現者としても、思索者としても」だと松岡は言う。
     「自分が多様な速度の中にいる」ことに自覚的であった2人が、さまざまなテーマの、それぞれの雑多な速度の中で自らを語る、濃密な一冊。

  • 無茶苦茶濃そう。。。

    春秋社のPR
    「圧倒的な身体をもつダンサーと知の方法を開拓し続けるエディター。 
    同時代生まれの二人は、これまで何を見て・何を考え・何に触れてきたのか。
    長期間にわたる濃密な時間を交わし「編集」することで、その核心がついに明らかになった秘伝書、『意身伝心』。
    言葉と身体が引きちぎられるように離ればなれになってしまっている現代、表現者はその両者をどのように獲得することができるのだろうか。」
    田中泯オフィシャルウェブサイ
    http://www.min-tanaka.com/wp/

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