さよなら、お母さん: 墓守娘が決断する時

著者 :
  • 春秋社
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  • Amazon.co.jp ・本 (205ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393366387

作品紹介・あらすじ

墓守娘とは、過干渉の母親をもつ娘をさす造語。子どもの人生に口を出し、果ては「介護は当然」「将来は自分の墓を守れ」と言い募る母親がいることから名付けられた。-ベストセラー『母が重くてたまらない』の反響から生まれた、難問解決のための実践バイブル。気持の上での決別から関係断絶まで、様々な「さよなら」のかたちを提示。

感想・レビュー・書評

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  • 上手に書けているなあと思います。当たり前なんですが。
    震災の状況から、その当時の気持ち。
    登場する人物の描写。
    ひとつひとつ、すべて納得。
    でもひとつだけ違うんじゃないかなと思ったことがありました。
    カウンセリングにやってくる女性の層を大まかに分けると「アラフォー世代と団塊女性」とありましたが、単純にそこの人口が多いだけではないでしょうか?

    AMAZONのレビューに「自分には関係ないと思う人でも読んでほしい」とありましたが、私もそう思いました。
    若ければ若いほど、早ければ早いほどお互いに傷が浅いと思うから。
    その中で「母であることから卒業するために」から抜粋します。

    >あなたは確かに娘の母親である。しかし、母としての生物的役割はとっくに終わっている。娘が成人を迎えてからは、原則的にはもう母親づらする必要はない。
    母親であることにまつわる既得権をいちど捨て去ろう。自分のほうが世間をよく知っているというとんでもない思い上がりを捨て去ろう。産んででやった、人生の先輩だ、などといった自覚も捨ててしまおう。子どもを産んだ痛みの記憶はすっかり消えているはずだ。自分が母であることを忘れている時間も多いだろう。母であることはそれくらいの重みしかない。父親がしばしば家を一歩出れば父であることを忘れるように、母だってそうあっていい。母であることそれ自体には、あなたが信じているほどの価値はないし、母性をふりかざして娘を従わせようとする、そんな思いあがりを正当化する根拠などないのだ。
    あなたにとって娘がとても大切な存在であったら、どういった理由で大切なのかを考えてほしい。
    自分の愚痴を聞いてくれるからか、女どうしでわかりあえるからか、「最後は親子」だからか。いくつか理由があるだろう。しかし、よく見つめるとそれらの理由は極めてあなた中心、つまり母親中心のものだと気づくだろう。あなたたちが自分勝手に娘を大切に思っているのだ。つまり、勝手な思い込みを娘に受け入れてもらいたいのだ。あなたこそ、娘に依存しているのだ。それなのに、「娘のために」などと言って、それを正当化してはいないだろうか。

    >何より、あなたの人生を振り返ることが重要だ。過去を見つめることなくして「娘の母でございます」などと威張ることはできない。思春期に経験した挫折、同級生と比較されたこと、劣等感、結婚した理由、夫の裏切り、結婚の後悔…。自分が「重たい母」となった源流をたどってみよう。
    こう書くと、どんどん落ち込んでしまうかもしれない。自信もなくなるはずだ。
    むしろ、それでいいのではないだろうか。母であるだけでそもそも自信がもてるはずがない。自分の人生の負債を母であることで帳消しにしようとしていないだろうか。そのことを自覚してほしい。生物学的に親というだけで子どもを育てられるのだろうかという、そんな自信のなさ、謙虚さをもつことこそ、よき親の条件だ。むしろ自信がない状態にとどまる努力が必要なのだ。母になると目の前に赤いじゅうたんが敷いてあり、そこを通るといい気持ちになる。そこには「世間様に対して恥ずかしくないように」「ふつうの人生をおくってほしい」「常識ってものは」といったセリフがかいてある。自信がなくても、その上を歩いているうちに仲間もでき、いつのまにか王道を歩いているような気持ちになるのだ。そこを嬉々として歩くひとと、歩かないひとに分かれるが、多くの墓守娘の母たちは赤いじゅうたんを疑いもなく歩いた女性たちである。まさにモンスター誕生である。
    耳が痛いかもしれないが、自分は立派な母親であると胸を張れるひとはどこかモンスターなのだ。そう自覚しておいたほうが、モンスター化を避けられると思う。墓守娘が何より望んでいるのはそのことである。

  • 母親は自分が加害者だとは、思っていない。
    その事実に気づいていなかった。
    そうなんだ!だから私、辛いんだ!
    あるある、そんな事例ばかり。
    近寄らない。
    他人行儀に尊敬語で話す。
    謝ることは絶対にないので、そもそも覚えていない、自覚なしなので、望まない、期待しない。
    それが一番。
    母親とのつきあいに悩む娘、すべての人に読んでほしい。そして母親にも!

  • 黄色の本の続編。
    蛍光コーラルのカバーをはずすと表紙本体にいくつかのメッセージが現れます。

    ・いやなことはやめよう。
    ・電話で話すのは10分まで。

    (ほんとに。無理なときは無理だもの。
    心掛けたい)

    装幀 高木達樹

    うちもみんなが笑顔でごはんってなかったな。
    母が機嫌がいいか、わるいか。
    たまによいときも一瞬で空気が変わるので、常に緊張感があった。毎日苦しかった。


  • 『母が重くてたまらない-墓守娘の嘆き』の続編のような対策編のような内容でした。
    まずプロローグから3・11が取り上げられ、筆者の体験や震災後の想いが細かく綴られていたのが印象的でした。
    大震災を経て「家族」の大切さが声高に叫ばれる風潮の中で敢えて問題提起し、今こそなんとしても「重くてたまらない母」に変わってもらわねばならない……という著者の姿勢に非常に好感を持ちました。

    1点だけ、「重くてたまらない」母親が変わるわけがないという考え方に対して、
    > 絶望しあきらめることは簡単だが、いっぽうでそれは、彼女たちを貶めることにもなる。彼女たちは変わるはずがないと判断するのは、傲慢以外の何ものでもないだろう。(本文より引用)
    と著者は述べていますが、この意見には賛同しかねます。
    娘が手を変え品を変えして自分を苦しめ傷つけてきた母親に意識を変えてもらおうとアプローチしても、期待を裏切り続けてきたのは母親の方です。
    信頼を失った相手にはもう、「絶望しあきらめる」しかないんですよ。
    しかし、終盤にまとめられた「墓守娘の母」に向ける言葉が、このような本をまず手に取りそうにない母親たちの心に届いたらどんなに良いだろうかと思いました。

  • 思い詰めてこの本を手に取った。がしかし、読み始めてみると思い詰めていた事が違ったように感じることができた。

  • 「婿姑問題」「妻(自分)の実家依存症」「一卵性母娘」で悩み、何かのヒントになるやもと思って読んだ。事例には、自分たちにもあてはまるところが多々あり、そういうことだったのか、と納得。後半の解説部分は、何度も何度も読み返し、そのたびに救われる想いだった。ただ、私たち親子の場合は、断絶するということではなく、そもそも娘の私自身も親離れができておらず「実家依存症」であり、「共依存関係」にあること、母に全ての責任を負わすのではなく、まずは自分から行動を変えていかなければならない、という結論に至った。今後は自分がどう親離れしていくか、がテーマ。

  • 母・娘・娘の夫、それぞれの視点から過干渉な母親の行動がじっくりと描かれているのが小説のようで読みやすかった。
    最後の方で、母親の過干渉にさらされている娘に、母親との関係の持ち方についていくつかの方法を上げている。
    結局のところ、親との距離を置くしかないのかと思う。親離れ子離れはごく当たり前のことなんだから。

    途中、娘の夫視点で語られる中に、娘が夫の実家で「いつも、あんなふうに笑いながら食事をしているの?」というシーンがある。このシーンで泣いてしまった。自分の記憶の中にも家族が笑いながら食事をした記憶が残っていなかったから。亡き母は過干渉では無かったと思うのだけれど、自分で自分の感情に蓋をしていることもあるのだと認識した。

  • 「ガジュマルとヤドリギ、いずれも植物だが、拘束する母娘の関係を如実に象徴するようだ」(本文)墓守娘たちが「母」を徹底的に解析する目的で著された本書は偶妄を「像を撫で」ることで「世間」と「ふつう」の黄金律を背骨に日本中の空気に瀰漫する言語化できない息苦しさにからめとられる。当事者である母親は自らの加害性に無自覚なのだから正解はない。一個の自由意思を持った人間として生きることが母娘関係の前ではとてつもなく困難な道のりである。

  • 「母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き」の続編。3.11震災後にまとめられた本で、『家族の絆』に鞭打つものがしばらく書けなかった、というのに共感。あのACのCMといい、仮にもアダルトチルドレンと同じ略語だというのに、主張は正反対だよね。震災の映像だけじゃなく、あのACのCMにやられた人も結構いたんじゃないか。これほど酷い母親ではないと思うけど、私も長子・長女の足枷はつけられてると思う。あの転職・一人暮らしとなったときの「一人暮らしをしたくて仕事をやめたのか」と言う母の言葉は忘れない。そして今回の島への異動でも同様の言葉があったこと。やっぱり父親と一緒にいるのが嫌なんだろうな。今は弟がいるからいいんだろうけど。奴が家を出る時は反対するだろうか。今のミライースのCMも頑固な父親が娘に「俺たちを見捨てるのか」という言葉は世間になんの疑問もなく受け入れられているのだ。

  • 第1章の「ある母娘の物語」を読んでいるとき、動悸が激しくて苦しかった。怖いのと腹立たしいのと気持ち悪いのともどかしいのと、さまざまな感情がミックスされて、とても冷静には読んでいられないくらい。そのくらい、母であるノリコさんの行動は恐ろしかった。
    理解できないというのではない。彼女の行動の論理はわかりすぎるくらいわかるし、実際に彼女のような思考経路を持つ人はたくさんいる。彼女が自分でいうとおり、「みんなそうしている」のだ。
    「子供の為に自分を犠牲にするのは母親として当然のこと、なぜなら私は子供を愛しているから」
    この理屈に大きな間違いはない。どの母親だって、出発点はここである。
    子供を大事に思うから、よかれと思うから、あれこれ手を出す。生物学的に母親の手助けなしに生きていけない時代は、むしろそうでなくてはならない。母に見つめられ、母に気にかけてもらい、母に認めてもらうことが、人間としてまっとうに育つ基盤になるのだから。
    しかし、人間は成長する。いつまでも赤ん坊のままではないのだ。なのに母親だけはそれに気づかないふりをする。成長の度合いに合わない世話焼きをいつまでも続けてしまうのだ。

    人は、たとえそれが自分の愛する子供のためだとしても、見返りのない犠牲には耐えられないものだ。
    しかし、あからさまに見返りを求めることはみっともなくてできない。だから巧妙なすり替えが起きる。
    「こんなに自分を犠牲にしているのだから、この愛情を子供が受け止めて感謝するのが当然。そして、私を喜ばせてくれるのが当然」と思ってしまう。でも、ここまで明確に意識されることはまずない。
    子供が感謝しなかったり、自分の意に反した行動をとったときに、初めて表面化するのだ。
    「どうして、こんな悪い子になってしまったんだろう」と。悪い子というのは、表面的には問題行動とされるようなものだが、本質は「私を困らせるようなこと」である。

    母親本人が自立できていなかったり、夫との関係が貧弱だと、母親は子供を代理人にして自分の人生を完成させようとする。そこでしか評価されないことを知っているのだ。
    建前としては「ちゃんとした人間に育て上げる」ことを目標とする。だから勉強にしろしつけにしろ、非常に熱心に、緻密に行なう。あくまでも「子供のため」と称して。
    しかし、本当の意味で「子供のため」ではないことは、子供が自分の意志を持って行動し始めたときにすぐにバレてしまう。子供が母親の意に沿わないことをすると、「子供が悪くなってしまった」と思ってしまうのだ。本心から子供の人生によかれと思うなら、子供の歩みを邪魔しないことが最善の方法なのであるが、偽りの目標であるために、子供が自立して自分から離れていくことに耐えられないのである。

    娘の方は、自分の人生を侵食されているのだからずっと生きづらい思いを抱えていて、苦しくてたまらないのだが、その一方で世間的なものの見方からも逃れられない。「私のために自分を犠牲にしてきた母親を捨てるなんて、そんなひどいことはできない」と悩むのだ。
    世の中には、こういう粘着とは無縁の人もいるから、理解できない人もたくさんいるだろうと思う。そういう幸せな人は、しごく簡単に「親の好意をありがたく受け止めないと」などと言う。ありがたく受け止めた結果、自分の人生が潰されてしまうという事実はなかなか受け入れられないのだろう。

    今の日本で「母」である、ということは、とんでもなく重く難しい仕事なのである。
    それに比べて、夫や父のなんとお気軽であることよ。それに対する怒りも、動悸の中には含まれていたと思う。

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著者プロフィール

公認心理師・臨床心理士、原宿カウンセリングセンター顧問、公益社団法人日本公認心理師協会会長。1946年生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。駒木野病院勤務、嗜癖問題臨床研究所付属原宿相談室室長を経て、1995年原宿カウンセリングセンターを設立。アルコール依存症、摂食障害、ひきこもりに悩む人やその家族、ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、性暴力、各種ハラスメントの加害者・被害者へのカウンセリングを行ってきた。著書に、『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』『家族のゆくえは金しだい』(いずれも春秋社)、『カウンセラーは何を見ているか』(医学書院)、『アダルト・チルドレン』(学芸みらい社)、『家族と国家は共謀する』(角川新書)、『タフラブ 絆を手放す生き方』(dZERO)、『共依存』(朝日文庫)などがある。

「2023年 『家族と厄災』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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