いまこそハイエクに学べ: 〈戦略〉としての思想史

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著者 : 仲正昌樹
  • 春秋社 (2011年8月26日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393611111

いまこそハイエクに学べ: 〈戦略〉としての思想史の感想・レビュー・書評

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  • 読み直したさ:★☆☆(図)
    ハイエクの言っていることが分からなくなったら読み直したい。文脈としては基本的に,隷属への道→自由の条件→法と立法と自由,の順に進んでいく。
    〈感想〉
    これからハイエクの著作を読もうと思ったのでその入門として。分かりやすい。面白く読めた。仲正さんの描くハイエクはとても魅力的。

  • ハイエクが,どのような思想史的背景をもって,どのような論敵とどのように論戦したのかを概観する。
    自生的秩序,法の支配,設計主義批判といったハイエクの主な主張について,細かく原典を引用しながら解説している。
    分かりやすい(「簡単」「平易」という意味ではない)ハイエクの入門書。

    著者のハイエク観に基づいていることは当然としても,ハイエクを利用して自説を展開するのではなく,一歩引いてハイエクを眺めている印象。

    第1章では,ハイエクが反自由主義の底流であるとして一貫して批判した設計主義・集産主義の概要と問題点を指摘する。

    「集産主義」とは,完全な倫理的規範体系(a complete echical code)の存在を前提に普遍的利益の追及を目的とする考え方である。
    ハイエクは,集産主義について,個別具体的な場面における個々人を拘束するルールが次第に抽象化されていき各人の自由が拡張されてきた歴史に逆行するものであり,最終的には,目的追求のための計画が自己目的化・肥大化して民主主義を形骸化し(つまり,自由の抑圧が野放しにされ),計画の実行主体である共同体(国家など)の発展(共通善)が個人の自由よりも優先させることになるという(48頁)。

    第2章では,ハイエクの考える非強制という意味での「自由」と,その根底にある「個人主義」を解説し,「自由」を保障する「法」と「法の支配」の重要性が説かれる。

    ハイエクに拠れば,いわゆる「自由主義」の中にも,方法論敵個人主義のように,社会全体を単一的なルールで合理的に設計可能であることを前提とした「合理的な疑似個人主義」に立脚した「偽りの自由主義」がある。
    これに対し,ハイエクの自由主義は,自由な個人相互の働きかけによって制度が自生的に形成されるという「真の個人主義」に立脚する(68頁以下)。

    この「合理的な疑似個人主義」の発端はデカルトであり,それがフランス啓蒙主義へと繋がる「自由主義」となる。
    他方,ハイエクの自由主義は,自発的に生成された伝統・秩序の解釈を基礎とする経験的・非体系的な理論で,「法の支配」を重視する態度も,ここに由来する(82頁以下)。
    なお,ハイエクの言う「法」とは,法律だけでなく,明文化されていないルール(伝統・慣習)も含む(103頁)。

    これらの発想が,「自制的秩序」論へと発展する。

    第3章は,自由を保障する法としての自生的秩序が伝統・慣習として生成・継承され,法(ルール)それ自体が進化する過程と,それによって個々人の理性もまた進化するという理論を示し,完成された理性を前提とする合理主義(デカルト)を批判する。

    ハイエクに拠れば,秩序は,誰に設計されるでもなく,自由な個人の行為から自生的・無意識的に形成されていく。適応的進化(adaptive evolution)である。
    そうして形成された制度・慣習を継承した集団は繁栄し,「進化」する(110頁)。
    しかし,どういった制度・慣習が効用をもたらすかは,分からない。長年に亘る実践と経験の蓄積が,個々人の利害を調和する「正しい振る舞いの一般的ルール」(generarl rules of just conduct)を形成していく(111頁)。
    諸個人は,この利害を調和するルールに従うことにより,私的利益の追求が社会全体の公益にも合致する適切な行為となる(115頁)。
    こうしたルールが確立され進化していくのは,ルールを適用した結果(効用)を誰も予見できず,自己に都合の良いルールを設定することができないからである(118頁)。このように予見可能性がない事を想定する点が,ルール功利主義との違いである(120頁)。

    このようにしてルールが進化すれば,それによって自由が拡大され,多様性を持った「大きな社会」「開かれた社会」が維持される(124頁)。
    そして,ルールに従い適合する諸個人は,そのルールに適合する認識・行動をするようになり,その理性もまた進化する(130頁)。
    諸個人の理性は常に進化の途上であり,フランス啓蒙思想が想定する理性のように完全ではない。そのことを自覚した自身の合理主義をハイエクはは,「進化論的合理主義」と呼ぶ(130頁)。
    この進化論的合理主義に基づけば,発展途上のルールに従って行為することで,十分合理的と評価できることになる(131頁)。

    諸個人は,進化するルール(これは,長年に亘って蓄積された集合知である。)に従うことで,自身にはない知識を活用し,個々人による私利の追及が公益に結びついていく市場の秩序が自生的に形成されていく。このルールを,ハイエクは「カタラクシー」(batallaxy)と呼ぶ(136頁)。
    特定の目的のために計画され遂行される「エコノミー」とは異なる。

    カタラクシーが機能していれば,非強制・非干渉という意味での自由が保障される。市場に関して言えば,適正価格の実現という最善の「結果」が保証されるわけではないが,各人が結果を得るための最善の「機会」は保障される(144頁)。
    これに対し,ある目的を共有させようとする集産主義・設計主義的合理主義は,個人の自由を抑圧する(141頁)。

    また,社会における秩序を自生的秩序(コスモス cosmos)と人工的秩序・指令的社会秩序・組織(タクシス taxis)とに区別し,コスモスのルールは目的から独立した抽象的な法であり,タクシスのルールは組織の目的を達成する手段としての規律であるとする立場が示され(145頁),政府がコスモスに手を加える設計主義への警鐘を鳴らす(149頁)。

    なお,保守主義に対するハイエクの態度についても言及がある(152頁)。

    第4章では,ハイエクの「正義」観が示される。

    まず,ハイエクは,「法」を,コスモスに対応する「ノモス nomos」「自由の法 the law of liberty」と,タクシスに対応する「テシス Thesis」「立法の法 the law of legislation」の2つに分類する(160頁以下)。
    そして,

    なお,こうした「法」の理解に基づけば,憲法とは,ノモスの維持を保障する組織である政府の権限を規定するテシスと言うことになる(170頁)。

    ハイエクが危惧するのは,コスモスに対応するノモス(例えば,裁判官によって「発見」されるコモン・ロー)を,政府が「社会正義」を名目とする「社会的立法」,すなわちテシスによって浸食し,さらにはテシスがノモスを従属化させることである(172頁)。

    このように,ハイエクは,社会的立法の根拠とされる「社会的正義」に懐疑的だが,正義それ自体を否定しているわけではない。
    ただし,正義・不正義の判断対象は行為の結果ではなく,行為そのものであり,その行為が「正しい振る舞いの一般的ルール」に合致しているか否かによって正義・不正義が決定されるという(173頁)。
    ここにいう「正しい」の根拠は,人々に備わった「正義感覚」である(175頁)。この正義感覚が慣習となり抽象化されたのが,ハイエクの想定する「正義」であり(176頁),その内容は,利害の調和そのものではなく,抽象化され,特定の目的に奉仕することのないルールに基づいて競争が行われる条件を整えることである(177頁)。

    こうしたハイエクの「正義」と対立するのは,法実証主義,わけても純粋法学(ハンス・ケルゼン)である(179頁)。法実証主義が,法と道徳とのつながりの必然性を否定するだけであればハイエクも許容するが(むしろ,慣習が法的承認を得ることで「法」になるとするH・L・A・ハートには親和性すらある。),ノモスを否定して何も無い状態から「法」を創出するという発想に至ると,もはや許容できない(181頁)。

    また,「社会的正義」とは,しばしば「配分的正義」(ロールズ)と同義に用いられるが,配分的正義を目指すことになれば,設計主義をとらざるを得ないとして,これを批判する(185頁以下)。
    ただし,ハイエクは,ロールズの配分的正義が結果に至るプロセスの公正さ(手続的正義)を意味するのであれば,政府が財の配分を事細かに設定する設計主義には陥らないので,自説と共存すると考えていることも指摘し,そうした共存の背景として,ハイエクが,『常に自身の利益に適合する合理的判断をできるとは限らず,自制的秩序に依存しながら生きている愚かで迷い易く弱い個人』を想定しているからではないかと指摘する(205頁)。

    第5章は,これまでの議論を前提に,現代思想とハイエクとの関係を解説する。

    ハイエクとコミュニタリアンとの関係(ハイエクは,「負荷ある自己」に近い個人を想定しているが,個々人の目的の終着点である「共通善」を想定しない点において,コミュニタリアンと異なる。),格差社会への対応(結果ではなくプロセスの公正さを重視するため,格差それ自体を「不正義」とは考えない。)などである。

  •  設計主義のなにが問題なのか。各人に内在する普遍的理性に基づく一般的な倫理基準の存在を信じる英国流の自由放任主義はユートピアで、歴史の発展過程の中で現実の力関係を反映しながら正義も権利も進化する歴史哲学こそリアリズムだからといって、歴史的進化の過程を客観的に分析し自然科学的な発想と理想と用語で社会を設計しようなど隷属への道ではないか。

  • ハイエクのテーマを絞った入門書。非常に有益に思う。一般的な本に出てくる「新自由主義の権化」としてのハイエク像とは違う中身がわかる。ハイエクはネットが発達し、デモが頻発する現在だからこそ読まれるべき思想家ではないかと思う。次に読むべき文献が勧められているのも良い。

  • 『「真の個人主義」は、「集団主義」というわかりやすい”敵”と対決した次の段階では、”味方”にみえなくもない「合理主義的な擬似個人主義」と対決しなければならないのである。』(70P)

    「合理主義的な擬似個人主義」ー社会全体を単一的な”知性”の基準によって合理的に設計することが可能であると想定し、その設計図に基づいて個人の行為を制限しようとする立場。

    いままでの日本社会は、「集団主義」や「合理主義的な擬似個人主義」が蔓延していないだろうか。教育、学歴、職業を持ち生活費を稼ぐこと、などについて。
    高度成長期とは違い、今となってはそれでは体裁を保てなくなっている。
    つまり、『「合理主義的な擬似個人主義」と対決しなければならない』ことが明らかになっているということだと思う。


    『(ハイエクの)「個人主義」は、自由に行為する諸個人が相互に働きかけ合い、必要に応じて協力し合うことの帰結として、経済活動を始めとする社会の集団的な営みを円滑に進めるための諸「制度」が自(然発)生的に
    形成されてくるという前提に立つ。逆に言うと、結果的にそのような制度を自生的に生み出すものとしての、諸個人の行為に注目するわけである。』
    (71p)

    国家単位での政策は当然「集団主義」のトップダウンなのだが、これからは個々の一般人の自発的行為、つまり「個人主義」からのボトムアップをより一層受けた形での政策になるのがふさわしいように思う。

    『ハイエクの言う『法の支配』が、議会主権を含意するものではないことだけ確認しておこう。ハイエクに言わせれば、議会の役割はあくまでも、非人格的で自主的な過程を通して形成されてきた制度としての「法」の下での諸個人の「自由」を政府権力の先制に抗して守ることである。~
    「法の支配とは法それ自体による支配ではなく、法がどうあるべきかに関する規則(ルール)すなわちメタ法的原則、あるいは政治的理念である。そのメタ法的原則、あるいは政治的理念から自生的に形成されてくるものである。政府の行動を制御するために、議会がそうした意味でのメタ法則的に依拠するのが「法の支配」であって、議会が、人民全体の意志を代弁する形で、”法”をつくるとすれば、それは新たな「人の支配」であって、「法の支配」ではない。』(97p)

    しかし現在の日本では、政府の行動は制御されず、人民全体の意思を代弁する形で作られた法案は、震災で苦しむ人達を更に苦しめる悪法である。

    ハイエクが言うところの自由、つまり『伝統や習慣それ自体ではなく、それらの中から成長した「自生的秩序」と、それが保証する-他者から強制されることなく目的追求することができる自由』への転換はいかにして実現するだろうか。
    やはりベーシック・インカムだろうか。

    もっとハイエクを読みたくなった。

  • 内容が専門的・学術的で政治学や経済学の教科書のよう。理系の自分には少し読みづらかった

  • 市場を重んじるハイエク。彼が何よりも嫌ったのは社会全体を思うままに設計できるとおもう、知の奢りであった。神のごとく全てを見渡せるという万能の設計者も、新古典派が前提とする合理的経済人の仮定にも懐疑的である。

    必ずしも合理的でない人間が時間をかけて社会に沈殿した約束の束、ルールをもまることで、自由に生きられるようになる。

    よって、異なった経験や知恵を持つ人びとが交換することは社会全体のメリットが大きい、そのためにも市場、自由は欠かせない。

    政府の役割も、社会的正義を掲げてしゃしゃり出るよりも、「正しくない行為」を禁ずるだけの消極的なものであるべきとするのも、ハイエクがあまり強くない個人を出発点に、経済、法、社会を考えているから。

    ハイエクがちょっと身近になる素敵な入門書。

  • 今まで、ハイエクの解説本を何冊か読んだが、この本はハイエクの経済学者ではなく社会思想家としての領域について詳細に解説している。「隷属への道」は理解していたが、「自由の条件」、「法と立法と自由」の不十分な理解を深めることができた。
     ハイエクはオーストリア出身であるが、イギリスに帰化し、思想的にはロック、ヒューム、バークという英米系の流れに属している。設計主義への批判にはデカルト的なフレームワークへの強い批判が込められている。ハイエクは、環境から独立した理性の存在は否定し、進化論的合理主義の立場をとる。
     ハイエクの一番重要なコンセプトは「自生的秩序」である。これは設計主義に対立する考え方である。具体的には市場とルールである。大きな社会で個人が異なった目的を持ちながら、生きていくにはこの仕掛けが不可欠である。
     自由主義と民主主義に関する分析も非常に示唆に富んでいる。議会のあり方を見直すことは日本では不可欠だと思われる。
     

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