隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

  • 春秋社
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  • Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393621820

作品紹介・あらすじ

資本主義は本当に悪か!?"自由"と"市場"の価値を20世紀の歴史から説きあかす。

感想・レビュー・書評

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  • 全体主義論の古典の一つ。

    全体主義が社会主義と同じところから出てきている。経済や社会の問題を理性的・合理的・計画的に解決しようという善意、というか人間にそういうことができるという傲慢さが、全体主義を生み出す。

    経済問題だけを計画的にうまく政府が計画的にコントロールし、その他の人間の自由といったこととは切り離せるとかんがえることの欺瞞。

    それは、いわゆる全体主義だけでなく、共産主義にも共通。そして、批判の対象は、ずっと緩やかな社会民主主義にも向けられる。さらには、第2次世界大戦時のイギリスの論調が、20年前のドイツの論調と同じであることを指摘する。(そういうわけで、この本はイギリスでは非難轟々となり、アメリカでは、反共産主義の理論的根拠として利用される)

    ソビエトや東欧の共産主義が終わって四半世紀たつ、今となっては、中央集権的な経済の非効率性は誰にも明らかになっているが、第2次世界大戦時にそれを見通していた慧眼。。。。

    いわゆるリバタリアン、市場経済重視の元祖みたいな感じの人だが、そのベースとなっているのは人間の能力に対する謙虚さ。

    いわゆる新自由主義の経済学者は、人間の合理性、いわゆる経済人仮説を徹底する感じがあるのに対して、ハイエクは、合理性の限界から議論が始まっている。

    一見、古典的なハイエクの思想は、認知心理学や複雑性、自己組織化などに展開しうる新しさがあって、かなり面白かった。

  • マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」で「自由であることこそが正義だ!」という考えが否定されていたが、僕はサンデル先生の考えをそのまま受け入れるべきか逡巡し、自由主義者の考えにも触れておいたほうが良いだろうと思い、この本を手にとった。

    読み終えて、全体主義や計画経済を全否定していることは良くわかった。ただ、あるべき自由の姿がどうにもこうにもイメージできなかった。(自分の理解力の無さもあるだろうが)
    「人による支配ではなく法による支配を!」という考えも納得できたが、法も人が作るものである以上、人間的な何かから逃れられないのではないかという疑問が残る。

    なぜ人は自由でない方向へ進んでしまうのか、人の選択を支配しているのは一体何なのかというところが知りたくなってきたので、積読状態である「自由からの逃走」と「選択の科学」を読んでそこらへんの理解を深めたい。

    • sasa88さん
      納得です、確かにあるべき自由の姿がみえないきがする。でもあるべき姿を規定すると自由主義ではなくなってしまうってのが自由主義者の考え方な気もす...
      納得です、確かにあるべき自由の姿がみえないきがする。でもあるべき姿を規定すると自由主義ではなくなってしまうってのが自由主義者の考え方な気もするんですよね。
      でも、個人的には自由主義でもあるべき姿は提示するべきだと思います。自由の概念を提示してる時点ですでに理想を提示してるわけですしね。
      2011/09/18
  • <目次>

    1994年版序文          M・フリードマン

    序章

    第一章 見捨てられた道
       全体主義はわれわれの思想的誤りから生まれてきた
       自由文明の発展と自由主義の衰退
       西欧文明を崩壊させる思想

    第二章 偉大なユートピア
       自由を主張する社会主義の矛盾
       ファシズムと社会主義は同根のイデオロギーである

    第三章 個人主義と集産主義
       社会主義をめぐる混乱
       自由主義的計画対中央集権的計画
       自由放任主義の誤りと自由主義政府の使命
       真の自由主義に「中庸の道」はない

    第四章 計画の「不可避性」
       技術発展が独占を生むという神話   
       政治による特権こそが独占を生みだした
       価格という「情報」こそ複雑化した社会で力を発揮する
       選択の多様性が未知の世界への発展を保証する
       「計画化」は偏った知の幻想である

    第五章 計画化と民主主義
       「公共の福祉」は内実のない概念である
       すべての価値を考慮することは人間にはできない
       計画化は民主主義政府には不可能である
       専門家による計画という危険な幻想
       民主主義の破壊
       民主主義は手段にすぎない

    第六章 計画化と「法の支配」
       「人による支配」から「法による支配」へ
       抽象的ルールこそ法である
       自由裁量による法の破壊
       「結果の平等」は自由を破壊する
       権力の制限こそ「法の支配」の眼目である
       社会主義は「法の支配」と相容れない

    第七章 経済統制と全体主義
       「経済的問題」という誤り
       経済の統制とは全生活の統制である
       経済を統制する権力は無制限の権力となる
       経済統制は職業選択の自由を奪う
       「経済の終焉」という幻想
       経済的自由なしにどんな自由も存在しない

    第八章 誰が、誰を?
       私有財産は自由の最重要の基礎である
       諸個人の運命が政府の手にあるという悲劇
       「分配の正義」に確固とした答えはない
       「公正所得」は新たな差別をもたらす
       社会主義は洗脳を必要とする
       全体主義は中産階級の社会主義である
       特権集団間の闘争

    第九章 保障と自由
       自由の下での保障と自由を破壊する保障
       所得保障という危険な罠
       生命や自由とひきかえに与えられる保障
       保障という特権が社会を毒していく
       「官僚国家」が自由を圧殺する

    第十章 なぜ最悪の者が指導者となるのか
       独裁権力が道徳的であることはない
       強力な政党は人間の下等な部分によって組織される
       集産主義は排他的な権力賛美へと向かう
       「自由主義的社会主義」はありえない
       集産主義はあらゆる道徳を否定する
       個人主義的美徳と軍隊的気風
       不道徳な人間こそ権力への道を進む

    第十一章 真実の終わり
       統制は「真実」をも歪めねばならない
       価値判断を正当化する「神話」
       歪曲される「自由」や「正義」
       イデオロギーに沿わない学問は弾圧される
       知的自由こそが未知の世界へと導く

    第十二章 ナチズムの基礎としての社会主義
       全体主義は社会主義から生まれた
       軍隊的目的遂行主義への賛美
       人間より組織を
       「国家」「社会」こそ重要であるという主張
       「官僚国家」への道

    第十三章 われわれの中の全体主義者
       知識人達に見られる全体主義への傾向
       社会の組織化に対する知識人の欲求
       科学者達の全体主義的志向
       組織された資本家・労働者が自由を圧殺する
       労働運動による自由と民主主義の破壊


    第十四章 物質的条件と道徳的理想
       個人に理解しえない力こそが文明を成り立たせている
       「完全雇用」という幻想
       経済問題の解決には富の一般的増大が必要である
       「個人的理想」の理想が再興されねばならない
       英国の自由主義的伝統の復興を

    第十五章 国際秩序の今後の展望
       経済ブロック化の危険
       国際的経済計画という誤った考え
       国際的計画は新たな紛争を招く
       大国による力の支配
       連邦制度が国際秩序を創出する
       「法の支配」を国際的に拡げなければならない

    結び

  • 今回は流し読みのみ
    自由主義経済の重要性を説いた名著
    但し、長い

  • ’当時と同様に今日においても集産主義の推進は、同時に個人主義に特有な諸価値も公言されることによって、後者と結合されてなされてきた。全くのところ、大きな政府のもとで実際に生活したという経験が、この不整合に富んだ特異な価値体系を、いっそう強化することとなった。そして既存の権力組織に対する広範な異議申し立てがなされている。これは、社会的一致に対して抗議する、驚くべきほど強固な社会的一致だ。つまり、参加的民主主義実現のため、各個人の個人的ライフスタイルに沿って、「各個人が自分が思う通りにする」自由に対する、広範な要求が今や社会に出現しているのだ。この種の(異様な)体型へと縒り合わされた社会的要求を聞いていると、集産主義の波は今や、反転してしまっていて、個人主義の波が再び高まり始めたのだと、誤って信じてしまうかもしれない。
     しかし、ハイエクが事実に基づいてはなはだ説得力に富んだ説明をしてくれたように、個人主義的な諸価値が樹立されるためには、個人主義的な社会をまずもって築かなければならない。というのも、この社会は自由主義的秩序のもとにおいてだけ、建築可能だからである(ここで私はハイエクと同様に、自由主義的(リベラル)という言葉をその語源である19世紀における「権力が制限された政府と、政府その他による外部からの干渉がない自由市場」、という意味において使うのであって、上記の意味とはまったく逆の意味を持つようになってしまっているアメリカ合衆国において、今やこの用語が意味するようになっている腐敗した意味においてではない)。そこにおいては、政府の活動は、各個人がそれぞれなりの目的追求のため、自由に活動して良い枠組みを限定することに主として限られる。なぜなら、自由市場こそが本当に「参加的な民主主義」を達成するためにこれまで発見された唯一のメカニズムだからである。
     上述してきた問題に関連して、不幸なことに、目的とそれを達成するための諸手段との関係についての、大きな誤解がある。個人主義的な諸目的の大半を支持して公言する人々の多くが、矛盾だと認めることなしに、集産主義的手段をそれら諸目的達成のための手段だとして支持している。社会の諸悪は邪悪な人々の活動によって発生させられるのであって、(自分たちのような)善良な人々が権力を振るいさえすれば、すべてはうまく行くと信じることは、心をそそる考えではある。この考え方は人々の感情と自己称賛心さえありさえすれば十分だ。そしてこれらは容易く手にはいり、人々の心を満足させもする。

     しかし実際は、邪悪を生みだすのは権力の座にある「善い」人々である。反対に、善い結果を生みだすのは、権力は持っていないが、隣人と自発的な協同のための活動ができる「普通の」人々だ。これを理解できるようになるためには、(感情抜きの)分析と思想とが不可欠であり、もろもろの感情を理性的な諸機能へと従属させなければならない’
    (ミルトン・フリードマン 1994年版への序文)




    言葉はすぐに裏返ってしまうものだ。だのに、たった2つの背反し合う言葉のどちらかだけに当て嵌まっていってしまうのが僕らだ。そのどちらかだけを選ばなければならないだなんて、そんな理由はどこにも見当たらないのに。言葉が頼りにはならない。例えば、同じ言葉を使っていたはずなのにいつの間にか、立っている位置が入れ替わってしまっていたりする。言葉が頼りないというだけで、自分自身というものさえ頼らないものになり、ままならないものとしてしか存在していられなくなる。ぼくたちには、言葉しかないのだけれど、言葉だけではだめだということを思い知らされる。言葉は道具でしかないということだ。意思、意識、認識、概念、想念。相対、絶対、具体、抽象、部分、全体。思考するということは、それでもそれはただの言葉でしかないと、受け入れることからようやく始められるのかもしれない。一瞬で裏返る。主体も客体も総体も、定かとなる姿形を維持し続けることがほとんどできない。肝心なところで頼りにならないものを頼りにすることしかできないぼくたちは、その頼りなさを誤魔化さないで、逃げることをしないで、立ち向かい続けることを止めないで、いることしかできない。そうでないとすれば、いまのこの社会のようになってしまう。この世界になってしまう。相対的なことが、総合的なことが、合理的であることが、科学的であることが、人間的であることが失われて、理性に塗れて、想念に溺れて、感情的というもっとも人間性からは遠いところへ、逃げ込むことしかできなくなってしまう。

    つまり、ここに並べた言葉たちも、一方ではほとんどなにも役には立たない、と認識できることだ。

    そう捉えることが、そうではない何かを導く。考えることはそうやって、いまを手繰り寄せた自分に、ちょっと待ったを懸けてあげることだ。


    世の中なんてものは、ぼくたちと無縁であるものなんかでは決して有り得ない。望んでいない未来なんて決してこない。やってくるのは僕たちが望んだものでしかないということだ。だから、こんなはずではなかったかとか、なんでこんな風になってしまったんだろうだとか、手に入れるべくして手に入れたものに対して、慨嘆するようなことは、頼むから、恥ずかしいから、やめてほしい。どこかのだれかの、碌に知らないものたちによって、自分たちの世界が変えられてしまったと、捉えているようだから、この社会はこんなにもままならないままでしかないんだ。ぼくが、あなたが、このいまに、この目の前に表れてくるものに対して、振る舞った結果が、必ず、自分自身のものになる。それでしか、自分の「世界」は作られはしない。そのことに自覚があるかどうかで、隷属することなく自分自身を、自分というものを頼りにして、生きているのかどうかを計ることができる。

    社会が言っていることをひとまず、鵜呑みにする。それがまず自らの前提になるというのだったら、それが隷属しているということの意味にしかならない。自らという存在で真っ先に捉え、解釈し、比較し、分析し、理解し、導き、とにかく思考することによって、ようやく世界がどのようにあるかを定める。そうやってみてはじめて、そこに表れる自分をどうしていくのか、どうしたいのかを見立てる。それが、一人立つということで、自らで立つということで、そのどこまで行っても主体的でしかない個人的でしかない、姿勢によって、ようやく世界が、ほかの世界とともに並び存在することができるようになる。

    誰かのせいにして生きる。そんな恥ずかしいことはやめなよ。
    どこまでいっても、自分は自分でしかないし、世界は自分から始まる世界としてしか存在しないのに、考えることをしないで、考えることを誰かに丸投げにして、自分の生きることにエクスキューズを必ず付随させながら、言葉のとおりに、人任せに生きている。いまがいまのようになっている理由なんて、かんたんに解釈できる。というか、その程度のことでしかない。ぼくもあなたも、周りも、日本も、アメリカも、ヨーロッパも、中国も、世界のどこもかしこも、同じだ。人間がやることがほとんど同じでしかないという意味でしかない。

    歴史というものの中に何度も何度も繰り返し表れてきて、人間の特性として浮かび上がってくるものと、その延長線上に、近代から現代、そしていまに続くまで、これからの将来にますます表れてくるだろう社会というものの様相に、ひとが仕出かすことの本質が仕込まれている。

    全体主義的ものに巻かれていくしかない、この社会に繰り返し表れてくる意思は、ひとりひとりの人間の浅はかさとして、ひとといものの限界を認めさせてくれる。みんな左傾化していく。徹底的に自惚れることができて、自覚ということが何一つできなくて、足下を確認することから、世界を組み立てることができない。人類の可能性を無責任に勘違いできる、ポリティカル・コレクトネスで自分自身を雁字搦めにできる、差別を冗長させながら醸成させながら自らで差別を繰り出しておきながらまったくそれを無視していられる、二項対立でしか物事を捉えることができない、二重規範という意味を一つも把握することができない、ばかばかしくなるほどのろくでなしたちが、一丁前に社会的に生きて、世界を動かしていると勘違いできる世界をぼくたちはいまここに作り出している。そして、ほとんどだれもそのことに気づくことができない。

    隷属の道をもうずっと歩いている。ぼくたちははじめから、手放してはいけないものを手放して、なくしたことにさえ気づくことができずに生きている。

    人の生きる世界は、これからもっとズタボロになっていくだろう。それは、人が才能を存分に発揮する世界に近づいていってるからだ。進歩し、進化する、ひとの世界なんて、これまでもこれからも、表れることなんてない。

    そう示してくれる、いまだ。

  • 自由主義を考え、全体主義を批判考察するために。

  • 章ごとに主題がまとめられてて読みやすい。所々、自身の勉強不足で難しい部分もあったが全体的に翻訳も分かりやすかった。社会主義がなぜ上手く行かないのか理解が深まった。真の「自由」がもたらす恩恵は凄い。

  • 「隷属」というなんとも恐ろしげで、今どきどんなことがあるのかと思いきや、意外とみんな望んでいるのではと思うところがあり購読。こういう時代だと、強力なリーダーになんでも決めてもらいたいとか、科学者や有識者の言うことならなんでも信じたいとか、指針を示せとか言う人が増える。片側で正しいのだが、もう片側で自立的な思考を放棄しているとも言える。古い言い回しで読みにくい部分もあるが、一章は短いので少しずつ読めば十分読了できる。「自由主義で成功を収めたものはその経済的繁栄を失いたく無いことから自由主義に反対するようになる」「民主主義は、権力を制限する力であるべき」「教養や知性の水準が高くなればなるほど、多様性も増す」「産業・経済の国有化は思想の国有化である」「タマゴを割らずにオムレツは作れないが、その時破壊されるののは何世代にもわたってようやく獲得できたものであるかもしれないと言うことを検討すべき」「進歩を計画するよりも、進歩にとって有利な条件を整える方が重要」など。本書が描かれたのは第二次大戦終戦直前の時期であるが、現代にも当てはまることが本当に多い。特に「諸個人の活動を細部に至るまで記録分析し、意思決定の結果を明らかにすることができなければ、経済的な完全統制は不可能である」と言う部分。GAFAがもっと広まれば、これができてしまうのでは。それを人々は歓迎するのだろうか。

  • どのように社会主義がクソかを丁寧に説明してくれる本。
    最後の方は、英国人の道徳の観点から自由主義の必要性を語っていて良かった。

  • ナチズムを生み出したのは民族性や狂気の独裁者ではなく、自由主義に疲弊した民衆が社会主義の計画性と公平性に庇護を求めた結果、全ての権利を政府に与え、結果的に全体主義を生み出したという趣旨。
    驚くべきと事にWW2中に書かれたこの本の内容は恐ろしいぐらいに現代と当てはまる。
    自由という言葉は美しい響きと裏腹に過酷だ。大衆は心の底では自由を好まない。水戸黄門のように強い権力を持つ政府の美しい管理に身を任せたいと考えている。これは政治信条の左右を問わない。そして政治とは別の次元でも、現代人はGoogleやAmazonの管理下で暮らすことを好む。圧倒的に楽だからだ。
    思ったのは、19世紀に発明された自由主義、民主主義という道具そのものは汎用性、堅牢性、永続性のある素晴らしい逸品。しかし業物の包丁が最高の料理を作り、殺人の道具となるように、汎用性の高い道具は使い手の質を要求する。
    21世紀になってすら人類はこの道具を使いこなせるほど意識が高くなっていない。より正確に言えば、大衆の本質は何世紀も変わっていない。我々が道具を使える大衆になるには教育の質が足りていない気がする。Whatは足りていてWhyとHowが圧倒的に足りてないのだ。(学校改革とかのレベルではない。教育そのものの問題)
    巻末に「戦前を知らぬ若い世代への期待」があり、同様に現代でも「過去のしがらみと偽りの繁栄を知らない若い世代」には教育の負の連鎖を断ち切る可能性があると思ってる。

    この本は政治やイデオロギーの形而上学的な遊びではない。「ヒトがよりよく生きていくためにどうあるべきか」というソクラテスから続く素朴な疑問への現実的な問答と言える。

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著者プロフィール

1899~1992。ミーゼスとともにオーストリア学派の資本理論を展開。景気研究所の所長を務め、『貨幣理論と景気循環論』『価格と生産』を出版。市場制度擁護の論陣を張り、計画経済・ケインズ主義・福祉主義を批判。第二次世界大戦後に渡米。シカゴ大学で『自由の条件』を出版。法思想家・心理学者の顔も持つ。後に帰欧。

「2021年 『自由の条件Ⅲ 福祉国家における自由』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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