日本人と中国人――〝同文同種〟と思いこむ危険 (祥伝社新書 487)

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  • 祥伝社
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396114879

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  • 中国を知ると同時に日本理解の手助けにもなる名著の復刻版。著者は『諸葛孔明』『阿片戦争』など中国歴史小説の名作を多く世に出した歴史作家です。初版が出たのは1971 年と古いですが、時事ネタを避け、歴史や古典に即して日本人と中国人の違いを根本的に、かつ分かりやすく分析した内容は今でも参考になります。
    (選定年度:2019~)

  • 「同文同種」
    使われる言葉と人種が同じ、という意味だそうです。
    ちょっと古い本なので時代の違いなのかもしれませんが、日本人と中国人、人種が同じと思うことが日本人の共通認識なんでしょうか?

    中国人と一口に言っても、漢民族、満州族、蒙古民族、女真族等々。
    それに対して日本人=大和民族と思われていますが、アイヌの人たちもいるわけです。
    日本人と中国人の人種が同じとは全然考えられないのですが。

    ましてや、同じ漢字を使っているから分かり合えるというのも勘違いで、同じ漢字でも意味が違うことは多々ありますし、今の中国の簡体字と日本の漢字はもう別ものでしょう。

    それを踏まえたうえで、日本と中国の違いというのが目新しくて面白い。
    例えば、日本人は実を取り、中国人は名を取るんですって。
    私は逆のイメージだったのですが、確かに日本人は禊さえ済めば復活はありですが、中国人は歴史に名を残すことを第一に考えるので、敗残者として名を残すくらいならダメもとで一発逆転を狙う。
    なるほど。

    けれども、「それはどうかなあ」な説も結構あって、それは負けず嫌いな日本人の私の主観かなあと思ったら、解説でもそのようなことが書かれていたので、日本人の皆さんにこの本を読んでもらって感想を聞きたいと思う。

    例えば中国人はバランスを尊び、日本人はアンバランスを好む。
    確かに文化的には日本人はアンバランスを好むのかもしれないけれど、現実的には非常にバランスを考えて行動すると思うのだけど。
    逆に中国詩の対句はさておき、中国人の個人主義には引いてしまう日本人のわたくし。
    権威に弱い日本人はある意味権威主義なのかもしれないけれど、中華思想を押し付けてくる中国人の権威主義もなかなかのものだと思います。

    決定的な違いは文化というものの捉え方。
    日本人は文化と政治を切り離して考えるけれど、中国人は文化はあくまでも政治を補佐するためのものでしかないと考える。
    だから文化人を政治的理由で処断することを許せない日本人と、文化人=政治家である中国人。

    ああ、やっぱりいろいろと別物だわ。
    だからお互いにわかりあう努力をすればいいと思うのだけど。

  • 日本人と中国人との違いを、中国の人の目からみたいと思い、この本を手に取ったが、たしかに中国サイドの味方は一考の余地ありと感じるものの、対する日本に関する見解に関しては、そのほとんどが「ではないか」「ではあるまいか」で締めくくり、示した仮説の理論的背景が著しく乏しい。極端な話をすれば、日本に関する視点はすべて観念論であって、「なるほどそうか」と思えるところが少ない。日本に対する特徴の根拠としている若干の事実関係にも、理解の深さがなく、きわめて表層的で、読み物として読むにも、面白みに欠ける。
    例えば、中国人の「説得主義」に対して、日本の「もののあはれ」「嘆息」の事例として出てくるのが倭寇であるが、氏はそもそも倭寇の歴史をご存知ないらしい。倭寇は、九州の西海、福建、朝鮮半島に囲まれたあの水域を生活の場としていた、日本人、中国人、朝鮮人の区分けない、海を生活の場とする人々の集まりであり、その倭寇の行動様式を日本的なものとしてみること自体に大きな矛盾がある。代表的な例を言えば、明の時代倭寇の頭であった鄭芝龍であろう。彼は平戸(にも)屋敷を持ち、日本人の妻を娶り、そして生まれたのが鄭成功である。その親子が明清の攻防に身をやつした話が、近松門左衛門の「国性爺合戦」である。
    それ以外にも、中国は自然(黄河)の脅威が大きく、一方で日本はそのような脅威がなく自然が穏やかであったというのも、大きな誤りで、古来日本は毎年風水害、地震、疫病など、さまざまな自然災害に人々は苦しんできた。だからこそ、古来日本は呪術が人々をまとめ、卑弥呼はその最たるものであった。自然崇拝こそが日本の根源であって、それは今も沖縄などで見ることができる。そしてあらゆるものに神の力が宿り、その力を畏怖し、感謝して生きてきた。その後平安の時代に教義としてまとめられたのが神道であり、日本的儒教の根幹となるものであった点は無視できない。生活のあらゆるところに神は宿り、またよい神も悪い神もいた。
    そのほかにも、日本的なことがらの根拠となっている一つ一つの事が首をかしげるような話が多く、氏の中国人いかなる人々、という半分だけが読む価値があるところだろうと思う。
    ちょっと残念な本である。

    追記
    p108
    「中国人は歩きながら、道しるべを立ててきた民族で、日本人は道しるべを頼りに歩いてきた民族であるといえる。」
    これも、あまりに単純かつ強引な観念的比較論だ。
    事実に基づけば、
    「中国人は先に出発したが、そのあとまもなく日本人に追い越されて、その後はずっと日本人が作ったガイドブックを見ながら、日本のあとをついてきた。」
    が正しい。
    明治以降、日本は脱亜入欧の中で洪水のように流れ込むさまざまな情報を、漢字を通して日本語で解釈をし、そして新たな言葉を作ってきた。これらは「和製漢語」としてその後中国に逆輸入され、中国ではこれらのお陰で日本から遅れて近代的な科学技術、産業技術、思想哲学を理解することができた。現在中国で利用されているさまざまな科学技術、産業技術、思想哲学の言葉は、その八割が日本で作られ逆輸入されたものだ。これらを全て取り去って仕舞えば、近世に逆戻りせざるをえない。
    今や中国では日本がたてた道しるべがなければ、科学技術、産業などありとあらゆる現代社会における議論さえままならない。
    上記の「ガイドブック」の比喩は、儒教においても当てはまる。ガイドブックを作り、そしてその実践を通して、真に孔子が夢見た周代の平和な社会を構築できたのは他ならぬ日本だったからだ。その様子の対比は、すでに幕末日本を訪れた多くの外国人の手による手記でも明らかであり、例えばオランダから軍艦「ヤーパン」(引き渡し後咸臨丸)を回航してきたカッテンディーケは、長崎から上海に出張した際に、そのあまりにも違う様に驚き、「早く長崎に帰りたい」といい、「終の住処にするなら長崎こそがその地である」とさえ書いている。かたや大陸の国は、今もこの瞬間にチベット・モンゴルにおいて虐殺・侵略を繰り返し、法輪功信者の臓器を飛び出し臓器ビジネスに余念がない。これのどこが孔子の夢みたユートピアなのだろうか。まさに畜生道に落ちた、山歩きの喩えでいうなら、ついに頂きにたどり着くことなく、谷間で今も彷徨っているという状況であろう。
    したがって、この陳舜臣氏の「道しるべ論」もやはり観念的なもので、事実に基づかない、あまりに単純な比較論である。

    追記
    日本の「血統主義」も陳舜臣氏の観念的な思い込みを前提としたものだ。日本は血統主義なのではなく、同じ学びを受け継ぐ「家」を最も大事にした。
    日本は血統を重んじたのではなく、家柄を重んじた。むしろ、血の正当性は(朝廷を除いて)問題ではない。家筋を維持することが問題であった。したがって武家においては、家を存続させるために、さまざまな理由、必ずしも嫡子が居ないという理由以外でしばしば養子を迎えたし、むしろ歴史に名を残す武士は養子が多い。これはさまざまなレベルで行われた。
    中江藤樹は叔父の養子となり、吉田松陰も吉田家の養子である。
    庶民においてもこれはあった。特に商家は家業、家を存続させるために、跡取りが不甲斐なければ養子を迎え、跡取りがいなければ娘婿として養子を迎え、あるいは優れた能力を持つ人材を会社の社員に迎えて鍛えた上で(番頭)、また養子に迎えた。日本で大事だったのは血ではなく家であり、また単なる家ではなく同じ学びを引き継ぐ学統としての家であったと言えるかもしれない。ということで、ここでも陳舜臣氏の日本人と中国人の対比はこけている。

    追記
    p238
    歴史尊重主義が極端になると、まちがいなく形式主義になる。
    しかし、この形式主義があったからこそ、中国は一つにまとまってきたのだ。どんなに混血しても、外来の侵略者がかき混ぜても、中国人意識ーー中国の文明を奉じるという形式さえ整っておれば、それを中国人と認めてきた。
    かつて中国が帝国主義列強の餌食となっていたころ。
    ーー中国は国家ではなく、ただの地域の呼称にすぎない。
    という発想法から、しきりに中国分割論が唱えられた。中国の歴史でも、三国分立の時代もあれば南北朝もあった。だが、そのような分裂の時代の人たちも、それをけっして常態とは思わなかった。
    ーーほんとうは一つの国だ。
    という精神の形式を守ってきた。
    『二つの中国』を中国人が嫌悪するのは本能的なもので、それは列強の切り取り御免時代の、にがい記憶につながる。

    ※勘違い。この「ほんとうは一つの国だ」という感覚は、近年政治的なプロパガンダとして作られたものだが、しかしもしそれを本当に信じているとすれば、それこそがまさしく、周辺国を際限なく取り込もうとする侵略行為の正当化のための詭弁となっていることがよくわかる。例えば台湾も、もともとは、百歩譲っても中原とはなんの関係もない別の人々が暮らす別の国であり、古来から中国意識としての境界は、その海岸線を出なかったということが、石井先生の尖閣史の研究で明らかであり、これまで発見された全ての中国人自身による歴史史料の全てがそれを如実に物語っている。しかし陳舜臣氏のような感覚が現代中国の(特に知識階層の)普通の意識なのだとすると、まぁ見事に中国共産党による侵略のための詭弁に洗脳され尽くしていて、その正史なるものは都合よく編纂されているということもよくわかる。だから、未だにモンゴル・チベットを侵略し、九段線なるあからさまな膨張政策を他国に押し付ける。つまるところ、その単調増加的な膨張政策自身が中国なるものの実態であり、さらに言えば、それは中国の歴史の中で醸成されてきたものというよりは、多分に地政学的に生じてきただけのものであるとさえ言える。
    陳舜臣のような知識人がまじめにそのような間違いを信じ込んでいるとするならば、中国政府による洗脳は地域的な国内にとどまらず、広く世界中の同胞に及んでいると言える。

    p241
    中国はむかしから、アウタルキー(自給自足)が理想であった。
    十八世紀の末に、通商条約を結ぼうとして北京までやってきたイギリス使節にたいして乾隆帝は、
    ーー天朝は物産豊盈(ほうえい)、有らざる所なく、原(も)とより外夷(外国)の貨物に籍(よ)って有無を通ぜず。
    という勅諭(ちょくゆ)を与えて追い返した。
    なんでもあるのだ。ーーいまは失われているかもしれないが、かつては何でもあったと言うのか、現在でも中国人の信念である。だから、お手本も外国に仰ぐことはない。中国人は自分たちを改造しようとするときも、モデルはもともと自分のうちにあったものからえらぶだろう。

    ※これも勘違い。
    欧米による侵略・植民地化以前のアジアの諸国はどこも似たように自給自足で、満ち足りていた。それを欧米は植民地化により地産地消の構造を破壊したが故にいま貧しいのだ。これをもってして中国だからどうのというのは、多分に客観的視点を欠く自己満足でしかない。
    「中国はむかしから、アウタルキー(自給自足)が理想であった。」
    はそのままアジアのすべての国に言えること。
    「インドはむかしから、アウタルキー(自給自足)が理想であった。」
    「インドネシアはむかしから、アウタルキー(自給自足)が理想であった。」
    そして
    「日本はむかしから、アウタルキー(自給自足)が理想であった。」云々。
    全く中国的でもなんでもない。何の比較にもなっていない。

  • 中国と日本双方の文化を深く理解する陳舜臣という作家を日本に得たことは、大変幸運なことである。本書では中国人と日本人の相違点が、象徴的な文学、美術、戦闘などから提示されている。私が納得した点は、明治以前は日本人が中国と直接関わったのは秀吉の朝鮮出兵のみで、書物を通じて間接的に中国を理解していたに過ぎない、故に相互に理解し得ないことがあって当然だ、とする説明である。
    初版は1971年であり当時の中国は文化大革命の最中。時事を絡めていないだけに、2018年の今も本書の内容の多くは色褪せていない。しかし、第8章「中国人が最も信頼するものは”歴史”」というくだりは、さすがに現在の覇権主義を剥き出しにする中国を思えば、陳氏の洞察も及ばなかったということか。

  • 史記の引用多い。読んでみたくなった。かなり昔に出された本なんで驚いた。普遍のテーマなのか…。

  • ・宣伝記事@フェイスブック
    https://www.facebook.com/shodensha.shinsho/posts/1240117412711649


    【簡易目次】
    第一章 日本人と中国人に関する一問一答――あなたは一体、どれだけ知っているか?
    第二章 脣と歯――つきあいの歴史――中国の古典から見た日本の歴史
    第三章 “面子”と“もののあわれ”――決定的なちがいは、日本に黄河がなかったこと
    第四章 ことだま――“同文同種”と思い込むことの危険
    第五章 “血”と“文明”――日本文明の源は“血統への信仰”にある
    第六章 “完全”と“不完全”――バランスを尊ぶ中国人と、アンバランスを好む日本人
    第七章 “人間くささと“ほどのよさ”――自殺ひとつとっても、これだけのちがいが……
    第八章 われら隣人――長短相補う国家、そこに摂理が……

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著者プロフィール

1924年-2015年。神戸市生まれ。大阪外国語大学印度語部を卒業し、終戦まで同校西南亜細亜語研究所助手を務める。61年、『枯草の根』によって江戸川乱歩賞を受賞し、作家活動に入る。その後、93年、朝日賞、95年には日本芸術院賞を受賞する。主な著書に『青玉獅子香炉』(直木賞)、『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』(日本推理作家協会賞)、『実録アヘン戦争』(毎日出版文化賞)、『敦煌の旅』(大佛次郎賞)、『茶事遍路』(読売文学賞)、『諸葛孔明』(吉川英治文学賞)、『中国の歴史』(全15巻)などがある。

「2018年 『方壺園 ミステリ短篇傑作選』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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