- Amazon.co.jp ・本 (562ページ)
- / ISBN・EAN: 9784403210662
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
詩人でもある著者が読者に語りかけるかたちで、歌を中心に日本文学史上のさまざまな作品の魅力にせまっている本です。
『万葉集』や『古今和歌集』などをとりあげた箇所では、大伴家持や紀貫之のおこなった「編纂」という営みへの注目がなされており、長年「折々のうた」を連載してきた著者らしい着眼点を示しています。平安貴族たちが歌を詠むための手引書として編纂された『古今和歌六帖』に一章をあてて解説しているところにも、こうした著者の着眼点が生きているように感じます。
また、中世的な生き方を示した人物として、女性では建礼門院右京大夫と『とはずがたり』の後深草院二条をとりあげ、男性では藤原俊成、定家の父子と、西行の作品が紹介されています。
さらに著者は、後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄』をとりあげています。今様を愛した後白河院は、折に触れてふっと出てくるものが歌であるという、即興性を重んじる考えがあったのではないかと著者は推測します。さらに江戸時代の『閑吟集』、俳諧や川柳、連歌などの隆盛について紹介がおこなわれており、ここでも著者は多くの人びとが参加し即興によって次々と趣向を転じていく芸術のありように読者の注意をうながしています。
最後に、正岡子規や高浜虚子によって推進された「写生」の考えと、それとはまったくちがうことばそのものの芸術性を追求した尾崎紅葉の試みについて触れられています。
たんなる文学史的事実の羅列ではなく、著者の個性が強く反映された文学史で、たいへんおもしろく読むことができました。 -
10年前に図書館で借りてきて通読したことがある。今回は、第六章の「男たちの中世――俊成/西行/定家」だけを読み返した。というのも、現在放送されている大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観ていて、ああそういえばこの時代って新古今和歌集の時代だよなあ、源頼朝って西行と同年齢じゃなかったっけ?とか、源実朝は藤原定家に和歌を教わったのではなかったっけ? と、政治史の横に流れる文学史について、思いを馳せたからである。はたして、私はこの『あなたに語る日本文学史』を通読したことがあって、ドラマを観ながら、そういえばこのとき後鳥羽上皇は新古今を…とか思いついたのは、大岡信さんからの受け売りなのであった。それを今回「男たちの中世」を読み返して確認した。
題名のとおり、俊成と西行と定家が取り上げられるが、俊成のところがおもしろい。ところで、俊成について語るのであるが、俊成について語りながら、詩作一般について、本質的な事柄をずばっと文章にするのが、大岡信の批評文の私の大好きなところである。この章のはじまりで、いきなり、歌の方ではなく批評家としての歌人を論じる、というのがまずそれだ。大詩人は必ず大批評家である。なぜなら、言葉をもって細かく人間のことを分析できるからだ。それは、世界中時代に関係なくそうなのだ。というように、普遍的なことを言う。だから、日本の中世の歌人という超ローカルな局所的なことについて語りながら、視野が狭くなく、目をぱっちりとあけて、読む方は、気持ちいい。
俊成は『千載和歌集』を編纂したらしい。こんな歌集、国文学を習っていない私はしらなかったのだが、中世の時代を代表する作品であることを知れておもしろい。「平家物語」における無常が、同時代として、和歌の中にも存在していた、ということ。他にも、同時代の、鎌倉新仏教なるものが生まれてきたということともつながるようなところ、を考えさせられる。鈴木大拙の『日本的霊性』では、平安期の貴族文化から、鎌倉期の武家文化へ移行したとき、日本人は大地性?をはじめてつかんだ、というようなことが書かれていたと思う。それは単純な文学(源氏物語・和歌)⇒仏教(念仏・禅)という転回を描いたと思う。しかし、その移行に、和歌自身の中にも、大拙のいうところの「大地」を感じさせるところがある。それが「千載集」である。そんなことは本書には書いていないのだが、文学史だけでなく、広く仏教・政治史と連関して考えてみたくなるのが本書である。もしかしたら『正法眼蔵見聞記』について少し触れられていることによって、誘発された想像なのかもしれない。
それらを踏まえたうえで、取り上げられる俊成の歌というのが「恋歌」なのがしびれる。やっぱり恋歌なんかい! とつっこんでしまう。動乱の中世でも歌うのはまだ「色恋」なのかよ、と。しかし、読み進めるとそういう単純なことではないことに気づく。俊成の恋の歌のなかに、大岡は、中世の目を読み取る。26歳で母を亡くした時の歌。
うき世にはいまは嵐の山風にこれやなれゆくはじめなるらむ
悲しみの嵐の中で、こういったつらさもいつか慣れてしまうのだろう、という諦観が歌われている。このように、現実に生きる自分を、ひとつ高い位置で他人事のように眺めている自分がいる。これを大岡は「自己分裂の意識」と名付け、中世の時代に特有のものだと解説する。そこから、夏目漱石の則天去私へとつなぎ、この意識について大学の卒業論文で書いたのであって、これについて考えることがライフワークだ、と語るのは、読んでいて、胸が熱くなる。こういうガッツも大岡の文章の私が好きなところだ。