「私」という演算

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著者 : 保坂和志
  • 新書館 (1999年3月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784403210686

「私」という演算の感想・レビュー・書評

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  • 保坂さんの考え方にふれる。

  • 国語の教科書みたい。

  • 結婚した当初、妻となった女性から「タオルは洗いざらしか」と聞かれた。なんのことだ、と思ったのでそう言うと、「柔軟剤を使ってもいいのか」という質問らしいことが解った。柔軟剤がどのような効果をタオルに与えるのかそれ程定かではなかったのだけれど、テレビのコマーシャルでみんなが気持ち良さそうにタオルに頬を当てている映像を思い出し、使ってよし、と答えた。ある朝、顔を洗ってタオルで顔を拭こうとすると、どうもタオルが水を、すっと、吸い取らない。自分は洗面台の周りをびしゃびしゃにするほど水を顔にこすりつけ、手でぬぐったりしばらく待ったりせずにいきなりタオルを顔に押し当てる癖があるので、タオルが水を吸い取らないといつまでも顔が濡れているようで気分がよくない。こういう現象は、真新しいタオルなどを使った時によくあることで、タオルに付いている何かロウセキの粉のようなもの、のせいであるということは、一人暮らしをしていた学生の時に、近所のコンビニで買ったタオルや新聞配達のおじさんのくれるタオルなどから経験して理解していたから、妻となった女性がさすがに新婚なので新調のタオルをおろしたのだな、というくらいにしか考えなかった。しかし、あくる日も手に取ったタオルは、新調、で、まあ一枚ということはないだろう、とその日は納得したものの、何日も続けて、新調のタオルにばかり当たるうちに、これは何か新調とは別な理由があるに違いないと、うすうす気づき始めた。はたして、その疑問を口にすると、妻となった女性は、だから柔軟剤は使っていいのかと聞いたじゃないか、と言う。その時初めて柔軟剤の効果というものを実体験と結びつけて理解することができたのだ。

    何故こんなことから書き始めているのかというと、一つには保坂和志を読むとどうしても保坂和志が自分の中に入ってしまい、いつの間にか保坂和志的文章を書いているということもあるのだけれど、もう一つには、この保坂和志の随筆のようなものである「<私>という演算」という本の装丁が、自分の抱いている保坂和志のイメージから少しずれていて、自分としてはどちらかというと、生成り、というイメージの装丁、例えば、保坂和志の本では「カンバセイション・ピース」とか、川上弘美の「センセイの革鞄」のような、水をよく吸い取る洗いざらしのタオルを連想させるような装丁であれば、そんなことにはならなかったのだと思うのだけれど、この装丁からは逆に新調のタオルを思い起こすからだ。白地に細かい升目が描かれたそのデザイン自体には格別問題は感じないのだけれど、紙質が、つるつる、というか、てかてか、というか、きゅっきゅっ、というような感触のものであることが、どうにも気持ちを落ち着かなくさせているので、つい新調のタオルのことを思い出したのだ。自分は、大体、本を読む時にはカバーを外して本来の本の表紙を、表、にして読むのだが、驚いたことに、この本の表紙はカバーと同じ紙質で、相変わらず、つるつるてかてかきゅっきゅっ、という調子であることに、呆れるというか何故なんだという疑問というか、やるせない感じがしたのだ。しかも、その表紙の紙は同じデザインのまま見返しを100%被い、更に、最初の一枚目の紙(表題紙というらしい)としても用いられていて、ちょっと行き過ぎじゃないのか、という軽い非難の気持ちを起こさせるような装丁になっているのだ。自分は、買った本を後で古本屋へ売るとか手放す時にきれいなまま手放せるようにしておこうとか一切考えないたちなので、買ってまず見返しないし一枚目の紙にパスポート様式のサインをしてしまう。さらに自分で彫って、まあ割と気に入っている「裕」という白文の印を押すのだが、このつるつるてかてかきゅっきゅっの紙が出て来た時に、その印の朱を弾かない別の場所を探さなければならない訳で、まったくもう、という気分でこの本が始まってしまった感じが、本をいつまで読んでもつきまとってしまい、そんなことを考えたのだ。

    「カンバゼイション・ピース」を読んでいたのでそれ程驚きはしなかったけれど、あとがきで保坂和志が「ここに集められた九つの文章が『小説』なのかそうでないのか、編集者は気にしているし、読んだ人の中にも気にしている人はいるだろう。」と書いているのを見つけて、ははあ、なるほどね、と、またもや簡単に保坂和志の世界に自分が引き込まれているのが自覚できた。自分としては、小説的な小説、あるいは文芸的小説のようなものを保坂和志に期待している訳ではないので、この本の文章にはとても満足ではあるけれど、この発想のままフィクション、あるいは想像から発展した創造(たんに洒落が言いたいだけ、とも言える)のような形で書かれている文章の方が、どちらか言えば好きなのかも知れない。もっともそれが「カンバセイション・ピース」だったし、その形態のものとしては十二分に満足だったのだから、自分にとってのこの本は随筆として読んでしまっておこうと思う。あるいは、小説を書いている保坂和志の精神活動のうち、小説の方にはこぼれていかなかったものの集まりとして読んでいる、ということで折り合いをつけるのでもよい。

    既に「カンバセイション・ピース」を読んだ時に解っていたことだが、自分は保坂和志にかなり親近感を覚えている。ものごとは、何々であらなければならない、という考え方をできる人々もいるけれど、自分はたとえ言葉でそう言ったとして、そのすぐ次の瞬間に自分の言っていることを全面否定しても、その場では無理かも知れないけれど後からは納得できるたちであると思っている。もっとも、多くの状況では自分の立場を一度決めたら、その立場から正当化できると思われることを次々に考え出すことに熱中してしまうので、他人にはそうは見えないかも知れないけれど、自分にとって最初に選んだ立場というのはどうしてもその立場でなければならないと感じることは少なくて、大概はしがらみだとか、直感的な好き嫌いなんかで決まっていくものだ。もちろん、直感的に選んでいるのだとしたら、その立場は方向性を持った個人的な嗜好と一致している可能性もあるが、そもそもそんな方向性のある嗜好を自分が持っているのかどうか、あやしいものである。話を戻して、保坂和志のどんなところに親近感を覚えるかというと、その自分があやしいと思っている断定的な考え方ではなく、ものごとは、何々かも知れない、という考え方を保坂和志が好んでいるところだ。例を一つ挙げると、保坂和志は自分の考えなどについて言及する時に、自分は何々と感じている「らしい」、と書くことがある。この「らしい」を自分の言明につけるのは、決して最近の「わたし何々の人だから」や「自分は何々っていうか」のような言葉づかいや、はっきり言えば断定である「服の色は赤」というような文をわざわざ「服の色はアカ?」とおもねるように語尾を挙げたイントネーションで話すといった、あえて強い主張を表面上は避けて対人関係を柔軟に保とうという心理作用から出て来る表現ではなく、自分をある程度客観的に見つめても尚自分のことは自分にはよく解らないことが多いのだ、という理解から来るものだと信じたい。もちろん、信じているからこそ親近感を強く覚えるのではあるけれど。

    保坂和志の面白さは、そういう親近感がわかない人には伝わらないものなんじゃないか、と思うと、こんな風な文章を一気(ここまで10分も掛かっていない。いや本当に一気に書いてるなあ。)に書いて何かを残したい、あるいは伝えたい(誰に?)という気持ちを自分が持っていたとしても、意味のないことなのかも知れないとは思う。しかし、例えば次のような文章に自分は強い共感を覚えるのだが、そのことを伝えたいと思う気持ちからは、「クレタ人は嘘つきである」というクレタ人の言明から感じるパラドクスに近いものを感じないでもない。あるいはそれは「私の心にある赤色」が「あなたの心にある赤色」と同じなのかどうかを悩む気持ちとも言えるかも知れないが。

    「チェーホフが同じモチーフを繰り返すことになったのは、そこに切実さがあったからで、その切実さとは、たとえば、『私の心にあるもの』と『あなたの心にあるもの』が同じであることの証明への切実さなのではなかったかと思う。(改行)『私の心の中の神』と『あなたの心の中の神』が同じであることが保証される必要が、宗教にとって切実であると考えるのはわかりやすいけれど、切実さはむしろ科学の台頭によって生まれてきたのだとぼくは思う。」

    すれ違いは、あって当たり前のことだけれど、すれ違いたくないという切実な思いが、結局はいろんなものを動かしていく。でも柔軟剤の疑問のように相手の答えを尋ねたところですれ違いがなくなるわけではない。それでも尋ね続ける人でいたいし、尋ね続けられる人でもいたい、と思うのだ。

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「私」という演算の作品紹介

「私」についてこうして書いている「私」という存在は、いつか「私」がいなくなったあとにかつていた「私」を想起する何者かによって「私」の考えをなぞるようにして書かれた産物なのかもしれない…。思考のかたちとしての九つの小説。

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