本多静六自伝 体験八十五年

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  • 実業之日本社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784408395869

感想・レビュー・書評

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  • 研究の役に立てばと思って買ったが、あんまりかな。
    でも、当時の雰囲気を知るには適していたと思う。
    大日本山林会の図書館にも行ってみようと思う。

  • 林学家としての業績を知りたくて読んだが、ほとんど書かれていなかった。

    静六は、慶応2年に折原家の6人目の子供として三箇村川原井(埼玉県菖蒲町)に生まれた。生まれつき負けず嫌いで、強情だったが、11歳の時に父親が亡くなり、苦労して育ったために、ますます頑固、偏屈、反抗的になった。

    小学校時代は学問嫌いだったが、いつも2番だった。1番の生徒にはかなわなかったことが、一生努力をしなければかなわないという信念を生んだ。15歳の時に家の借金を完済できたため、半年の農閑期だけという条件で上京を許された。農繁期には家に戻って手伝ったが、米搗きを専門に選び、仕事をしながら頭の中または口で本を読んだ。

    18歳の時、新たにできた山林学校に入学したが、第一学期試験で落第したため、発奮して猛烈に勉強したが、運動不足のために胃病になった。そこで、毎日学校で学んだ筆記を、帰ってからひと通り修正したうえ、さらに通読して、どこが一番重要な個所であるかを見極め、改めてそれを数分の一ないし数十分の一に要約して、別紙に細字で書き抜いたものをポケットに入れて散歩に出掛け、歩きながら全体の趣旨を口内または口頭でいってみるエキス勉強法を実行した。

    22歳の時、東京山林学校が合併により東京農林学校となり、静六は1年間高等中学の普通学科を課せられた後、翌年に本科生になった。24歳の時、本多家からの縁談話を受け、勉強中であることを理由に断ったが、上京後に世話になった先生の未亡人からも説得され、謝絶のつもりで卒業後ドイツに留学させる条件を出したところ、承諾された。

    ドイツでは、ターラントで学んだあと、ミュンヘンに移ったが、養父が用意した洋行費を預けていた銀行家が破産してしまい、自活することを余儀なくされたため、4か年の課程を2年で終える計画を立てて実現させた。

    帰国すると、帝国大学農科助教授に任ぜられた。少年時代から学生時代にかけて貧乏生活を続けたため、それ以来、収入の4分の1を貯金する生活を始めた。あわせて、1日1頁の文章執筆も始めた。42歳の時に入院した後、その休みを取り返すために1日3頁に改めてからは、それが新しい習慣となった。その結果、生涯で370冊余りの著書を生みだすことができた。

    明治33年には赤松亡国論を発表し、地力が衰えた土地には乾燥に堪える赤松しか生えなくなることを明らかにしている。同年、東京市の顧問の部屋を訪ねた機に、日比谷公園の設計を頼まれている。その後、国立公園の設立や大学演習林の創設にもかかわった。関東大震災の後には、帝都復興計画を担った後藤新平の依頼を受け、バルセロナの都市計画を参考にして計画の骨子を作成した。これが後藤の手に渡って「後藤の大風呂敷」案と称されることになり、予算は3分の1に縮小されたが、公園計画だけは大部分が静六の原案通りになった。

    4分の1貯金とその投資拡充により資産が溜まり、子孫の幸福を結び合わせて考えた時、幸福は自分自身の努力と修養によって得られ、感じられるもので、教育や財産を与えることによって達成できるものではないという結論に達した。昭和2年の大学定年退職を機会に、必要最小限度の財産だけを残して、他は学校、育英、公益の関係諸財団へ寄付提供した。

  • 読みやすく、序盤でこの方の本をもっと読みたいと思った。作者は幕末(ほぼ明治)生まれ、昭和戦後没。後半後藤新平氏についての記述で気持ちがそっちにもってかれてしまった。堅実努力な本多氏と、今の世にも珍しいだろう『大風呂敷』後藤氏、ほころびなしの超有能『小風呂敷』渋沢栄一氏の話をもっと知りたいなぁ。ちなみに370冊以上ある著作中で、これは最後の本だそうだ。

  • 人生の最大幸福は家生活の円満と職業の道楽化による 努力こそ人生のすべてで、努力の体験こそ最も貴重なる体験といわなければならぬ 功は人に譲り責は自ら負う 善を称し悪を問わず 天才とは何ぞや、勤勉是鳴り

  • いまとは時代が違ったといってしまえばそれでお仕舞になってしまうけれど、この本の筆者が生きた時代は今とは本当に比べ物にならないくらい大変な時代で、当時に留学し、官僚として人生を歩むのはかなりスゴイことだったんだろうなとぼんやりと思った。
    他のレビューでも触れられているとおり、体験八十五年という題名の割には少年期から青年期の話に多くのページが割かれている。それは筆者が少年期から青年期にかけての時代が最も重要であったと考えていたからではないかと指摘されていたが、全くその通りであると思う。幼少期に体験した貧しさや悔しさ、勉学の喜びはとても色濃くその後の人生に現れていると思う。とても刺激となる本だった。

  • 本多静六氏は明治から昭和にかけて活躍した偉人。この自伝、現代っ子風言葉で一言で表現するなら、「マジ、すげぇ」と言う感じでしょうか。行動力、努力、自制心、知恵、忍耐力、どれをとってもホントに自分と同じ人間か?!と思うほどスゴイです。色んな壁にぶつかるけど、それを工夫して乗り越えていくのがすばらしい。家が貧乏になった時に畑仕事をしながら勉強する方法を身につけて色んなものを暗唱したとか、留学中に家から学費が出なくなり、「4年のカリキュラムを2年で終わらせられるようにしよう」と朝から晩まで同じ席で講義を受け、難関の卒業テストにも合格するとか、読んでいて「ひょえぇー!」と心底思うすごさ。この人の考えや行いの中に、日々自分に「行」を課すような「1日原稿用紙1枚書く」とか「4分の1貯蓄」とかがあり、やはり偉大な人というのは日々積み重ねていく努力から生まれるのだなと思った。本を読んだら役立てたいので、ちょっとずつ自分にも「毎日ブログを書く」などの「ミニ行(?)」を課しています♪

  • この人も戦後の日本を築きあげた功労者の一人。
    学者だが、4分の1貯蓄法など独自のやり方で、巨万の富を築いた。
    どうして、この時代の人は行動力というか、熱量というか、ズバ抜けている。それを生み出す土壌が当時の日本にあったんだろう。それを現代でも蘇らせられないだろうか?

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著者プロフィール

1866(慶応2)年、埼玉県菖蒲町(当時は河原井村)生まれ。苦学の末、1884(明治17)年に東京山林学校(のちの東京農科大学、現在の東京大学農学部)に入学。一度は落第するも猛勉強して首席で卒業。その後、ドイツに私費留学してミュンヘン大学で国家経済学博士号を得る。
1892年(明治25)年、東京農科大学の助教授となり、「4分の1天引き貯金」と1日1頁の原稿執筆を開始。1900年には教授に昇任し、研究生活のかたわら植林・造園・産業振興など多方面で活躍するだけでなく、独自の蓄財投資法と生活哲学を実践して莫大な財産を築く。
1927(昭和2)年の定年体感を期に、全財産を匿名で寄附。その後も「人生即努力、努力即幸福」のモットーのもと、戦中戦後を通じて働学併進の簡素生活を続け、370冊余りの著作を残した。
1952(昭和27)年1月、85歳で逝去。

「2023年 『マンガ 本多静六「私の財産告白」 伝説の億万長者に学ぶ貯金と資産の増やし方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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