- Amazon.co.jp ・本 (178ページ)
- / ISBN・EAN: 9784409030424
作品紹介・あらすじ
実存主義への非難に応えたサルトルの講演と討論からなる入門書。本書は実存主義の本質を伝え、その思想がヒューマニズムに直結することを明快に描いている。今回改版にあたり、その発想を具体的に示す初期作品を5点増補した。サルトル哲学理解への新たなアプローチのための必読書。
感想・レビュー・書評
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"人間は自分自身の本質を自分で作り出さねばならない。世界の中に身を投じ、世界の中で苦しみ、戦いながら人間は少しずつ自分を定義するのである。そして定義は、常に開かれたものとして留まる。この一個の人間が何者であるかは彼の死に至る迄はいささかも言えないし、人類の何たるかは人類の消滅まで言うことができない。"(P141 引用)
実存主義とは何たるかは、上の引用文に最もよく要約されている。実存は本質に先立つ。人間は人間以外のモノのように、あらかじめ本質(目的)が決まったものではない。だからこそ人間は自ら本質を作り出さねばならないし、人間はまさに自らの作らんとするものになる。本質がないということは、絶対的なものに頼ることができない、つまり何をしても責任は自分にある。このような状態は自由の刑と言われているように、生易しいものではない。自由の刑を少なくするために、人間は世界とかかわりをもち、世界に積極的にアンガージュ(参加)することによって他者とかかわりあい、自己を形成していく。他者とのかかわりあいは受動的なものではなく、主体的なものであり、カントのコペルニクス的転回を感じさせる。ここまで来て、実存主義とは、モラトリアム期間である大学生活が最もわかりやすいことがわかる。大学生活は自由である。実存が本質に先立つ。このような自由の刑の中で、自分で入る団体を考え、交友関係を作り、アンガージュしていく。大学生とは何かということは大学生活が終わるまでわからず、本質無きまま自分の選択をし続ける。日常生活に応用するとこのようなものか。また、実存主義はプロ倫で有名なプロテスタンティズムの労働観の雰囲気を感じさせる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
サルトルの意味する実存主義とは。「実存は本質に先立つ」ゆえ、予め与えられたものは一切なく、自分自身を世界の中で作り出さなければならない。その際に伴う不安は、静観哲学へとは至らない。むしろその行為を通して責任を引き受けることになるのだから、不安は責任感と不可分であり、不安は行為の条件である。
増補版には「実存主義についてー批判的に答える」というテキストが新しく加えられており、最初にこちらを読めば、サルトルの主張のポイントを理解するには十分。サルトルが影響を受けたマルクス、ハイデガーあたりとの関連性の文脈で理解するには「実存主義とはヒューマニズムである」を読む必要性がありそう。個人的にはポンジュの「人間とは人間の未来である」という言葉、新たに収録された作品「糧」「顔」が印象に残った。後者2作品には心惹かれながらも、サルトルの文学活動をアーレントが「哲学的アポリアからの逃避」と呼んだことについて考えさせられる。 -
我々は自由な実存者であるがゆえに
「自由の刑に処せられている」
彼の言葉のひとつひとつが重い。だから旨い -
「一人一人が、弾圧者に抗して自己自身であろうと企て、自己の自由の中に自ら自己を選択することで、すべての人の自由を選択していた」ってもう、一語一句が至言すぎる。
実存主義は、神など人間を超越した存在と対話する有神論的実存主義(キルケゴール、ヤスパース etc)と、神を否定する無神論的実存主義(ニーチェ、ハイデガー、サルトル etc)に分かれる。
自由には常に自己責任が伴う。し、そもそも他人と生きる社会に生まれた(誕生した、ではなく「受け身」の意で)以上、どこまでいっても自由にはなれない。そんな不自由の中で、自分で泳がせられる範囲でぷかぷか泳がせておきたい。 -
自分が良いと思えることを、一人一人がベストを尽くして、頑張るうちに、なんとなく共通事項というか普遍的なものがないかどうか、よくよく考えていきながら、生きていこうという「サルトルの生き方」であって、誰でも当てはまるものでもない、1945年に描かれたある特殊な時期になされる提言である。
P59【私はロシア革命に感歎し、それを一つの模範にすることができる。しかし私はこの革命がかならずプロレタリアの勝利にみちびくとは断言できない。私はいま私のみていることに限定して考えねばならない。同志が私の死後、私の仕事をつづけて最高度の完成にもたらすかどうかは確信できない。その人たちは自由であり、人間がどうなるかを将来自由に決定するだろうからである。将来、私が死んだあと、人々はファシズム体制を布こうと決定するかも知れぬ。そしてほかの人たちは、その人々のなすがままに任せるほど卑劣であり無能化しているかも知れぬ。そのときファシズムは人類の真理となるだろうが、それも致し方ないことである。実をいうと、物ごとは人間がそう決めたとおりのものになっていく。しかしそれは、静寂主義に身をまかさねばならぬという意味だろうか。そうではない。まず私は私をアンガジュし、ついで「事を企つるには希望の要なし」という古い言い方に従って行動しなければならない。それは、ある政党に所属してはならないということではなく、夢をもたないで、自分にできることをする、という意味である。】
あれかこれか、どちらかを選べ、どうするんだお前は、という、責任を負わせるものに対して、なんとなく壁をつくっているような、閉じこもった感じがあるんじゃないかと指摘されても、「でも自分のなかに他者があるんだから、閉じこもっているとも言い切れねーよ」と言い、「なんで閉じこもってるんだ」と理由を問うても「無動機なんだよ、しゃーねーだろ」と言い返すような、素敵なパワーを持ったニート思想だと言える。
母親を支えるか、それとも戦場に向かうかという若者が、この本の中のたとえ話で登場してくる。そこでサルトルは話の聞き役というか相談役にまわるのだが、そこで「戦場に行け」とも「母親を支えろ」とも言っていない。「若者は相談する時点で、なんとなく正解に気がついているし、最終的に理由なく何かしらの選択をするのだ」とこたえる。「相談できるってことは、答えが決まってることなんだよ」とはまるで小林秀雄のごとしである。サルトルのえらいところは、そこで、「戦場に行け。この若者は、そうして正義のために戦った、悪に立ち向かったのであった」と言ってないところだ。「戦わないで母親の世話をした、平和の使徒であった」と言ってないところだ。かといって、「オレは相談聴くだけやからな。あとは自己責任な」ともなっていない。ただ、じゃあどんな風に責任を考えたらいいのかと問えば、全人類の責任とか、スケールのでかいことを言って、よくわからないことになる。あと、女に「責任とってよ!」と迫られても、サルトルの生き方の思想であればいくらでも躱せるので、中高年男性は必読だろう。 -
併録の3つの短篇「糧」「偉人の肖像」「顔」のみを再読しようと手に取ったが、ついでなので全部読み返した。実存主義の入門書とされている本書だが、言うほど容易く理解できるものではない。実存主義の朧げなアウトラインを攫むのがせいぜいといったところ。それに併せて「糧」「偉人の肖像」「顔」を読むことで彩りが生まれる。よって初めてイメージが浮かび上がる。これがレッスンNo.1。焦らずこの行程を繰り返し積み重ねていくほかないだろう。と、読み止しだらけのサルトル本を前に途方に暮れる。『存在と無』への道のりはまだまだ長い。
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読んでよかった。
居酒屋などで「実存をかけてるのか?」と迫ってくる実存おじさんの言ってることがある程度わかったと思う。
実存主義は、「主義」というか、神なき世界で生きる/選択するうえでの「態度」、主体性のことのようである。有名な「実存は本質に先立つ」というのも、あらゆる価値や権威が相対化した現在の視点からすれば、前提になっているように思う。むしろ、この時代までまだキリスト教が乗り越える対象であったことに意外性を感じる。
第二次大戦でナチによるユダヤ人虐殺が明らかになってきたという当時の時代背景も含め、人間としてどのように行動するかを問う哲学として注目されたということらしい。不安とは自らの選択についての人類全体に負う責任であり、人生の条件である。
今ではやや大仰に感じられるこの辺の覚悟みたいな部分がすっぽり抜けており、ここに痺れた世代があったということか。
人間は人間の未来である。参議院選挙前に読めてよかったかも。 -
わたしが哲学とか、社会科学に興味を持ち始めたときには、構造主義、ポスト構造主義の時代で、実存主義はすでに乗り越えられたという位置付けであった。
サルトルは、小説などはいくつか読んだが、個人的にはカミュのほうが好きだったので、「乗り越えられた」ものとして、それ以上深入りせずに流していた。
が、全体主義について本を読む中で、その思想的な関連として、ニーチェ、フッサール、ハイデッガー、ヤスパース、サルトル、アーレントといった人たちが、名前としてでてきて、改めて、そうした人たちのなんらかの共通キーワードとして、実存主義への関心が個人的に高まってきた。
また、「乗り越えられた」と思っていた実存主義は、その後、アメリカの人間性心理学や、組織開発という形で、影響が続いているということもわかってきた。
さらに、マルクス・ガブリエルも、「新実存主義」ということで、サルトル再評価をしているのもあって、サルトル、読んでみた。
本人による「サルトル入門」みたいな感じなんだけど、かならずしも、わかりやすいわけではない。それは多分、「実存主義とはこういうものである」と説明してはいるのだが、トーンとしては、マルクス主義や世間からの誤解に反論するような感じの議論になっていて、ストレートに実存主義とはなにかを説明していない印象が残る。
そして、「実存主義とはヒューマニズムである」ということになるのであるが、これもいわゆる世間一般でいわれる「ヒューマニズム」とはちょっと違う概念になっているようで、なんだかもやもやしてしまう。
う〜ん、やっぱ、サルトル、よく分からないな〜、という印象で、「サルトル再評価」な気持ちにはならなかった。なんか、やっぱ自分と共通点が少ない人だな、と思った。
ただ、海老坂さんの前書きが、45年のフランスというコンテクストのなかにサルトルの議論をおいて解説してくれていて、この部分はすごく面白かった。サルトルが有名になるまえに、カフェにたむろするボヘミアン的な若者が、「実存主義」という名前で呼ばれていて、そういう風潮との関係で、サルトルの議論があったという背景とか、興味深い。あと、当時、フランスにおけるマルクス主義は教条主義的なところがありつつも、そこからのいくつかの批判は、サルトルも有効な反論を行うことができていないことを指摘してあり面白かったな。