- Amazon.co.jp ・本 (329ページ)
- / ISBN・EAN: 9784409040928
作品紹介・あらすじ
「権力」はあまりに強靱かつ精緻に作動している。果たして、そこに抵抗の契機はあるのか。構造主義/ポスト構造主義の理論を丹念に分析し、その先に豊穣な可能性を見出す、気鋭による圧倒的達成。エティエンヌ・バリバールによる解説を付す。
感想・レビュー・書評
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ポストモダン的な権力論、精神分析論の教科書的な本。
でも、というかだからこそ「権力観」「自由観」が狭い。
〈権力には抵抗せねばならない〉という暗黙の前提があって、近代社会の積極面を語る余地がない。それはフーコー自身についても言える。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『権力と抵抗』は、2004年度パリ第十大学に提出された博士論文の改稿版日本語訳である。著者は日本人のフランス哲学研究者であり、博士論文の指導教官はバリバールである。日本人研究者による20世紀フランス哲学の書籍としては、最高の成果の1つだと思う。同じく1971年生まれの東浩紀とは別の着眼点から、ポスト構造主義が読み直される。
本書は、フーコー、ドゥルーズ、デリダ、アルチュセールという4名の定番思想家を取り扱っている。この4人についての入門書かと思って軽い気持ちで読み始めたけれど、読めば読むほど新しいつながりの発見があった。
「アルチュセール、フーコー」と「ドゥルーズ、デリダ」という組み合わせが現代思想理解では一般的だろうけれど、著者は、「フーコー、ドゥルーズ」と「デリダ、アルチュセール」という組み分けをする。構造主義が強靭かつ精緻な権力のシステムを構成するのに対して、4人の思想家は、権力の微細な網の目に対する抵抗の契機を見出そうとする。
まずフーコーが取り上げられる。真理が、主体の思考、身体を権力の支配下におく。しかし、真理とは固定的なものではなく、ある時代、ある社会の通念に過ぎない。フーコーは、真理が真理として構築された歴史の系譜をたどることで、真理の持つ権力を弱めようとする。また、主体が社会一般の通念に従わず、自分自身の考え、価値に基づいて、自己を配慮する生を推奨する。
2人目はドゥルーズ=ガダリが取り上げられる。社会は、主体の欲望を主体の中に閉じ込め、抑圧する。主体は社会が望む一定の型に従って、欲望を発散するようになる。1つの型に固執する妄執症患者(パラノイア)的思考の蔓延に対して、ドゥルーズ=ガダリは、分裂症患者(スキゾイド)の思考を提唱する。主体とは1つの固定した塊ではなく、生成変化する多様な欲望の流れである。主体の中には複数の他者が同時に存在しており、欲望の力は固定観念を突き破るものだ。本来資本主義は、分裂症的であり、共同体の伝統、権力のコードを脱コード化する(打ち破る)ものだったが、脱コード化された権力は、資本主義発達の過程で再コード化されてきた(核家族の形成、男女の分業体制等)。これを再び脱コード化の極限に向かわしめようというのが、ドゥルーズ・ガダリの戦略になる。
3人目はデリダ。デリダは構造の完成を拒否する。なんらかの概念が完成した時、その場所に存在した不適応な他者は完成物の内から排除され、抑圧されるからだ。デリダは構造の統一性を脅かす予測不可能な他者を歓待する。構造をかき乱す不気味な他者、亡霊の侵入を受け入れ、歓待し、身を委ねること、構造が完成することで抑圧されるものがいないか不断のチェックを行うこと、これが権力に対する抵抗の契機になる。
4人目はアルチュセール。アルチュセールはシニフィアン(意味するもの)やシニフィエ(意味されるもの)より、ディスクール(言説)を重視する。例えばディスクールとは学校のディスクール、CMのディスクール、テレビ番組、映画、小説のディスクール、政治のディスクールなど複数ある。あるイデオロギーのディスクールが主体に呼びかけることで、主体は社会的な権力の支配下におかれるようになる(例えばテレビ番組で示された考え方に基づいて生活したり)。社会構成体は、再生産される。アルチュセールは、社会のディスクールが1つでなく複数あることに抵抗の可能性を見る。動的で相互に矛盾したディスクールなのだから、主体がディスクールに関わることで、ディスクールの内容を組み替えることは可能だ。
不変に見える権力に対して、第1にフーコー、ドゥルーズの組は、主体の変容を抵抗の戦略として採用する(フーコーなら主体を権力から引き剥がし、単独の自己に変化させようとする、ドゥルーズなら主体の他者化、複数化を狙う)。第2にデリダ、アルチュセールの組は、偶然性の侵入が引き起こす構造の生成変化を抵抗の戦略として採用する(デリダなら他者の侵入の場を開き欲望を撒き散らすことで、構造の完成を揺さぶろうとする、アルチュセールなら偶然とずれによって、構造の再生産のあり方を変容させようとする)。
4人が対決している思想は、ラカンの構造主義である。ラカンは、ファルス(父親の男根)によって、主体が形成され、支配されていると見る。主体形成の起源には、父親の男根があるが、ファルスは主体の中に、永遠の不在として刻み込まれている。ファルスは主体から超越した場所にあり、痕跡としてしか感じられない。ファルスは起源にある抑圧として、主体を永遠に押さえつけているかのようだが、ラカンの考えに対して、4人は超越的な権力などどこにもないこと、主体および社会の変容によって、権力に抵抗する可能性を示している。
いわばアルチュセールを基底に読み直されたフランス現代思想。フーコー、ドゥルーズ、デリダはマルクスから距離があるけれど、アルチュセールはマルクスに近すぎるから注目していなかった。けれど、アルチュセールの権力再生産の理論があったからこそ、後続の思想が展開したのだと納得した。 -
序盤は丁寧に読んだが中盤あたりから斜め読みして読了。
本書のテーマとして最初に掲げられている内容は自分の関心と一致するものだったが、それ以後の実際の本文の内容とあまり一致しない感じがした。