メルロ=ポンティと病理の現象学

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  • 人文書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784409041031

作品紹介・あらすじ

高次脳機能障害、幻影肢、ヒステリー、統合失調症、文化・政治の病的形象-メルロ=ポンティが論じた"病"の包括的検討を通し、思想の新たな地平を切り拓く、新鋭による豊潤な達成。

感想・レビュー・書評

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  • 登録番号②

  • メルロ=ポンティが取り上げた病理的事態について、メルロ=ポンティに至るまでの前史、メルロ=ポンティの考察、その後のメルロ=ポンティにおける展開、他の思想家における解釈の展開等を整理。批判的に乗り越えるまでは至っていないが、メモとして重宝しそう。特に受動性講義についての読解などか。
    取り上げてあるのは症例シュナイダーと症例ベルクマンと幻影肢、失声現象、精神分裂病、ヒステリー、クロード=シモン。
    後でゆっくりまとめる価値はあるとして、とりあえず抜き書きを。

    シュナイダーがアナロジーを理解できないことについて PhP149/218あたりを意識しつつ
    p.89-90
    メルロ=ポンティは逆説的な言い回しで、高次の対象判断の病的側面を指摘している。アナロジーは、二つの異なる事象を、両者に共通する質でまとめる作用である。引用に従うなら「二つの項の統覚」である。この文脈においてメルロ=ポンティが主張するのは、「統覚」という高次の作用だけが、アナロジー理解に最も適した方法であるならば、アナロジーに最も「正常」かつ適切な方法で取り組んでいるのはシュナイダーである、という逆説的な事態である。[...]
    このアナロジーの第二の結論は、第一の結論(「ゆえに生き生きとした思考はひとつの範疇に包摂されるべくあるのではない」)の逆説的な状態を示している。つまり、私たちが正常に用いる知覚や判断行為は、「カテゴリー」や「統覚」のみに基づくのではなく、すでに「沈殿」した過去の経験層との連動から達成されるのである。ゆえに、健常者は、知性やカテゴリーを意識的に用いることなくアナロジーを即座に理解することができる。
    ところで、この第二の結論(患者は知性のみを行使している=知的なプロセスの病理性)は、知性が、実存的基底から切り離され、単独で展開する事態を指し示している。この点において、それは、あらゆる経験の奥行き(「現実的な状況」、「沈殿」、概念の時間的な展開)が失われた世界という問題を示唆している。

    分裂病分析の意義について(そして、たぶん澤田さんの読み筋)
    p.237
    『知覚の現象学』第一部のシュナイダーの症例分析から、「性的存在としての身体」を経て、第二部にいたる過程において、メルロ=ポンティは、病的現象へのアプローチの方法を変更している。彼は、シュナイダーの症例を分析することで、健常者が生活のなかで必ずしも注意を払わない、行動の現象学的な基盤(知覚、身体、時間、等々)を発見した。これに対して、分裂病の分析は、物を知覚できなくなった患者の行動の構造から、現象学の新たな概念(夜の世界、仮象、身体の収縮と膨張)を抽出しようとしている。
    [...]
    二つ目のアプローチ、つまり分裂病患者の行動の分析により、知覚に立脚した生活から隔たった体験の構造(「収縮」、「夜の世界」、「幻影」)が明らかとなる。これにより、現象学の諸概念は、知覚からその外部へと拡張される。

    ヒステリー分析から見られる記憶と忘却の概念
    p.259-260
    記憶された過去の出来事は、現在という時制に位置する人間が、自由に取り出せる出来事ではない。反対に、これらの出来事は、彼の現在における活動に対してある一定の影響を及ぼす。つまり、それは行為の「制度」となっているのである。
    p.260-261
    メルロ=ポンティは、過去の出来事が忘却の状態を脱出し、意識上に生じる現象に言及している。現在の私の意識が、保存された過去の出来事を任意に取り出すのではない。むしろ過去の出来事は、忘れられた状態(「忘却」)から思い出される対象へと、独自の仕方で移行(「脱出」)する。過去の経験が、現在の意識の働きによって制約を受けずに、独自の仕方で想起の対象に形を変える現象が、メルロ=ポンティの言う意味での「過去の自己所与性」である。
    p.261
    人間が今思い出すのを敢えて回避するような出来事を、メルロ=ポンティは「忘却」と考えている。忘却された出来事が思い出される際に、想起の作用は、過去の出来事だけでなく、主体がその出来事を敢えて隠蔽していたという事実にまで及ぶ。つまり過去の出来事だけでなく、当の出来事が忘却されていた事実も想起の対象に含まれるわけである。ゆえにメルロ=ポンティは、忘却を記憶と対立する概念ではなく、「忘却として、ゆえに秘密の記憶として自らを開示する忘却」と呼ぶ。

    時間論
    p.277-278
    メルロ=ポンティが、モンテスの分裂病ないし人格障害にも近い行動から引き出す時間論の特徴は、現象学的な時間概念と対比すると鮮明になる。後者において、現在知覚されている今という契機は、知覚上の密度が減退することで過去に移行する。そして新たな今という局面が生じる。過去に移行した旧い「今」は色あせるものの消え去らず、意識の内部に保存(フッサールの用語で「過去把持」)される。これと同時に、新たに到来する今という局面も、意識の内部ですでに予期(「未来把持」)されている。
    これに対して、あメルロ=ポンティが『嵐』の作品解釈から提示する時間論において、ある現在の局面は、過去に移行することにより、後続する局面と交代するのではない。むしろ、現在の局面そのものの内側から、当の現在の経験と脈絡のない(しかも抑圧されていない)、ある別の現在の局面が新たに生じる。「ときとして、感性的な存在そのものから、裂け目や深遠や真正の記憶が生まれる。[...]この香り、この風景のなかでのみ、個別の過去はぴくぴくと動いているのである」。現在に定位されている感性的な経験(「感性的な存在」、「香り」、「風景」)は、当の現在にもはや属することのない存在(「真正の記憶」「個別の過去」)を喚起する。前者の位相は、経験の展開に応じて、後者によって形を変える。今という時制の連続性ではなく、今まさに経験されている事柄が、その内側から引き裂かれる契機(「裂け目」)を、メルロ=ポンティは『風』の注釈を通じて提示しているのである。現象学的な時間論が過去-現在-未来の統一からなる流動的な系列を主張するのに対して、メルロ=ポンティが主張するには、「存在するのは系列ではなく、入れ子状態(emboîtement)なのである」。
    [同様のことが空間の構造にも成り立つことが紹介されている]

    「肉」について
    p.286-287
    「身体の厚みは、世界の厚みと敵対しない。反対に、身体の厚みは、私を世界とすることにより、そして事物を肉とすることにより、事物の中心に達するために私が有する唯一の方法である。」(VI, 176/188)
    私に属する身体は、必ずしも私という存在に帰せられるわけではない。身体の身振り、しぐさ、まなざし(「厚み」)は、私の意志や表象を超えて、外部世界および事物とある一定の関係を構築する。この時に、事物は、もはや私が外部から知覚する対象ではない。むしろこれらの事物は、外部の物質から、私の身体との対応関係の端緒(「肉」)へと位相を変える。こうして相互に浸透し合うような交流が生成することで、先ほどの引用で見たように私の身体は、まったく関わりを持たないように見える外部の知覚対象や他者と、予期せずに交流を始めることになる。この意味において、「肉」という概念は、私と世界および事物の関係の端緒を指し示している。

    「切れ端」はよく分からなかった!

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著者プロフィール

澤田哲生(さわだ・てつお) 
1979年、静岡県生まれ。パリ東(旧第12)大学クレテイユ校人文社会科学研究科博士課程哲学・認識論専攻修了(人文科学博士号「哲学・認識論」取得)。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得満期退学。現在、富山大学人文学部准教授。著書に『メルロ=ポンティと病理の現象学』(人文書院、2012年)、『メルロ=ポンティ読本』(共著、法政大学出版局,2018年),Aux marges de la phenomenologie : Lectures de Marc Richir(共著、Hermann、2019年)など、監訳書に『マルク・リシール現象学入門 サシャ・カールソンとの対話から』(ナカニシヤ出版、2020年)がある。

「2020年 『幼年期の現象学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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