戦艦大和講義: 私たちにとって太平洋戦争とは何か

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  • 人文書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (329ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784409520611

作品紹介・あらすじ

1945年4月7日、特攻に出た大和は沈没した。戦後も日本人のこころに生き続ける大和。大和の歴史は屈辱なのか日本人の誇りなのか。歴史のなかの戦艦大和をたどりながら戦後日本とあの戦争を問い直す。

~『戦艦大和ノ最期』から『宇宙戦艦ヤマト』『艦これ』までの15講!

感想・レビュー・書評

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  •  「戦後の日本人がどうやってこの『一億総特攻』という不愉快な事実を書き換え、忘れようとしてきたのかを、大和物語の展開(転回)過程に即して」(p.315)たどる、という本。戦艦大和の持つ2つのイメージ、「誇り」(立派に戦った)と「屈辱」(大勢の人が犠牲になったのに負け、相手のアメリカに守ってもらっているという事実)に、生者が「どう折り合いをつけ合理化してきたのか」(p.317)、歴史や戦争を「理解、表現そして消費してきた」(p.316)のかという例を多数取り上げ、解説している。繰り返し説かれるのは、歴史が巧みに作り上げられていく、という様子。「人は、数多の史実の中から自分に都合のよい<歴史>を選んで物語化して学ぶ」(p.56)という話で、簡単に言えば人の弱さ、隠したい部分や胡麻化したい部分が、それとは気づかれないよう、意識的無意識的に巧妙に操作されたものだ、という例が多数紹介される。「歴史学を学ぶ皆さんに覚えておいていただきたいのは、当事者の『証言』はこのように不都合な事実を隠し、責任逃れや言い訳のために書かれているかもしれないこと、そして『国民性』という今日でもよく使われる便利な言葉はその局面で誰が、なぜ使っているのかを良く考える必要があることです。」(p.295)という、歴史学研究の心得のような話もあった。
     今度、修学旅行の引率で呉に行くことになり、歴史の先生に紹介してもらった本。歴史学の大学の先生の書いた本だが、堅苦しくない文体で、戦争や近代史に詳しくなくてもスラスラ分かりやすく読める。(そういう意味ではおれはこの本を「消費」してしまった感もあって、今書きながらモヤモヤしてしまう。)
     あとは気になったところのメモ。始めは江戸末期の話があって、近代日本国家の背景が語られるが「江戸時代の幕藩体制は確かに長期の平和をもたらしましたが、それは『あたかも巨大な軍団が全土を支配するために駐屯した如く、抑圧的で専制的な支配体制』でした。」(p.28)という、意外と息苦しい時代だったのかも、という話。そして黒船来航や対長州戦争で「王様は裸だ」(同)ということが分かっていく歴史。明治維新は、もともと『武士』身分であることにメリットのなかった下級武士たちが旧支配層に挑んだ権力闘争によって達成された『革命』の一種」(p.31)という捉え方は分かりやすかった。
     そしていよいよ戦争の歴史、という部分では、結局陸軍と海軍のいがみ合い、結局利権、権益、みたいな話なのか、と思った。「軍艦が増えれば使える予算も増えて自己の権限が増大します。艦隊司令長官その他のポストも増えて、自分あるいは気に入りの部かをそこへ就けることもできるでしょう。さらに、出入りの民間会社との接点も増えて、いわゆる天下りの機会も増えるかもしれません。」(p.61)ということで、こういう観点で高校の時に歴史を学んでおけば、世の中を知ることにもなったのになあと思った。ちなみに対米戦争については、「日米の海軍が主役となり、海戦で勝った方が戦争にも勝利できるかたちの戦争です。陸軍は自分の使命は大陸での対ソ連戦争だと思っていますから、対米戦突入の可否についてはその主役たる海軍に下駄を預けた形となりました。もし日本海軍が『対米勝利は不可能です』とはっきり言えば、陸軍なども『それでもアメリカと戦争しましょう』とはいえなかったはずですから、開戦(=敗戦)もなかったはずです。しかし海軍は、そんなことは口が裂けても言えませんでした。(略)海軍の面子も権威も丸つぶれとなり、今までのように大量の軍艦を造ることもできなくなるでしょう。言った瞬間に海軍は潰れるかもしれません。」(p.81)という、そんな面子のためにあの戦争が、と思うけど案外戦争ってそういうものなのかもしれない。そして高橋是清のように、莫大な予算要求に対して、「広大な国土と国力を誇る米ソと戦って勝ち、完全屈服させるのは『とうてい不可能』という正論、ゆえに軍部の一番痛い所を突いて軍事費削減を迫ったばかりに恨まれ、惨殺された」(p.67)という、とんでもない話だなと思う。
     そしてここからいよいよ特攻の話になる。「特攻の開始により、戦争の行く末に対する文字通り『傍観』者的な安堵感が社会に生まれかねなかった、あるいは生まれていた」(pp.105-6)という話が、なんか人間の弱い部分を描いているような感じがする。「戦艦大和とその乗員たちは、一億国民が後に続いてくれると信じたからこそ死地へと向かったのであり、内地の人びとの命や安逸な生活を守るためなどではありませんでした。(略)みな男女を問わぬ国民総力を挙げた特攻の『さきがけ』となるために死んだのです。特攻隊員の中には、『後に続くを信ず』とはっきり言いの起こして出撃した人たちもいました。」(p.114)という部分、正直全然知らなかった。そして、その一億総特攻からの「敗レテ目覚メル」と戦後、吉田満という戦艦大和に乗った元軍人の生き残りが臼淵大尉の発言として小説に書いたという事実。「『天皇』や『一億総特攻』といった戦前的価値観が敗戦とともに嘲笑の的になってしまった」(p.134)という話。ただこれで、事実とは違う意味付けをすると同時に、生者が許されるという構図、罪悪感を持たないで済み、正当化された生を謳歌するというエゴが現れている感じで、これも人間の弱さの1つ。そして「死ぬことではなく生きることを讃え、かつ誓う」(p.145)映画が作られたりする、という流れが分かりやすい。これを知ると、「そう言えば、映画『風立ちぬ』のキャッチコピーも『生きねば。』でした」(p.314)という部分に、冷笑してしまう。
    さらには、女性にも特攻させたという事実を忘れたいという、「進駐軍用慰安婦」(p.146)の問題は、学校教育ではほぼ語られない事実なのか、と思う。
     それに関連して、平和教育の問題への分析も鋭かった。「奥田博子は、戦後の日本政府が唱えた『唯一の被爆国』『唯一の被爆国民』というもの言いについて、国民にあたかも自分たちが過去の戦争の加害者ではなく被害者、そして今日の平和と繁栄の担い手であるかのような印象を持たせ、<われわれ日本国民>という『ナショナルな共同体』の立ち上げに寄与した」(p.175)とか、「戦争指導者批判を強めていた坂井は亡くなる直前まで、『誰が『過ち』を犯したのか、誰が『繰り返さない』のか。それがあの(広島原爆慰霊碑の)碑文ではわからない。責任の所在をこんなふうにあいまいにするのが日本人」(p.308)というのも鋭かった。
     さらにここから、「今日の日本における戦艦女体化」(p.161)へと進むことになるが、この辺りはおれがあんまりオタクの文化とかに興味がないので、ふーんって感じで読むだけだった。その前の宇宙戦艦ヤマトとかもおれは見たことないので全然分からないのだけど、「敗北を『目覚メ』と合理化・正当化して豊かな生をむさぼらんとして七〇年代日本人による、自己肯定の戯画物語」(p.191)という観点で見てみようと思ったり。続く80年代は、「日本経済が豊かになるとともに日本人の欲望のたがが外れたかのようになって、太平洋戦争さえもさまざまな形で単なる娯楽や<消費>の対象とされた時代」(p.230)ということで、そんなさなかにおれは生まれたんだなあと思った。そして90年代、『戦艦大和ノ最期』というTVドラマの最後では、吉田が「沖縄の海はもっと青かった」(p.256)という部分、「死者たちは青く美しい海の中で安らかに眠っている、と言いたいのでしょうが、大和は沖縄のはるか手前で沈没、実際に死者たちが沈んでいるのが暗い水深三四五メートルの海底」(同)という話が分かりやすい美化で、でも事実を知らなければ何も考えずおれも美化された戦争物語を消費するよな、と思い、油断できないなと思う。これは中井貴一だったが、次は『男たちの大和』では鈴木京香が「大和沈没地点の洋上で笑みを浮かべて敬礼しながら『長い間、生きさせていただき、ありがとうございました」といい、生者による一方的な和解が成立して映画が終わります。」(p.264)とか、もはや見ずにはいられない。
     そして修学旅行で行く「大和ミュージアム」は、「大和の技術だけは死なずに『新生』日本の『進歩』や繁栄の礎になったという、おなじみの<歴史>理解が繰り返され」(p.261)る、「日本の技術力復興と繁栄持続を祈願すべく建造された神殿と神像」(同)ということだそうで、喜んでここに学校で行くのは、なんか宗教行事に参加するみたいになってしまう。
     他にも、戦艦大和に関しては、「大和は最後まで国民に名前を公表されることもない寂しい最期を遂げました」(p.108)というのは意外だった。大ニュースになりそうなのに。とか、ゼロ戦の風立ちぬの堀越という人も、結構自分勝手な人だなとか、戦争で戦死者ではなく、被害にあった「軍艦」とか「象」にフォーカスすれば「『かわいそう』で話が終わる」(p.320)というのも、こういう物語で色んなことが「なかったこと」にされている、という事実があるということに気付かされた。「『かわいそうなぞう』でも、動物園の飼育係たちは上空を通過するB-29爆撃機の編隊に『せんそうをやめろ せんそうをやめてくれえ』と叫びます。米軍側からすれば、真珠湾攻撃というかたちで『せんそう』をはじめたのはお前たちだろう、としか言えないのではないでしょうか。この戦争は日本人が始めた<人>どうしの殺し合いではなく、何か天災のようなものとしてしか描かれていません。」(同)
     もはや結局何をやっても、すり替えたり読み替えたりして消費していくだけ、という、この本を読んで何か思うことすらもそういう消費活動の一部なのかもしれない、ということを考えると、あまり何も言えないなあと思ったのも事実だった。(23/07/24)

  • 戦艦大和について色々考察されているが、自分にはピンとこなかった。

  • [評価]
    ★★★★☆ 星4つ

    [感想]
    戦前・戦中の影響は現代においても大きく影響を残しているのだなと感じた。また、日本人はものに対し、人格を見出すのは昔からなのだということに気がついた。
    また、戦後における大和は様々な形で日本人の心のなかに存在してい事にも気が付いた。世代によって「大和」という言葉で想像されるものは異なるのだろうけど、今後も何らかの形で日本人の心のなかに存在すると考えると感慨深い内容だった。
    また、戦艦大和の特攻を考える際に乗組員に関してが置き去りになってきたという事実は色々と考えさせられる内容だった。

  • 戦艦大和について今までには感じることのなかった印象でした。
    一億総特攻の先がけとされたが結局のところ一億総特攻はできず・・・一億総活躍社会も大丈夫か?なんて違うことを考えてしました。
    零戦についての記述なも合わせてそういう考え方があるものだなと感じました。

  • 戦艦大和を題材として書いた本は多いが、戦後の大和(ヤマト)まで通貫で書いた、稀有な本。
    サブタイトルの、私たちにとって太平洋戦争とは何か、を大和(ヤマト)を題材に考えていく。
    大和と並び、あの戦争の誇りと日本人が感じる零戦にも、1章設けられている。
    現代の章では「艦これ」など馴染みのない題材が扱われていることや必要以上に理屈っぽく感じられる点は、共感を感じられなかった。

  • 一億総特攻と敗戦、日米同盟等々をその時その時不都合だと感じた戦後日本人による大和の消費の仕方について。
    2000年代に入ってからの議論は若干粗い。

  • 感想未記入。引用省略。

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著者プロフィール

一ノ瀬 俊也(いちのせ・としや) 1971年福岡県生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究科博士課程中途退学。専門は、日本近現代史。博士(比較社会文化)。現在埼玉大学教養学部教授。著書に、『近代日本の徴兵制と社会』(吉川弘文館、2004)、『銃後の社会史』(吉川弘文館、2005)、『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書、2009)、『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」』(文藝春秋、2012)、『日本軍と日本兵 米国報告書は語る』(講談社現代新書、2014)、『戦艦大和講義』(人文書院、2015)、『戦艦武蔵』(中公新書、2016)、『飛行機の戦争 1914-1945』(講談社現代新書、2017)など多数。

「2018年 『昭和戦争史講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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