カウンセリングの実際問題

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著者 : 河合隼雄
  • 誠信書房 (1970年8月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (277ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784414401196

カウンセリングの実際問題の感想・レビュー・書評

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  • 例外的な事例が印象的。
    カウンセリングの理論はあくまでも基礎として重要だが、クライエントひとりひとりに向き合うためには理論に固執しない思い切った勝負に出ることも必要だということが分かった。

  • 学会でお会いした先輩からおすすめしていただいた1冊。
    とても分かりやすく,あっという間に読めました。
    読み返した時,一言一言にひっかかって考え始めると止まらない。
    うまく言葉に出来ないですが,「深い」一冊だと思います。
    おそらく人に薦めるし,今後何度か読むであろう1冊。

  • ☆5(付箋39枚/P281→割合13.88%)

    ・ある生徒が来て、その先生の教えている教科についていろいろと質問をした。仕方ないので教えてやると、「こんな勉強をするにはどんな参考書がいいでしょう」とたずねるので、それも教えてやった。さて話が終わったので帰るのかと思うと、その生徒がしばらく黙っていた後で、「実は先生」とTまったく別の自分の悩みについて相談し始めた。そこで、それまで何もかも教えていた勢いで、カウンセラーの先生は「こうしたらいいだろう」、「このようにしなさい」といろいろ指示してやった。すると、その生徒は喜んで帰っていった。次の日に、その生徒が来て、「先生にいろいろ教えていただいたおかげで、問題がうまく解決しました」とお礼を言ってくれた。ところでこのようなことを話された先生が、私に対して、「先生、私のやったことはカウンセリングでしょうか」と質問されたのです。
    …そこで私は、「自分のしたことがカウンセリングであるだろうかと反省する前に、自分のしたことは役に立っただろうかを考えて下さい」とお答えしたのです。

    ・その人は自分の上司の不正を知り悩んでいるといいます。上司の不正行為を正そうと努力してきたが、うまくごまかされて、なかなかうまくゆかない。といって、その上司の悪口をもう一つ上の上役に告げ口するのはうしろめたくて嫌な気分がする。そのため気分が沈んで仕方がないというのです。その場合、カウンセラーは上司の不正を直せばクライエントもよくなるし、会社のためにもなると思って、秘密厳守の規則を守らずに、その話を上役のところに持っていった。もちろん、カウンセラーが言ったことは秘密にして欲しいということを納得してもらう。その上役は機を見て、うまい口実をみつけ不正をしている人を移動させてしまった。すると、クライエントがカウンセラーのところに来て、「先生、とうとう、あの上司の不正もどこからか分かったらしく左遷されてしまいました。私も喜んで会社に行っています」という。喜んでいると、そのうちにクライエントは前よりももっとひどい、うつ状態におちいってしまい、とうとうカウンセリングにも来なくなってしまったという例があります。
    これは、その人は上司の不正と闘ってゆくことに、他の大きい内的な意義があったのではないかと思われます。

    ・クライエントの話に耳を傾けて聴くということは何を意味するのか、例をあげて示してみることにします。たとえば、前にもあげましたように、ある大学生が父親の悪口をさんざんのべたてる。たしかにその人の話を聞いているかぎりでは、父親の方に問題があるように思う。つまり、父親が頑固でさえなければ、この家はうまくゆくだろうと思える。そこで、われわれは、それが本当かどうかを父親に会ってたしかめたり、あるいは、父親を説得に行ったりはせずに、まだそれでも本人の話を聞こうとする。このように、本人の話にひたすら耳を傾けてゆこうとすることは、そうすることによって、本人さえ気づいていない新しい可能性が、その場に生まれでてくるという確信によって裏付けられているのです。
    さて、実際にその学生の話を聞いていますと、いろいろ父親を攻撃したあげく、しばらく黙っていた後に、「実はいろいろ悪口を言いましたが、今までの私の学費を出してくれているのも、おとうさんなのです」といいます。たしかに本人さえ気づいていなかった新しい事実とは言えません。この学生は父親が学資を出してくれていることは知っていたはずです。しかし、実はそのことを知ってはいても、父親は頑固でだめだ、自分は家出すると言っていたときに、この学資のことも合わせて考えてはいないのです。

    ・さて、これほどのいいこと、つまり話を聞いてさえいれば可能性が生じてきて、本人が自分で解決してゆくということがあるのに、一般の人はなぜそうしないのかという疑問が起こります。こんなにうまくゆくのに、なぜ人は他人の話に耳を傾けないのだろう。この問題は、またあとで詳しくのべようと思いますが、その理由の一つとして、今私ののべた可能性というのは、常に良い可能性ばかりを意味していないことを指摘しておきたいと思います。つまり、可能性というのは、よい面も含んでいるし、悪い面も含んでいる。あるいは、よいか悪いか分からない、どちらになるか分からないものこそ可能性とよべるものだと言うべきかも知れません。
    …私が「可能性」と呼んでいることは、これらの全てのことを含んでいるのです。これらのプラスの可能性もマイナスの可能性も全てを含んだもののなかから、プラスのものだけを取り出してくるのは容易なことではありません。いやむしろ、プラスの結果を得るためには、しばらくはマイナスの結果にも耐えてゆかねばならぬときも多いのです。そこで、そのような危険な橋を渡らなくとも、ともかく「仕方がない」と思っておれば、ある程度平穏にゆける、このように思う限り、他人の可能性に耳を傾けるよりは、そのままにしておきたいという気持ちが一般に働くのも無理ないことと言えるかも知れません。

    ・カウンセリングというものは、大体クライエントの周囲の人をいらいらさせることが多いものです。問題をもった人がいる場合、その周囲の人たちは、「何とかしたい」、「困ってしまう」と言いながら、前にも言いましたように、その人のことを自分なりに心の中で型をつけてしまっている人や、早く型をつけてしまおうと思っている人が多いものです。つまり、「父親が悪いからだめだ」、「生まれつきの性質だから仕方がない」などと決めてしまっている。そこへ、カウンセリングを始めて、可能性に注目するということは、せっかくつけていた型をこわされる。そこに何が出てくるか分からないということになってくる。このため、どうしても、いらいらした気持ちにさせされるのです。

    ・カウンセリングに対する他の批判として、「なまぬるい」ということもよく言われます。相手の言うことをフンフンと聞いているようななまぬるいことではだめだ。もっと叱るとか、必要であれば暴力をふるってもいいくらいのつもりで教育するとか、そういうことが大切で、これに対してカウンセリングはなまぬるくてだめだという批判です。私はこれは実態をしらない人のいうことだと思います。カウンセリングはなまぬるいものでないことは、自分が受けてみるとよく分かります。今まであげた例によって考えてみますと、クライエントが自分の父親は頑固だといって、そのまま「ハイ」と聞かれると、次に何か言わなければならない。次に何か言って、それも聞かれると、結局は、その父親が学費を出してくれていると言ってしまう。ここでもカウンセラーが自分の意見をさしはさまないと、クライエントは自分で掘り下げた事実に自分で直面しなければならなくなってくるのです。

    ・ところが、実際には時間ばかりかかって、しかもなまぬるいカウンセリングもないとは言えないようです。それは、われわれがクライエントの話を聞きながら、先にのべた内的な厳しさに欠け、甘く同情してしまう態度になってしまった場合だと思います。クライエントが「私には、こんな欠点があります」と言った場合、「人間ですから、そんなことはあって当たり前です。心配する必要はありません」という甘さがカウンセラーの態度に強くでてくると、クライエントは安心してしまう。安心をしたものの、カウンセリング場面を離れると、またその欠点について不安になるので、カウンセラーに会い慰められて、安心感をとりもどす。このようなことをくり返しているときは、そのカウンセリングは長くつづきますが、進歩のないなまぬるいものとなってしまうのです。

    ・私が言っているような意味でのカウンセリング関係というのは、親子のあいだではできないと思います。つまり、人間関係がいろいろ入ってくるほどカウンセリングはしにくくなる。結局、カウンセリングは非常に難しいので、それだけの厳しさをもつことはなかなか困難なわけです。自分の子供に対してカウンセリングができるなんて考えられません。子供が「これこれで困っている」といっても、「ウン」なんてなかなかいえない。また、そのときに「ウンウン」というよりも、親子の間であれば一発なぐった方がよほどいい場合がある。あるいは、「お父さんがしてやろう」と飛んでいって助けてやった方がいい場合もある。それ、カウンセリングというのはすばらしいから、これを親子関係にもっていこうというのはおかしい。

    ・夫婦でやってきて、二人で私に会いたいと言われたとき、「いや、個人と個人の話し合いですから、どちらかお帰り下さい」と言って成功した場合もある。そこで、なるほど厳しいものだとわかる。ふつう常識でしたら、「どうぞ」ということになり、世間話になってしまうのに、「奥さんはお帰り下さい。奥さんに話があれば、今度聞きましょう」というと、ご主人にすれば、これはすさまじい、本当に一対一で話をしなければならないところだということがよくわかる。それで成功する。ところが逆に、断ったために二人とも来なくなるということも考えられます。「せっかく行ったのに、かっこのいいこと言って追い返した」こういう場合、実際問題としては、非常にむずかしい。
    ただ、われわれとしては、両方の一長一短を知りながら、どちらかを選択してゆく。カウンセラーはいうなれば、一瞬一瞬、一長一短、どちらかを選択してゆくのです。実際、夫婦で来られ、「今日は主人を連れて来ました」と言われると、とっさに困る。そのとき、常識に従って会ってはだめである。カウンセリングの法則に従って、ひとりを帰してもだめである。この場合、どちらがいいか本当のところわからないことがある。わからないけれども、わたしという人間は、そのときにこちらを選択しましたという迫力が大きな意味をもちます。

    ・これで、このカウンセリングの過程は終わりなのですが、実は、私はこのあと少しつけ足したいと思うことがあります。それは、このクライエントに対して、あなたは人が怖くて困っていたが私と話し合っているうちに、それがなくなって学校へ行くようになったということだけをしたのではなく、本当の仕事は、あなたの異性に対する態度の変革、あるいは一人の女性として生きてゆく生き方の発見というふうなことをしたのですよと話し合いたい。

    ・たとえば対人恐怖で外出できない人であれば、まじないでも何でもよいから、明日から外へ出るようになりたいと思っています。ところがすでにのべてきたように、カウンセラーは直接的な解決策のないことを知っているからこそ、悩みの背景の方へまわろうとします。実際には、カウンセラーが聴く態度をとっているとクライエント自身が、その道へと進んでゆくのですが、これはクライエントの最初の期待とは異なる道に行っているのです。

    ・新しい認知は発展の為に望ましい、必要なことですが、そのようなことは他人のいうことであって、本人にとっては、まず不安感や恐怖感を感じる方が先に立つものと思います。たとえば、クライエントが「私はおとうさんが大嫌いです」といい、しまいには「あんなおとうさんは死んでしまったほうがいいくらいだ」とさえいう時、このように言ってしまったということはクライエントにとって何とも言えぬ気持におちいることになります。このときのクライエントの気持ちは複雑です。今まで誰にも言えなかった自分の本音を聴いてもらったといううれしさと、言わなくてもいいことを言ったのではないかという不安と、その両方を体験します。このことを知らず、ややもするとカウンセラーが新しいことがらが出てきたことを手放しで喜びすぎると、クライエントの感じている不安感を見逃してしまうことになります。だから、クライエントが何かを言いかけては止めたり、なかなか言い出せなかったりするとき、そういう態度をカウンセラーは、むしろ尊重してゆこうとします。

    ・私のところに来た中学生や高校生で自分から自発的に来たのは一人だけで、あとは皆誰かに言われたり強制されたりして来た人ばかりです。嫌がるのを両親に腕をつかまれてきた中学生、部屋にはいるとすぐ椅子を後向けにして座った高校生、「先生が言いたいことがあればいくらでも言って下さい。私の方からは何も言うことはありません」と最初に切り口上をのべた高校生など、ほとんどの人が抵抗を示しましたが、結局は問題なくカウンセリングができたのです。これは、むしろ拒否的な態度を示す人の方がかえって容易だとさえ言えます。つまり、それ程強く反対しなければならない人ほど、内的には逆にカウンセリングを受けようとする心の動きが潜在的に存在していると考えられるのです。それで、相当拒否的で、時にはカウンセラーに対して攻撃的な人でも、それを受け入れておりますと、だんだんと悩みを話し始めたりして態度が変わってくるものです。

    ・裏返していいますと、カウンセリングを受けたい、何とかして自分の悩みの解消をしたいと言ってくる人でも、心の底には、カウンセリングを受けたくない、悩みを解決したくないという心の動きも存在しているといえます。実際、全てのノイローゼの人は治りたい治りたいといいながら、治るのを欲していないといいたいくらいです。

    ・ただし、非常に大切なことは、カウンセラー自身がそのようないろんな自分の内的な心の動きに敏感でなければならないということです。つまり、こんなに退屈なのだから言ってやろうというのと逆に、ここで言えば危ないのではないかというのと、あるいは、もうやめたいのだが、せっかく来る人を断るのも気の毒だし、などと言う気持ちが実際に起こる。このようないろいろな気持ちに対して、カウンセラーは自分自身の心に忠実にならねばならない。言うならば、相当自我防衛をはずしていなければならない。そして、その自分自身の自我防衛をうすくしている中で自我の中に飛び込んでくるものを相手にぶちあてるのです。

    ・「自分は対人恐怖で困っている」とか、あるいは、「自分は悪い主人をもって困っている」とか、あるいは、「自分は勉強ができなくて困っている」とかクライエントの口から言えばいやなことばかりでてくるのだが、カウンセラーとして聞いている場合、それは非常に光をもった可能性に通ずる場合が多い。だから、われわれは人のいやな話を辛抱して聞いているというよりは、一見いやな話にみえる中に光をたくさん知っているからこそ、心からそれを受け入れることができると言ってよいと思います。

    ・ここで、カウンセラーは、それをそのまま受け取らずに「実は、そのように見える私は、それほど光輝いて私がみえるということは、あなたの内的なものが光り輝いているのですよ」ということをクライエントに伝えてやらねばならない。

    ・自我防衛のあり方がその人の性格特徴をあらわしているとさえいえると思います。そういう意味でいうと、もちろん、内向性の人と外向性の人とちがいます。簡単にいえば、外交的な人は自分の内界を防衛しているはずですし、内向的な人は外界のことを防衛しているはずです。

    ・だから、自我ができあがっている、いないという考え方よりも、今ある自我構造がその人の問題にしている可能性をどの程度消化しうるかという点に注目して、その場合、少し自我を強めるような方向でもってゆこうか、あるいは、もう少し自我を開いて可能性を取り入れる方向にもってゆこうかというふうに考えた方がいい。だから、何も中学生の子でも非指示的なカウンセリングはできるし、大人に対しても指示的なカウンセリングをする場合がある。

    ・このように言っても実際場面になりますと、そんな簡単なものではありません。自分は理論を知っているから受容できて…、といったものではなく、実際にやりますと、クライエントの言うことがいかに受容しがたいかということが分かります。そこで、受容しがたいながらも、一応受容したかのごとくまねをする。まねをするというと悪く聞こえますが、もう少しよい言い方をすると、理解を先にのばすということです。ふつうの人は、理解を先にのばすことができなくて早いこと決着をつけようとしすぎるわけです。「家出をする」というと、「やめとけ」とすぐに言う。しかし、われわれは家出をしたい意図は分からないけれども、分からないままで決着をもう少し先にのばす。だから、「家出をしたいのだね」と待っている。待っていると次の話が出てくる。

    ・ここで大切なのは、相手がいったとき無条件に尊重できれば、それは文句なしにすばらしいですが、ところができなかったらできないということを、われわれは尊重しよう。具体的に言いますと、相手が自殺したいという場合、それを、私は無条件に肯定できない。その時には、自殺はやめてくださいと言わねば仕方ありません。あるクライエントが「誰にも言っていないが、自分の国籍は日本ではないのだ」という。その場合に、「あなたは日本人じゃなくて、ほかの国籍なんですね」というふうに無条件に積極的関心を示さなくて、そんな答えができなかったとします。そして、思わず知らず話をそらしてしまう。そして、「あなたの子供さんは日本国籍でしたね」ということを言ってしまう。これは、クライエントは自分の国籍は違うと言っているのに、カウンセラーがそれを受け入れるのは辛くて仕方がない。が、せめて、その子供さんが日本の国籍だということは受け入れられるので、そちらを言ってしまう。だから、向こうの線と、こちらの線とがくい違ってしまう。くい違った方がいいとは決して思いませんが、くい違ったことはそれなりの意味がある。

    ・たとえば、私が今日は五時からクライエントに会うのはつらい、疲れているからやめたいと思っている。すると、クライエントが来た時に、「今日はあなたに会いたくない」と言うのが純粋だという人があります。これは話が早すぎます。純粋というのは自己一致という言葉もありますが、そういう単純なことを言っているのではなく、自分の心の中に動いていることはすべて、これをとりあげようというのがgenuineと言うことだと思います。そうすると、五時にクライエントが来た時に、疲れているから会いたくないと言う気持ちと、せっかく約束しているのだから、やはり会わねばならないという気持ちもあるはずです。

    ・話すことは、一発勝負です。手紙というのは何べんも読めますから思いつきで書くことはできない。少し文章も考える。ところが、文章を考えて書くと味がなくなってしまう。そういう点まで考えるとむずかしい。そういうむずかしいことまでして出すぐらいなら、不足がちにしておく方がよほど効果的です。だから、すばらしいカウンセラーほど、何もしなくなります。何もせずに、ずっとクライエントに不足がちにして、クライエントがどんどん立ち上がっていくというのが一番すばらしいです。

    ・もっと端的に言えば、ぼんやりしていることです。だから、自分の内面に耳を傾ける態度に最も近い態度は、ほとんど寝ているのに近い態度です。ふっと寝かけている時に、ふわっと変なことを思いつく。ああいう態度にまでなっていたら変なことが出てきます。そうすると、クライエントの言ったことに対して、急にそれはだめですということが浮かんできたりして自分でもおどろくようなことが生じてきます。

    ・しかし、そのケースが私の心の中で生きている限りは話すべきではない。こういう公開の席で言うということは、極端にいえばそれを殺すことになる。しかし、やはり何かを殺すということは、われわれの成長のために必要なことであると思うのです。

    ・中断を恐れると、われわれの態度が甘くなってしまう。だから、私の気持ちとしては、やはりカウンセリングをするのだったら、この程度の厳しさはゆずることができないというのが心の中にあって、それを崩してまでつづけることはしたくない。それを崩してまでつづけることなしに中断になった場合は仕方がないのではないかという気持ちがあります。つまり、カウンセリングというのは、非常に大きな仕事をクライエントとカウンセラーと二人でやりぬくわけですから、仕事に対して二人の力がまだ及ばない時、あるいは、そういう「時」がきていない時はむしろ中断されて、次の機会を待った方がよいのではないかと思います。

    ・不完全な人間が、不完全ながら私の力で生きていきますという時にカウンセリングが終わるのです。ところが、完全な人間をめざすと、カウンセリングは無限につづくはずです。

    ・(ロールプレイでクライエント役になる人が自分の問題を言うべきでない)
    自分の問題というのは、やはり自分でカウンセリングを受けるか何かで解決すべきで、そう見世物のように皆の前に出すべきではない。われわれがカウンセリングをしているということは、個人の尊重、個人の内的世界を尊重するということを、絶対に大切なこととしているわけですから、そういう他人の内的世界を尊重する人が、自分の内的な世界を尊重できないというのは矛盾した話で、やはり、自分の問題を大切にしなければならない。

    ・結局は、カウンセリングとか心理療法というのは、ひとつの実験のようなものだ。ひとつのいれものの中に、クライエントの人格とカウンセラーの人格を入れて下から火をたいて、ここですごい変化を起こそうとしている実験のようなものである。(ユング研究所の先生の発言)

    ・大体、人間というのは、何になればよいか長い間考えたら分かるものです。

    ・あるカウンセラーがクライエントを訪問したが、その子は戸を閉めてしまった。カウンセラーは、その子が怒っている気持ちを受け入れなければならないと思うのですが、やはり受容できません。そこで、怒っている気持ちを受容しようと思ったが腹がたってきてだめだったと反省されるが、私にはそれが道徳的な反省に聞こえてくるわけです。道徳的反省は悪くはないのですが、ほとんど効果がありません。そこで、もう少し事態を探究してみたら、なるほど、この子はカウンセラーを父親と見間違ったということがわかってきた。これはなかなか面白い。あれだけ一生懸命話し合ったカウンセラーさえ、父親と見間違うほどおとうさんとの関係に大きい問題があるのだ。そういう子が学校へ行けないでいるのは当たりまえではないかというように、むしろ、その子の気持ち、あり方が胸に迫ってくる。

    ・深いけれど親しくない関係、親しくないが、それ故にこそ深い関係に入り込めるという事実をよく知るべきです。

    ・その子は進級できなかったら自殺するといっていますが、そのときに死んでもらったら困る。ともかく進級させようというのは、ちょっと考えが早過ぎます。むしろ、ここで死んでもらわなければ困るというのがカウンセリングです。死んで生まれかわることをやりぬかねばならない。実際、死ぬ話を何度も聞くほどの気持ちもっていなければそういう子は治りません。

    ・たとえば、ある男性のクライエントが、あまりにも女性的なものを抑えて、女性的なものに目を閉じて生きてきたのですが、その人がカウンセリングを受け始めます。だんだん心の中から女性に対する気持ちとか、関心がでてくる。そうすると、この人は急に恋愛をする。ところが、少しずつ女性に関心をもっていて、長い間たってから恋愛をした人は上手ですけれど、長い間放っていて急に恋愛をした人はたいてい下手な恋愛をします。というのは、浮かび上がってくる気持ちがあまりにも大きすぎるので、相手を見きわめる余裕がないわけです。だから、どう考えても感心できない女性を好きになる場合が多いのです。ところが、カウンセラーは、そこで、「もう少し上等の女性と恋をしたら」というわけにはいかない。というのは、それは、上等とか悪いとかいっているのは、こちらが勝手に方向付けをしているので、クライエントの心に生まれてきたものの力強さは、そういうものを越えてひとつの対象を選んでしまうわけです。そして、実際、それは常識からみればだめな女性のようにみえますけれど、この人が人格変化を起こすという点においては、非常にすばらしい女性になっているのです。
    ところが、そういって喜んでばかりおられないのは、この人が「結婚する」と言い出した場合です。結婚というのは非常にはっきりとした実際的な問題です。…そして、実際に、友人も両親も、皆が反対するような人とこの人が結婚しようとする場合、カウンセラーもとめたくなります。ところが、ここでとめてしまったということは、実験をやめるのだということです。

    ・たとえば、クライエントが望ましくない女性を好きになって恋愛をしだした。そして、結婚したいというとき、他の人よりも私は勿論待ちます。他の人が「やめておけ」とか、「そんな恋愛するな」と言うときでも私はずうっと聴いています。というのは、そこからどんな可能性が出てくるか分からない。ところが、最後にはっきり現実の問題となって、「○月○日に結婚します」というところまでいった場合には、私は、カウンセラーとしても、やはりもう一度現実の問題に立ち返られねばならないと思っています。

    ・内的な問題があまりにも大きい人は、ある程度これを抑えていて当たり前です。うっかり抑えをはずしてしまうと、この人は危なくなります。このような人は、カウンセリングに来ましても、われわれがふつう常識で考えているような内的な話をしないわけです。カウンセリングをわざわざ受けに来ながら、ふつうの人だったら涙を流して、「おかあさんが憎い」とか言ってくれるのに、ありきたりの話をするような人がいます。そういう人はどういう人かというと、まだ深い内的なところへ入るのは危ない人なのです。こんなとき、私は浅いところで一生懸命つき合おうとします。浅いところで一生懸命つき合っているカウンセリングは、意味は非常に高いですけれど、もし録音をとって皆に聴かせたら、ほとんどの人は、興味を失って途中で眠ると思います。

    ・やって来ては歴史の話をする子がいました。これは本当に印象的でした。わざわざ一時間かかるところをバスに乗ってやって来て、そして、私に向って何を話すかというと、その日に習った歴史の話をします。
    …その子が歴史の話をするというのは、非常に分かりきって、絶対あやまりのないことを話そうとしているのだと思います。好き嫌いの話が入らない。好き嫌いの話をすると危い。好き嫌いの話をすると、たとえば、「自分はまんじゅうが好きだ」というと、私が「いや、まんじゅうよりようかんの方がおいしい」というかもしれない。そうすると、これは危ないですが、しかし、「大化の改新が何年だった」というのは、これはちょっとこちらとしても反対できないことでして、その話をその子にすれば、ひとりの大人に一対一で向かい合って話をすることが大きい意味をもっているわけです。その意味が分かるまでは、私も相当苦労しました。

    ・カウンセラーとしては、クライエントになにか教えてあげた方がよい場合もあります。たとえば、「こうした方がよろしい」とか、「こういう本を読んだ方がよろしい」とかいう場合もあります。そうしますと、今までのべてきたことと随分矛盾してくる。クライエントの話をひたすら受容し、無方向で、無価値的にすすむというのと、教えたりするのでは、ずいぶんちがうと思われることでしょう。このような点について、実際にクライエントに向かっているとき、今、私はその人のどこと向かい合っているのかということを考えます。どうしてもその人の自我を強めるようなことをしているのであれば、わりあい話をしたり、忠告したりする。ところが、もっともっと深いものを掘り出そうとするときには、その態度はずいぶん変わってどんな話がでてきても、私はその話を受け入れるという態度にでる。

    ・ひとつの例として、登校拒否症の高校生との経験を話します。この人は、私のところへ来るまでに何人かのセラピストに会ってきた人ですが、私のところへ来るとき、非常に時間がきっちりしていて、十時になったと思うと戸が開く。あまりに性格なので、私が、「あなたはすごく正確に来ますね」と言ったところ、「私は遅刻は嫌いです。それで、私は先生の家に十分ほど前に来ていて、そのへんで散歩して時間になったらさっと入る」と言います。そこで、私は思わず、「それでは、あなたは生まれてから遅刻、欠席全然ない人ですね」と言うと、その人は、「私は、遅刻、欠席全然…」と言いかけて、ハッと気がつく。つまり、学校恐怖症ですから、その人はずっと欠席ばかりしている人です。そのとき、私は思わず言葉が出たので、相手も思わず言葉が出たので、相手も思わずつられて答えかけて、ふたりであんまりおかしいので顔を見合わせて笑いました。…そこで、その人が自分の完全壁に気づくわけです。完全にやろうとすることで学校へ行けなくなった。

  • カウンセラー必読と言われる、その筋では有名な本。

    カウンセラーとして、行き詰まりを感じたとき、これを読むと開けてくる部分があると思います。

    内容も講演録に基づいていることもあって、平易です。しかし、言っていることはとてつもなく深い。

    ある本(『カウンセラーのためのアサーション』)でも、カウンセラーの「非合理な思いこみ」について、触れていましたが、この本は、まさに「実際問題」として、カウンセリングをとらえるにあたり、既成概念=ステレオタイプを解体し、基本となる部分と柔軟に応用させる部分に分けて、組み立て直してくれています。

    とりわけ、河合氏が実際に担当した高校生へのカウンセリング事例は、一見するとかなり既成の枠をはみ出たものです。しかし、そこには、クライエント中心というか、その自立というか、確かなものがあり、蛇行しているようで、深いところで一貫していると感じます。

    1970年発刊の本書ですが、今も色あせない、価値があります。それだけ、まだまだ日本のカウンセリング界も途上にあるということでしょうか・・・。いや、そうじゃないですね。本書を読むことは、カウンセリングの過程ときわめて相似した形にあり、どの箇所をひもといても、自分の心と携わっているクライエントについて、人ごとでなく、自分事として照応できることが名著の理由と言えそうです。

  • 【新入生に対して、入学前に紹介している本】
    カウンセリングの実際について詳細に述べられたもの。平易な文章ながら、本質的問題にからめて、深く解説している。(F先生)

  • 河合さんの実践的カウンセリングを通じて、人に対する深い哲学を感じる。

    人はかならずどんな状況からでも立ち上がってくる。この人間観へのゆらぎが人生を生きることだろうって僕は考えている。

  • 危うく本棚の肥やしになるところだった。ようやく読みましたよ。可能性を信じて行こうとする行為であることと、知りすぎると感情の振れ幅がどんどん少なくなっていくんだろなと感じた。

  • カウンセリングを行う上での基本的な理論・態度、そしてそれに伴う実際問題がわかりやすくまとめられている。
    大学院での教科書としても使われていると聞いたことがあるが、学部生でも十分理解できる。

  • 2016年12月25日

  • 共感することが沢山ありました。かっこいいことばかり書かれている表面的な内容でなく、まさにタイトル通り「実際問題」が書かれています。
    正直、河合隼雄さんのことはそれまで知らなかったのですが、他の本も読んでみたくなりました。お亡くなりになったと言うのがとても残念です。ご存命の時にお話を聞いてみたかったです。


    この本を読んでいると『二律背反』という言葉がたくさん目に付きます。
    ものごとには表と裏の二面性があるなどとよく言われることですが、カウンセリングはその『二律背反』が多い現実の中で、微妙なバランスを取りながら行う必要があるということがよく伝わってきます。つまり、これが正解ということがないので、とても難しいというわけです。


    『二律背反』の一つの例として現実吟味ということがあります。
    人が成長するためには、まず現実をよく知るということが必要となってくるわけですが、逆に現実吟味が強すぎても適応しにくくなるということもあります。
    例えば、誰かが病気をしたといったら気の毒だと思いますが、本当に病気になった人の悩みがそのまま伝わってしまうと生きていくのは難しくなってしまうでしょう。
    つまり、本能的に自分を守るために他人の悲しみを適当に知らないような「自我防衛」の機能を持っているのです。また、『二律背反』の多い現実をすべて知ってしまうと恐くて動けなくなってしまったり、自分にとって逆にマイナスになってしまいます。そのため、本能的に自分にとって都合のよい情報だけをフィルタリングする機能を持ち合わせているのです。
    そのため、誰しも自分の自我を高めたいという気持ちがある一方で、危ないことには触れずに今のままでよいという2つの気持ちも持ってます。
    ひとつの段階の自我が次の高い次元の自我へ発展していくためには、この2つの気持ちがあるということをきちんと理解している必要があるのです。


    もう一つ『二律背反』の例をあげてみます。
    カウンセラーの態度として、『genuine』である必要があると言われてます。
    日本語訳では「純粋」とか「本当」などに訳されています。
    ただ、単に「純粋」というと誤解されることが多いようです。
    例えば、会う約束をしていたのに直前になって疲れてやめたくなったとします。
    この場合「疲れたので会いたくない」と素直に言うのが「純粋」と思われることが多いです。でも、本心は「会いたくない」という気持ちと「約束したから会わなければいけない」という気持ちの両方があるはずです。両方あるのが本心のはずなのに、一般に本心というと悪いほうを叩きつけるものだと思う人が多いです。
    この2つの気持ちを一つのハーモニーとして溶け込んだような態度が『genuine』ということです。
    (ただ、一般の社交の場では『genuine』でないことのほうが多く、実際そのほうが良いということです。これは先に書いた「自我防衛」の話と似ています。)



    他にも『二律背反』の現実が沢山書かれていますが、こういった『二律背反』の中で河合先生がいかに悩みながらカウンセリングを進めていっているということを、一章まるまる(30ページ余り)をかけて一つの事例で紹介されています。苦悩しながらカウンセリングをしている河合先生の心情がすごく伝わってきます。
    カウンセリングを行う際にはカウンセラー自身の「自己防衛」の力を弱めてやる必要があり、河合さんが「カウンセラーなんて好き好んでやるもんじゃない」と仰られるのも分かる気がします。


    この本が私の生まれる前に書かれているというのもまたびっくりしましたが、
    今なお版を重ねていっているというのは、この本が本当に良い本であるという証拠でもあるかと思います。私もこれまでいろんな本を読みましたが、自分にとってそのまとめとも思えるような本でした。
    ハードカバーのごつい本ですが、こういった部類の本としてはかなり読みやすい本だと思います。「コーチング」とか「自己実現」といったことに興味があれば手にとって見てもらえればと思います。

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