ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり (ドラッカー名著集 9)
- ダイヤモンド社 (2007年11月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (310ページ)
- / ISBN・EAN: 9784478001202
感想・レビュー・書評
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あまりにも有名な本著は、ドラッカー29歳の時の処女作として、そして1933年という宥和政策の時代にファシズム全体主義を喝破した本として知られています。
その若さで既にして膨大な著作を読み、混沌とした時代に先を見据えたことは驚愕に値します。
本著を読み終えたウィンストン・チャーチルは真っ先に書評を書き激賞しました。そしてその後首相になったとき真っ先に取り組んだ仕事は、士官学校の卒業生への支給品に本著を入れたことでした。前線に立つ指揮官へ、ファシズム、レイシズム、全体主義が許されざるものだという理論的支柱にしたのです。
宥和政策の時代、ナチズムはドイツ人の国民性に起因する特殊要因とする説と、マルクス主義者にとっては資本主義最後のあがきとする説の二つが有力でした。
これに対しドラッカーは、マルクス社会主義が失敗したからこそヨーロッパの大衆を絶望的な熱狂に駆り立てた要因とします。そして背景に「恐慌と戦争という二つの魔物たち」に襲われたことがナチズム隆盛の要因としています。
さらにファシズムとは、あらゆる主義や権力を否定するだけであるとし、前向きな信条はないとします。大衆が熱狂的に全体主義を支持したのは新規な信仰箇条の性せいはなく、否定そのものであったとします。ファシズム全体主義は否定がその綱領であると。
一番印象に残ったのは、「大衆の絶望こそが鍵である」という一説です。大衆の絶望こそファシズム全体主義を理解する上での鍵で、旧秩序の崩壊と新秩序の欠落による「純なる絶望」によってファシズムが隆盛したのだとドラッカーは言います。
今のわが国を覆うのは閉塞感といいますが、言葉を変えれば「絶望」であるといえます。そして新秩序の欠落というのも当てはまります。
そんな時、「否定」が大衆の熱狂を呼び、そして進む道は何かということをドラッカーは明示しています。
あまり書くと政治的になるのでここまでとしておき、本著は社会と大衆は何かという視点で読み進めると大変参考になります。
本著のタイトルは「経済人の終わり」で経済論を内容とするように思えますが、内容は社会学です。蛇足までに。
以下印象に残った文章。
・「国民性とは歴史を説明できない歴史家の言い訳」との箴言。
・ヒトラーを支持したものは、下層中流階級、肉体労働者、農民など、当事の社会の不合理性と悪魔性に苦しめられていた層だった。ナチスの資金の四分の三は、一九三〇年以降でさえ農民や失業者が毎週払う党費や、大衆集会への参加費によってまかなわれていた。
・ドイツとイタリアという二つのファシズム全体主義国において、その主たる目標としての完全雇用は実現された。かつての失業者のかなりの部分が、経済活動ではなく軍や党で働いているにすぎないとの指摘は、完全雇用政策の成功をいささかも傷つけない。(中略)そのような経済が永続しうるものか破局にいたらざるをえないものかを検討する前に、ファシズム全体主義経済それ自体はインフレ制作ではないことを理解しておく必要がある。諸費を抑えあらゆる種類の内部留保を動員する制作はデフレ政策である。
・ナチズムは悪魔の化身、第三帝国によって和解しえない敵としてのユダヤ人抜きには自らを正当化できない。自らを正当化することが必要かつ重要になればなるほど、ファシズム全体主義は新しい悪魔を見つけなければならない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
邦題、『「経済人」の終わり』は、原題 ”The End of Economic Man” の直訳。
「経済人」とは、人間を「自らの経済的利益に従って行動するもの」とする、アダム・スミスに由来する規定。
資本主義も社会主義も、人間の本性をそのように捉えた上に成り立っており、ここでいう「経済人」の終わりとは、資本主義及び社会主義の破綻を意味している。
本書が世に出たのは1939年4月。ドラッカー29歳の処女作で、ドイツのポーランド侵攻(同年9月)の直前、まさに第二次大戦前夜に出版された。
この時代、急速に勢力を伸ばしてきたファシズムを分析し、いち早く自由主義の立場から反論を投げかけている。
なぜ大衆がファシズムを受け入れたのかという社会背景を探っていく中で、まず資本主義とそれを克服すべく現れた社会主義が、立ち行かなくなった理由を分析する。
「ブルジョア資本主義とマルクス社会主義の信条と秩序は、いずれも個人による経済的自由を実現すれば自由と平等が自動的にもたらされるという目論みが誤っていたために失敗した。(P.43)」
資本主義は1929年の大恐慌もあり、失業などの深刻な問題を解決できずにいた。またマルクス主義も階級のない社会を実現できず、理論的にも破綻していた。
そんな閉塞した状況のなか、ファシズム全体主義はそれらに替わるものとして登場した。
経済政策の上では、脱経済至上主義社会。まがいなりにも完全雇用を目指し、軍国主義のための軍事的自足を図る。そのめたに軍拡を続け、それゆえ次々と敵を作り上げた。
また、社会政策では、組織を自己目的化することによって、社会の維持を図ろうとした。こちらも、ブルジョア資本主義と自由主義という敵を設定し、その象徴としてユダヤ人を迫害した。
今から考えると、大衆はなぜこのようなファシズムを選択したのか理解に苦しむが、それほど経済的、社会的な困窮が激しく、先の見えない状況に陥っていた。
結果的には、ファシズム全体主義側の敗北で終わったが、「経済人」に替わる人間観、価値観はいまだないままで、ファシズムに突き進んだ根本原因は未解決のままである。
「経済人」の社会が崩壊したあとに現れる新しい社会の条件は、経済的な平等が実現され、社会の中心には別の価値観が据えられなければならない。
本書が出版されてから70年余り、まだまだ「経済人」が中心の社会から変わっていないことを実感する。 -
1939年において全体主義を論じたドラッカーの処女作。当時のコンテキストに関して正確な知識がないのが残念なのですが、それでもある種の説得力に満ち溢れています。
第二次世界大戦本格化直前における過去と未来の分析を、ヒトラーやスターリンなどの個人の資質に依存せず、政治システム/経済システムから欧州情勢を分析しているところが、この本の特性なのでしょう。
本書刊行直後に現実となった、独ソの接近(不可侵条約締結等)を予測したことで有名です。
「あらゆる観点から、独ソ同盟はほとんど不可避のことに思われる。...この同盟は必ず結ばれる。おそらく来年、1940年には結ばれる。...両国が急速に接近していくことは間違いない。」
後に首相となる前のチャーチルでさえ、書評で激賞しながらも、独ソ関係の部分には「若干自らの論理にとらわれている」部分だと指摘するほど可能性の低いシナリオであったということからみても、突出した分析力の証に思えます。
他にも、今となれば当然のようにも思われますが、マルクス主義社会への容赦ない否定も特筆されるべきです。
またナチズムにおけるユダヤ人の「最終解決」に限界がないことも正しく指摘されています。
面白いか面白くないかは、この時代の欧州に対する興味の有無によるかと思いますが、少なくとも当時29歳にしてすごいな、ということは感じ取れるはずです。 -
ドラッカー名著集〈9〉
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"ドラッカーの処女作。
経営の話しでなくて、全体主義が、社会的、経済的、政治的になぜ出てきたかという話しと、今後の見通しとして、ナチスはソ連と手を結ぶだろうと、だれもが電撃的な不可侵条約に驚く前に、それがほとんど必然であることの予言。
1939年、ドラッカー29才のときの作品ということだが、この分析の重厚さ、鋭さ、先を見通す力はとんでもないものがある。それだけでも驚きなのだが、これは1933年、ナチスが政権をとったとき、つまり23才から書き始められたということ。
ドラッカーって、そこまで好きではないので、こういう戦前の作品は、マニアが読むものだと思っていた。ところが、これはドラッカーが書いたということを外して、全体主義の分析として古典のレベルとなっている。
ドラッカーのスタートがここにあるのかと思うと、ちょっとドラッカーの読み方が変るかもですね。
ほんとすごいよ。 -
課題図書
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経営学の父とかマネジメントの創始者とか言われてるけど、この本の内容はファシズム全体主義とブルジョア資本主義とマルクス共産主義に関して。面白いほどにマネジメントとかの話は出てこない。ドラッカーが1939年に書いた論文で、その頃はまだ大量生産の時代だったから知識労働とかの話は出てこないけど、エッセンスを集めました的ビジネス本なんかより、非常に勉強になる。
どんな社会背景からファシズムが芽生え、なぜイタリアやドイツで国民の支持を集め広まったのか。そのあたりのことが熱を込めて書かれている。ちなみにこれを書いたのはドラッカーが27歳の時、マジかよ -
産業社会を経て 第2次大戦後の社会・経済を紐解いている作品