「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機

著者 :
  • ダイヤモンド社
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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784478006832

作品紹介・あらすじ

当事者でもないのに、なぜこれほど居丈高になれるのか?不安や恐怖、憎悪だけを共有しながら、この国は集団化を加速させていく-。取り返しのつかない事態を避けるため、今何ができるのか。

感想・レビュー・書評

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  • 【メモ】
    1 死刑制度は被害者遺族のためにあるのではない
    「被害者の人権はどうなるんだ!」
    死刑反対を訴える弁護士や知識人たちへの反論としてよく使われるフレーズだ。
    このフレーズの前提には、決定的な錯誤がある。シンポジウムの際に高校生たちは、「被害者の人権を軽視しましょう」などとは発言していない(当たり前だ)。ただし加害者(死刑囚)の人権について、自分たちはもっと考えるべきかもしれないとのニュアンスは確かにあった。そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。
    でもこの2つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと同義ではない。

    二項対立は概念だ。現実とは違う。現実は多面的で多層的で多重的だ。僕の中にも善と悪がある。あなたの中にもある。とても当たり前のこと。でも集団化が加速するとき、二項対立が前提になる。明らかに錯誤だ。多くの人はその矛盾に気づかない。立ち止ってちょっと振り返れば気づくのに、集団で走り始めているから振り返ることもしなくなる。

    「自分のこどもが殺されても同じように(死刑制度は廃止すべき)と言えるのか」という人たちには、「もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか」と質問したい。
    死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艶福家や社交家の命より軽く扱われてよいということになる。
    つまり命の価値が、被害者の立場や環境によって変わる。ならばその瞬間に、近代司法の大原則である罪刑法定主義が崩壊する。

    刑事司法は意識的に、被害者遺族の心情とは一定の距離を置いてきた。情緒を法廷に導入することについて、できるかぎり慎重になるべきだとの姿勢を固持してきた。被害者の写真を遺族が法廷に持ち込むことを、意味なく禁じていたわけではない。
    でもそれが1995年に劇的に変わる。
    不特定多数の殺傷を狙ったオウム真理教による地下鉄サリン事件とその報道は、自分や自分の家族も被害者になったかもしれないとの危機意識を、国民レベルで強く刺激した。つまり被害者感情の共有化だ。だからこそ地下鉄サリン事件以降、被害者遺族への関心が急激に高まり、これに気づいたメディアはさらに遺族の悲しみや怒りを煽り、共有化された被害者感情は罪と罰のバランスを変容させながら厳罰化を加速させ、メディアと民意から強いバイアスをかけられた司法は、厳格な審理よりも世相を気にし始めた。

    オウムによる地下鉄サリン事件は、不特定多数を標的とした犯罪だ。特定の誰かを狙った犯罪ではなく、国民全員が被害者になる可能性があった。だからこそ膨大な量のメディア報道に刺戟されて、被害者感情の共有化が促進された。さらにサリン事件の動機の不明確さなどもこの恐怖と不安に拍車をかけ、悪に対する「許せない」との気持ちが高揚し、厳罰化が促進した。

    被害者遺族の気持ちを想うことは大切だ。実際にこの国の被害者遺族は、これまであまりにも冷遇視されてきた。オウム事件以降は急激に変わったけれど、遺族や被害者に対しての救済や補償はもっと整備されるべきだと僕も思う。でもそれは、同調することとイコールではない。
    あなたが被害者遺族である可能性はある。ならばその報復感情を僕は否定しない。できるはずがない。僕だってそうなるかもしれない(でも実は、報復を否定する遺族も少なくはない)。だから被害者遺族ではないあなたに言う。遺族の気持ちを想うことと恨みや憎悪を共有することは、絶対に同じではない。想うことと一体化することは違うし、そもそも一体化などできない。


    2 善意は陶酔しやすい
    映像メディアと音声メディアが誕生した20世紀初頭、メディアの発達で情報が行き渡れば、世界から戦争や飢餓は絶えるはずだと多くの人々は考えた。でも事態は逆だった。確かに善意は広がる。でも一方的なのだ。しかもメディアによって流通する善意は絶望的なまでに軽い。だから容易く正義へと転化する。しかも善意に付随した憎悪や恐怖も拡散される。結果としてこちら側だけの正義や大義が肥大する。虐殺や戦争を誘発する。だからこそ20世紀は戦争の世紀になった。

    もう一度書く。善意は否定しない。できない。でも善意は陶酔しやすい。一方向に加速する。だから周りが見えなくなる。その帰結として多くの不合理や不正義を生む。多くの人を苦しめる。


    3 表現を付け加えすぎる日本のメディア
    海外のメディア関係者が来日して日本の夕方のニュースを見たとき、誰もがまず、「なぜ報道番組で行列のできるラーメン屋や回転寿司店のランクなどを放送するのだ」とびっくりする。
    そして次には、「なぜ事件報道ばかりがこれほどに多いのだ」と首をひねる。日本中で人が殺されたり殺したりしているかのような印象を受けるらしい。確かに事件報道も大事だけど、伝えるべきことはもっと他にもたくさんあるはずだと。
    そのたびに僕は説明に困る。まあ実のところ、これらのすべての疑問に対して、「そのほうが視聴率が上がるんだよ」と説明することは容易いし実際にそうなのだけど、やっぱりそれは、日本のテレビ関係者としては口にしたくない。
    彼らが口にする違和感はもう1つある。モザイクやテロップだ。「あまりに多すぎる」と嘆息される。映像制作を志してこの業界に入ったはずなのに、この番組のディレクターやカメラマンたちは、画がこれほどに汚されることに対して憤りを感じないのかと。

    表現の本質は欠落にある。つまり引き算。ミロのビーナス像が考古学的な価値に加えて優れた芸術作品になった理由は、両腕が欠損しているからだ。想像力を喚起するからだ。でも今のテレビ・メディアは、徹頭徹尾足し算だ。それが自分たちの首を絞めていることに気づいていない。メディアが進化すればするほどこの傾向はますます進み、人々は世界に対する想像力を失い続ける。つまりメディアが(今の方向に)発達すればするほど、皮肉なことに、世界はより単純化され、こうして悲劇が恒常化される。他国での虐殺や大規模な飢饉よりも、今日の昼食はラーメンにするか牛丼にするかのほうが重要になる。飢えて死にかけている他国の幼い子どもたちよりも、やりかけているテレビゲームのほうが気にかかる。

    世相形成にダイレクトに結びつくテレビ・メディアの役割は重要だ。ところがそのテレビが、他者への想像力の枯渇に大きな貢献を果たしているのだとしたら、人類の未来は絶望的だ。もしもこのままメディアが進化し続けるなら、環境破壊や核戦争や宇宙人の襲来などではなく、メディアによってこの世界は滅ぶだろう。


    4 共同幻想
    共同幻想とは、思想家の吉本隆明が提唱した、地域や会社、信仰や民族、国家など集合名詞的な観念を保持する共同体と個の関係である。

    今の社会では、もともとは「空気」としての下部構造であった共同幻想が、上部構造である法としての共同幻想を侵食して捻じ曲げ始めた。
    治安が悪化しているとの前提に危機意識を煽られた世相は、集団化を進めながら敵の不在による不安に耐えられず、(9.11後のアメリカがそうであったように)自ら敵を作り出す。つまり仮想敵だ。共同体内部においては少数派への差別や排斥が始まり、厳罰化は進行し、共同体外部においては仮想敵国が出現する。そうして虐殺や戦争は起きる。

    人は集団になると間違える。そして集団の過ちは取り返しがつかないほどにダメージが大きい。


    5 日本には無罪推定が存在しない
    特に9.11以降、過剰なセキュリティ状態に陥った世界は、全般的に強い厳罰化の傾向にある。アメリカではこの40年で、刑務所に拘禁される囚人の数が約6倍に増大した。その総数は2008年始めで231万9258人。国民の100人に1人が囚人ということになる。日本も確実に厳罰化の道を歩んでいる。オウム以降、受刑者の総数はほぼ2倍に増加した。

    日本の犯罪件数は戦後減少し続けている。しかしメディアの過剰な犯罪報道が、くすぶる不安にさらに拍車をかける。こうして体感治安は悪化し続けて、厳罰化は加速する。

    ちなみにヨーロッパの多くの国で指名手配犯のポスターは、原則的には存在しない。なぜなら無罪推定原則に抵触するからだ。もちろんこの原則は、近代司法国家すべてに共通する。でも一審有罪率が99.9%を超える日本では(世界レベルの平均は80~90%くらい)、「検察官が有罪を証明しないかぎり被告人は無罪として扱われる」とされる無罪推定原則が、ほとんどなし崩し的に無効化されている。容疑段階で名前や顔写真を公表することは、刑事訴訟法336条や国際人権規約に抵触することは明らかなのだけど、そんな指摘もほとんどない。一審有罪率99.9%は圧倒的な世界一であり、そもそも1000件のうち999件が有罪であることが異常なのだけど、まるでダブルシンクの状態にあるように、この国の多くの人は不思議に思わない。


    6 共同体の暴走
    小説『1984年』のビッグ・ブラザーはメタファーだ。多くの人の幻想によって存在を裏づけられ、正当性を与えられる。実在しない権威に支配される国民は「見守られて安心できる」とつぶやきながら相互監視体制を強化し、自らの自由や権利を自ら抑圧して制限している。
    プロパガンダは日々行われているけれど、その主体は存在しない。あるいは主体と客体が重複している。オウム以降のこの社会は、存在しない敵に脅え、存在しない悪を憎み、存在しない権威に熱狂しながら従属し、存在しない規制に縛られている。

    ビッグ・ブラザーなる最高権力者に支配された超管理統制社会で人々は思考を失い、自由を忘れ、ただ家畜のように生きている。でもビッグ・ブラザーは実在する人間として登場しない。誰もがビッグ・ブラザーの意思に従っているつもりなのに、その意思が実のところ分散的に遍在している可能性をオーウェルは描いている。つまりこれもまた過剰な忖度だ。撃沈されることをわかりながら戦艦大和が出航した理由は、御前会議における天皇の「海軍にはもう船はないのか」との質問を、「最後の一隻まで戦え」との意思だと海軍最高幹部が思い込んだことが原因だとの説がある。
    こうして側近や幹部たちの「過剰な忖度」が駆動力となって、組織共同体は暴走する。オウムや連合赤軍にもこの要素はあった。取り返しのつかない事態が起きてから、人は顔を見合わせる。いったい誰が悪かったのだと言いながら。
    人類が有史以来続けてきたこの繰り返しを、そろそろ本気で終わりにしなければならない。なぜなら現代は、かつてとは比較にならないほどメディアが発達した。ならば「過剰な忖度」が、より大規模に国民レベルで展開される可能性がある。特に集団化や同調圧力や忖度と相性がいいこの国は、その危険性がとても大きくなっている。

  • タイトルが印象的で、そのテーマについて掘り下げた本であると思い購入したのだが、実際は幅広いテーマで雑誌に掲載されたショートエッセイをまとめたもので、ああ違ったのね、という感想を持った。タイトルの『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』は、当事者ではないものが、被害者遺族の思いを共有できると考えること自体が不遜だというのが、著者の考えを示したものだ。

    一方、このタイトルは、遺族の神聖化を通して、遺族の心情を害するかもしれない言動や行為を「不謹慎」だとする空気の支配によって、なされるべきことがなされないメディアへの批判でもある。つまり本書は、マスコミ批判の書である。メディアというものが提示できるのはどこまでいっても「事実」ではなく「視点」でしかない、ということに対して自覚的であれとの主張で一貫している。テレビ上がりのドキュメンタリ作家として、マスコミの言葉というものに敏感であり、それが透明でないことを肌感覚として知っているのだ。対象に切り込む時の躊躇がないため「エッセイ集」と呼ぶとイメージが違ってくるのかもしれない。ここで挙げられた問題提起に対しては、真摯に向かうべきことのように思う。

    著者の森達也は、オウムのドキュメンタリ『A』を撮った監督だ。恥ずかしながら、途中までそのことを知らずに読んでいた。本書では、オウムについては少しだけ触れられているが、他に震災報道や裁判員制度、死刑制度などの社会的問題から、スリッパのしまい方や書類の押印、ネクタイの着用など日常の違和への考察を通して「制度」への無自覚な行動が批判的に論じられる。その意味でも無自覚性への批判が、この本を貫く主題であるとも言える。もちろんそれは「視点」をずらすことにより得られる見解でもある。

    著者はネットでうすらサヨク、平和ボケとしてネットでは批判されているらしい。しかし、そのように定義されるであろうものから著者は遠く離れている。著者はネットにあふれる、「他人ごとであることについて無責任に言い放つ」ことに対する無自覚さと不寛容さに対して強い嫌悪ともどかしさを感じているのだ。著者は、少なくとも拉致問題の蓮池さんや、オウム事件の永岡さんと直接会って話を聞いている。

    クマバチの例(実は毒をもたない)から始めているが、本書に通低する主題を最初に提示する上で非常によくできた話だ。著者にだって先入観はあり、そのことについて著者も反省することもあるという姿勢を著すとともに、反省してその事実を明らかにすることを厭わない姿勢こそが著者のポリシーであり、世間やマスコミに抱く違和感の源泉であるのだ。そして、多くの「クマバチ」が世の中にはあるのだ。

    第5章「そして共同体は暴走する」で、ポーランドのイエドヴァブネの話が取上げられていたのには軽く驚いた。ナチスではなくポーランドの地元住民によって行われたユダヤ系住民の虐殺。この地名は、高橋源一郎の『銀河鉄道の彼方に』にも隠された地名として出てくる。実はNHKスペシャルでも取り上げられたことがあるというのを初めて知った。アイヒマンの話を好んで持ち出す著者の目には、ナチス以降も同じような暴走の危険性が世界には溢れているように見えるのだろう。イエドヴァブネという地名については、アウシュビッツと同じように記憶しておくべき地名なのかもしれない。
    著者が引用するナチスの台頭を許すこととなったドイツの詩人ニーメラーの詩は印象に残る。

    「視点」を持つことと同時にそれに自覚的でかつ他の視点があることを知っていること、それはたとえ行動に直接に表現されないとしても大切だ。それはわれわれが持つべき「謙虚さ」であろう。

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    本書の中のあるエッセイでも拉致問題が取り上げられている。この本を読み終わったあたりの時期に、横山めぐみさんの両親が北朝鮮に渡り、めぐみさんの娘(つまり孫)に会って帰ってきた。それを聞いて、めぐみさんはこれで本当に生きている可能性はないということなんだなと思った。なぜなら、孫に会うということは生存に関する話を両親がしてしまう可能性があるにも関わらず、許可をしたということではないかと思ったからだ。もちろんそれも可能性の問題だ。しかし、報道ではそういった可能性に触れることはほとんどなかったと思う。「死んでいる可能性」に触れることもなぜかタブーになっているようだ。「これからも拉致被害者の帰国に向けての活動が....」と言われるのだ。やはり、この国のテレビはおかしい。

  • こういう多面的にものを見て考えることのできる人の意見を読むのは面白い。必ずしも結論を出せる問題でないものに思考停止で「正論」を振り回す人こそ目を通すべき。その「正論」は自分の価値観だけに基づいているだけではないか? 尤もそのような人は例えこの手の本を手にとったとしても拒絶反応を起こして結局思考停止を固めるだけになるのが常だが…。

  • 最近は、森さんの書かれるものを読むと、ああ、また火の中の栗を拾ってるなあと思う。そして、いったいいつ頃から、こういう発言をするのにやけどをする覚悟がいるようになったのだろうか、とも。

    死刑制度、領土問題、北朝鮮、厳罰化、オウムについてなどなど。森さんの言っていることはとても説得力があり、全面的に賛成とは思わなくとも、傾聴に値する。自分はどう判断するのか、考える機会をあたえてくれる。日頃マスコミを通じて大量に流される情報を、いかに無自覚に受け取っているか気づかされて、反省する。

    自分の気に入らない人(有名無名にかかわらず)を、読むのもイヤになるような汚い言葉で罵倒したり、プライバシーを暴露したりすることが、当たり前のように行われるようになってしまい、危うそうなことは言わないに限るという空気がどんどん広がっていると思う。新聞の投書欄から住所を突き止められて嫌がらせをされることまで起こっている。

    いやだなあと思うニュースには事欠かないけれど、ストーカーに殺された女子高生が死後にまで徹底的に蹂躙されたこと、ヘイトスピーチデモが拡散していること、この二つには何と言っていいかわからない激しい憤りを感じた。おそらくその多くは普通の生活を送っているであろう市井の人が、ここまで品性下劣になれるのか。山の中に「新しい村」でも作りたくなる。

    まあ、そういうわけにはいかないから、せめてものこと、自分で考える。そして、情けなくなるほどささやかなことではあるけれど、お互いを尊重する関係を身の回りで作っていく。これだって結構難しかったりするのだ。いやほんとに情けないけれど。

    本書を読むと、著者の森さんをはじめ、バッシングや葛藤にめげず、行動し発言する人が必ずいるということも、またよくわかる。心に残って離れないのは、大阪在住であるノルウェー人の女性のメールだ。2011年に起きた銃乱射事件でこの小さな国は大きく揺れた。それでもノルウェー社会は、厳罰化に転換することなく、寛容な姿勢を貫いている。事件の翌日、犯人の母親が事件現場に花を手向けに来たとき、遺族たちは静かに献花を見守ったそうだ。罵声を浴びせる人などなかったという。これが日本なら…、と思わずにはいられない。

  • 刺激的なタイトルなので、犯罪被害者と犯罪の事を掘り下げた本かと思ったら、社会派エッセイの一冊でした。
    思想的にフラットと思っていても、この本を読むと自分の考えがいかに世間の一般感情に左右されているか痛感します。
    森氏の誤解を恐れない方向性はオウムをリアルタイムで追った「A」を読むとよく分かりますが、実際世間の誤解は避けられないし、やはり受け入れられない部分もあります。
    それでも、皆が常識だと思っている事柄が、実際は世間体や思考停止で俎上に上げない様にしている事が沢山ある中で、「どういう主張であれ、みんなでしっかり議論しようぜ」という姿勢はとても支持できます。
    視点によって世の中の見え方が違う事を理解する事と、相手の視点を想像して分かり合おうとする姿勢は本当に大事ですね。

  • 発売された当時に購入して、その時は途中までしか読めなくて、でも大事なことが書いてありそうだったからずっと持っていた本。
    最近、世の中のことや、人の心と社会の動きのつながりのようなものが気になりはじめていて、その考えを深めてくれそうだなと思いもう一度手にとった。
    今度は、最後まで一気に読んでしまった。
    森さんがこの本を上梓したときから、世の中はますます共同幻想的な傾向が強くなっていると思う。
    実態のない恐怖にみんなが怯えていて、そのこころが解きほぐされなければ、みんな優しくなれない。

  • 見えにくいから、見ようとする。聴こえにくいから、聴こうとする。分からないから、考える。自ら取る行動のひとつだったとは。そんな一歩の無い、ものすごくスムーズで分かりやすくするテレビ・メディア。メディア。悲劇も喜劇も日常。

    163頁〜引用、
    ベトナム戦争において米軍が敗退した最大の理由は、国内外に高まる反戦の世相に抗しきれなくなったからだ。そのきっかけの一つは、そもそもの戦争介入が米軍の謀略によって始まったことを暴くペンタゴン・ペッパーズの存在やソンミ村事件などの実態を、メディアがスクープしたからだ。

    ところが存在しない大量破壊兵器を大義として始まったイラク戦争に対しては、なぜか世相に火がつかない。こうぞうはべとなむせんそうとほぼ同じなのに、イラク戦争に対しては、メディアを、受容する人たちの意識が喚起されない。

    その理由の一つは、メディアの質の変化にあると僕は考えている。ベトナム戦争の時代の戦争報道の主流はスティール写真だった。一秒の何百分の一。しかもモノクロがほとんどだ。つまり欠陥したメディア。ところが今の戦争報道の主流はビデオ。情報量はスティール写真とは比べものにならないくらいに増大したのに、人の心は喚起されない。揺り動かされない。(中略)表現の本質は欠陥にある。
    メディアは徹頭徹尾足し算だ。

    310頁
    かけてもいい、国家に救われた命より殺された命のほうがはるかに多い

    316頁
    透明人間にペンキをかければそのアウトラインは浮かび上がる。国家とはそのようなものだ。実体はない。でも前提するからには実体があると信じなければならない。だから色とりどりのペンキをかけて、法令や政治や統治や憲法や人権や刑罰や軍隊や税金などの輪郭を浮かび上がらせねばならない。
    前提でありファンタジーでもあるのだから、その内実は「思われる」ことによって具体化する。

    317頁
    私にとって国というのは、そこに暮らす人たちのできるだけ多数の幸福を実現するためのしすてむであってほしいと思っています。たとえるなら国はマンションの管理組合、政治家は管理組合の理事のようなものです。人は何かに帰属しないと生きていけないとしても、マンションの管理組合に帰属することで自己のアイデンティティを確立する人などいないはずです。乱暴かもしれませんが、国なんて本来その程度のものなのではないかなと思わなくもないです。

    350頁
    殺されるかもしれないとの恐怖はすさまじい。そして殺すときの良心の負荷もすさまじい。心を壊さないことには殺せない。そもそも語りたくないことに加え、壊れているから記憶が定着しない。だから語りたくても語れない。なぜ人が人に対してこれほどに残虐なことができるのか。その理由がどうしてもわからない。
    こうして加害の記憶は途絶え、被害ばかりが語り継がれる。だから戦争の実相がわからない。加害の記憶を思い出さないことには、憎悪と報復の連鎖は止まらない。

    351頁
    「もしもまた同じような状況になったら絵鳩さんはどうしますか」との質問に対して、ゆっくりとマイクを手にした絵鳩は、「私はまた、同じようにするでしょう」と言った。
    「皆さんもそうです。それが戦争です」
    辛そうだった。苦しそうだった。でも絵鳩はごまかさない。決して隠さない。…

  • 色んな人が読めばいいのに、と思います。

  • 森達也の言ってることに概ね賛成。
    しかし、ノルウェーが厳罰化しないことは、宗教的基盤もあるのではないかな。日本人は因果応報という考えが根強いから、殺したのならそれ相応の報いを受けるべき、と思うだろう。だから、こういうことって、法学者やジャーナリストだけでなく、他の学者なんかも交えて日本人全員がもっと真剣に考えるべきだと思う。
    ネット右翼みたいな人たちより、森達也の方が勉強し、取材し、真剣に考えていることは間違いないわけだから、反対の考えの人こそ読んでみるべき本だと思う。
    確かに、当事者じゃないから冷静に考えられるってことはあるわけだし、当事者の気持ちは当事者にしか理解できないとも思う。
    それにしても、吉田茂は立派なことを言っている。孫に聞かせてやりたいね。

  • 今漠然と感じていた問題意識と内容がかなりリンク。
    定期的に読み返したい。
    また厳罰化と全く逆の政策を取っているノルウェーに興味津々。
    フィンランドにノルウェー、やっぱり北欧に行ってみたい

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著者プロフィール

森 達也(もり・たつや)
1956年、広島県呉市生まれ。映画監督、作家。テレビ番組制作会社を経て独立。98年、オウム真理教を描いたドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。佐村河内守のゴーストライター問題を追った16年の映画『FAKE』、東京新聞の記者・望月衣塑子を密着取材した19年の映画『i-新聞記者ドキュメント-』が話題に。10年に刊行した『A3』で講談社ノンフィクション賞。著書に、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『ご臨終メディア』(集英社)、『死刑』(朝日出版社)、『東京スタンピード』(毎日新聞社)、『マジョガリガリ』(エフエム東京)、『神さまってなに?』(河出書房新社)、『虐殺のスイッチ』(出版芸術社)、『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』(ミツイパブリッシング)、『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』(講談社現代新書)、『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)、『増補版 悪役レスラーは笑う』(岩波現代文庫)など多数。

「2023年 『あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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