孤島 改訳新版 (筑摩叢書 350)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (186ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480013507

作品紹介・あらすじ

「孤島」とは極度に孤独な精神、卑俗なまでに謙譲なある魂が回帰する「至福の島々」である。人生における特権的瞬間を美しい文章に結晶させた啓示の書。

感想・レビュー・書評

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  • 情報取得ではなく味わう系の文章。こういうのを読むと落ち着きの中に引き戻される。
    とても息が長い文章に見える。



    むしろかえってそんな幸福の貪りから少しばかり逸らされること、つまり、そんな幸福の野蛮状態から引き離されることが、私たちには必要だったのだ。

    この世界の外見はなるほど美しい、だがそれらはやがて消え去るべきものだ、だから、いまのうちに、ひたむきにそれらを愛さなくてはならない。

    『孤島』は要するに私たちが魔法の呪縛から脱するための手ほどきになったのだ。私たちは文化を発見したのだった。

    私たちが陥る急激な陰鬱の理由。収穫が思うにまかせぬ土地と陰鬱な空の間で辛い労働をしている人は空とパンが心を重くしない他の土地を夢見ることができる。彼は希望する。だが一日中どこへ行っても光と丘とに満たされている人々はもはや希望しない。

    神秘的なものと聖なるもの、人間の有限性、不可能な愛、を思い起こさせる人が必要。ユマニストー私のいう近視眼的な確信によって視野を遮られた人間-になることを差し控えさせる懐疑。

    カミュが作家になることを決めた本。

    人生にあって少なくとも一度そのような熱狂的従順を経験することができるのはやはり一つの幸運に違いない。

    主人と奴隷という言葉にはもう一つの訳がある。尊敬と感謝である。意識間の闘争が問題でなく、対話が問題となる。その対話は一度始まるとそれからは消えることなくある人々にとってはその人生を充実させるものとなる。この長い対面から引き出されるのは隷従でも服従でもなく、ただ真似ーこの言葉の精神的意味におけるまなびーである。

    ついに弟子が自分の元を去り、自分との相違を完全なものにするとき、師は喜ぶ、一方弟子は何一つ返せないとしって、自分が全てを受けた時代への郷愁をいつまでも抱くだろう。このように世代を経て精神は精神を生み出すのであって、幸いにも人間の歴史は憎悪の上に築かれるのと同じだけ賛美の上に築かれる。

    一人の人間が生涯に受ける大きな啓示はそう何度でもあるものではなく、せいぜい一度か二度である。そうし啓示は幸運と同じように変貌する。生きること、生きて知ることに情熱を抱く人間にとってこの本はページをめくるごとに同種の啓示を差し出してくれる。

    想像のインド。思想にとって地理的研究は有用か不用か。インドは言語の統一も民族の統一も持たずただ信仰の統一だけを持っている。首都もなく歴史もない。偉人の偶像崇拝の念がない。自分が通り過ぎた足跡を残さずに生きる。インド人はヨーロッパに興味がない。重要なのは彼が生きている社会が彼の瞑想を妨げないこと。

    ギリシア 乾いてかたい
    争いが人間感情をもっとも明白にし捉えやすくしている
    インド 湿って柔らかい
    とらえどころがなく包括的

    美はあまりにもみすぼらしいごちそう。

    インド人にとって政治わ悪い暇つぶし。人間を精神統治からそらさせるから。それが人生の目的。インド人は自己の存在の拡張によってではなく、自己の存在の沈潜によってしか他のものに到達したいとは願わない。(自分の内面理解を通して他者を理解する。ヨーロッパは他者を他者のまま理解する、か。)それによってインドの特徴・征服されてもどんな影響からも常に逃れる、が出てくる。インド人の野心は「世界を自己から締め出そう」という野心。夢に耽ったインド人はじっと動かずにとどまり、人間の生活を軽蔑する。インド人にとって人間の生活は風邪で服払われる一軍の羽虫にすぎない。

    プロチノスは死を二つに区別する。自然死、哲学死。哲学死はインド人の目的。現実に対して繋がりが絶たれるともう一つべつのつながりができる。現実のこの世界と名付けられるものに対する徐々に高まるあの嫌悪感を想像しよう、ついで生と死というこの永遠の組み合わせに対するあの絶縁を想像し、最後に天啓の光を想像しよう。

    精神が突然奇妙に歪む時、精神はどんな感動をもってそれを眺めることができるだろうか?このものでなければあのものでもない。精神自体でもなければ他者でもない。明瞭に判別できる存在ではない。精神が羨望するものでも、軽蔑するものでもない。欲望または憎悪の対象でもなく、ある感じられる対象である。心情に近い何かではない。精神が数え上げることのできる何かではない。精神が向きを変える、と同時に、精神はそれを見る。それについて精神は感じる。一挙にさっと溢れるように感じる、夜も昼もそれがくっついているのを。そして生まれてくるもの、死んでいくもの、それらすべてのそばでそれが見張っているのを。

    非連続性をとおして永続し、不在の中に存在し、空白の中にみちている。私にはそれが捕まらないが、それの方は私を捕まえてはなさない。それの演じている見世物が、この世界なのであり、私の方は舞台の真実を、俳優の現実を信じきっている。この世界は私に告げているのだ、私が目覚めているときこそ私が不在の唯一のときだと。

    私が眠る。すると私はそれに近づく。私が死ぬと、私はそれに溶け込んでしまうことになる。(夢?)

    あるインド人の言葉。「大切なのは全世界を一周することではない、全世界の中心を一周することなのだ。」「人は見た夢の物語を書かない、人は夢から覚めてしまう。」

    早発性痴呆症の主な兆候は無関心。「一般の青少年にあって、大きな希望や個人的社会的前途に対する強い関心が高まっているときに、患者は次第に自己の境遇に無関心になってくる。勉強がいやになり、競技やスポーツももはや情熱をそそらない。性質はにぶって暗い。大きな事件もまるで古代に属することのように冷たく受け取られる。」
    ー診断の結果、無気力症。
    患者はエジプトの彫像か苦行僧のような姿勢で何日の間もじっと動かずにいる。
    ー感情作用の衰弱。
    不幸の知らせも平静に、もしくは皮肉にさえ受け取られる。
    ー反対感情の両立
    いかなる思想も無価値。また従っていかなる思想も無頓着な点において反対の思想に等しくなる。すなわち+0=ー0
    ー内部の異物に対する苦痛感
    私は人間のどんな思想からもはみ出している。私の思想は虚しい。私の思想はいつまでも私にとって異物である、などなど。
    ディド、ギロー『精神病理学』

    西欧人は(その人の住んでいる土地によってではなく、その人が考える戸言う意味において)ますます彼の耳、彼の目、彼の手にしか、そしてそれらの行動範囲とそれらの能力を倍加するようなあらゆる方法にしか、信頼を置かなくなっている。つまり道具と推論にしか頼らない。そこから彼を引き上げる唯一の方法は人間精神の中には種だねの範疇があることを彼に示してやること。そうした範疇は科学を相対的なものにしながらそれでもやはり科学を確実なものにしている。

    なされたことが存在することに先立ち、また優位であることをどのように理解したらいいのだろうか?

    我々は死後の生存を信じるための信条が必要であり、彼らには生の消滅を信じるための信条が必要である。
    このあたりは政治的思想、保守主義と革新主義の話に見える。

    人間が少しも尊敬されないこと、それが必要なのだ、そうではないか?
    関心は自己の、つまり精神の内部理解か、世界の理解か。

    プルースト「知的で精神的な仕事がどんな高さにまで達したかを判断することができるのは、おそらく、美学のジャンルによってであるよりもむしろ言語の質によってであろう。」

    インドによってもたらされた知的革命。
    非現実主義。まず第一に人間性を失わなくてはならない。ついでこの世界からかけ離れなくてはならない。しかし不統一が最終目的ではない。一体化することに矛盾があってはならない。しかし一つの体系のなかで身動きがなくなることがないように、その一体化が表示することをさけなくてはならない。研究の行き着く先が存在であるか、無であるか、は重要ではない。はじめに研究はない。なぜなら対象は次々に新しく見出されるから。そして一つの事実が多くの事実をあつめた一つの報告に置き換えられるように、現実は真実に置き換えられるから。千分の一秒の間放心するだけで十分なのだ。鎖は断ち切られる。

    理性過剰主義の脱却にかけている方向性は動物の観察。
    あることを信じるのをやめるのは必ず他のものを信じるためにでなくてはならない。

    われわれは自分が生まれたいと思っていた国に、必ずしも生まれていたのではないのかもしれない。われわれが前もって定められた自分の運命を知るには長くかかる。運命の限界を知るにはさらにそれ以上長くかかる。われわれには神が欠けている。そしてそれを再び見出すまでにはそれの代わりになることができるものは何もない。しかし自然に対するある神秘的感情がわれわれのうちなる宿命の外でわれわれをある絶対のなかに合一させてくれる。

  • たとえば、 生まれた海岸はちがっていても、おなじように太陽の光りを愛し、肉体のすばらしさを愛する人間がやってきて、とても真似のできない言葉で、つぎのようにいってくれなくてはならなかった。
    ~この世界の外見は、なるほど美しい。 だが、それらはやがて消え去るべきものだ。 だから、いまのうちに、ひたむきにそれらを愛さなくてはならない、と。~
    孤島(筑摩叢書)ジャン・グルニエ
    序文:アルベール・カミュ

    ずっと若いころ、自分を見失い道に迷って途方に暮れていたころに、横浜伊勢佐木町の有隣堂本店でふと手にした本がこれで、カミュが序文として寄せているある一節に、ずっと先のほうで一筋の光りが射し込んでくるような、「啓示」感というのかそんな感覚にとらわれて思わず購入した一冊。著者の本文はどちらかというとそっちのけで、カミュのこの序文を繰り返し、いまだに読んでいます。

  • カミュの師として知られる哲学者の散文、めいているけれど、八つの散文の主題は「島」に置かれ、「島」は孤立の場所であり、孤立の人間であり、述べる「私」は架空の人物だと記される。勿論「私」はいつだって「私」であって「私」ではないので、私の輪郭すら曖昧にしながら読んでいることができるのは、新しい形式の小説を読むときの心地よさに似ている。
    私が持っているのは古本市で買った竹内書店版なので、検索かけたら著作のほとんどがノーイメージでびっくり。かなり日本人好みな人だと思うんだけど。

  • カミュの先生の語る言葉。

    「われわれは、自分が生まれたと思っていた国に、かならずしも生まれていたのではないかもしれない。」

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