世界正義論 (筑摩選書 54)

著者 :
  • 筑摩書房
3.89
  • (4)
  • (9)
  • (4)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 190
感想 : 10
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (398ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480015587

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 世界正義(Global Justice)について、その理論的な可能性を探ったもの。世界正義は国家内を始めとする、単一の社会の中における正義とは別の難しさがある。例えば国家内であればある程度の文化的共通基盤があるし、法制度を始めとする強制力もある。世界正義においては、大きく異なった複数の文化があり、また(現状では)強制機関もない。著者はそうした困難な議論状況の中で、決して世界正義の成立を諦めることなく、様々な論者の見解を検討しつつ可能性を探っている。本書は専門的な議論をしているが、根本的なところから論を立てているので、この領野に詳しくなくとも読める。なお、世界正義論であって国際正義(International Justice)論でないのは、単に国民国家間(inter-nation)でなく、多国籍企業と世界経済、国際NGOなど国家以外の場面でも正義が論じられるからである。

    著者は世界正義についての二つの極論の間を縫っていく。一つは国境を超えた正義など無いとする価値相対主義であり、もう一つは自国が正義と考えるものを他国に強制する覇権的正義である。前者の価値相対主義は、著者によれば倫理的自己欺瞞に陥っている(p.18)。それは、国境の内側の人々に対してなされれば不正義だとするものを、国境の外側の人々になされれば不正義ではないとし、その差別を行うことは正義に適っていると主張する。これは価値相対主義という主張そのものが価値相対であるとして切り崩されるというおなじみの批判と捉えることができよう。覇権的正義については、著者の舌鋒は鋭い。これは典型的には、「中東に民主主義をもたらす」としたアメリカのイラク侵攻を考えている。著者はアメリカが自国利益を優先した結果の正義の二重基準を厳しく指弾する。アメリカはイラク・アフガニスタンへの侵攻で3兆ドルを超える軍事費を使っているが、その一方でFAOによる飢餓削減への支出を渋っている。イラク侵攻で支出した軍事費のわずか10日分ほどであるのに。これは「自国権益を優先させる二重基準的恣意という、正義理念の蹂躙」(p.54)である。こうした議論状況から、世界正義という理念をまともなものとして救い出さなければならない。なお、正義の理念そのものは本書の直接的な議論対象ではなく理解を前提としているが、手短に言えば自他の位置および視点の反転可能性であるとされている(p.55,127)。

    世界正義を論じる視座として、著者は5つの問題系を拓いている(p.33-48)。(1)メタ世界正義論。世界規模での正義を論じることがそもそも意味のあるものかというメタ議論。現代の法哲学では、国内正義との別の基準を世界正義に適用したロールズの見解が注目されており、これを論駁することが主眼となっている。(2)国家体制の国際的正統性。ある国家が他の国家によって承認されるための根拠は何か。世界正義は国際正義ではないとはいえ、世界正義の適用場面においては国家というプレイヤーが圧倒的に重要性を占めている。文化や人権への考え方が違えど、国家として相互承認する根拠を探る。(3)世界経済の正義。主に世界規模での分配的正義を巡る論点で、貧困国を救済する義務、植民地主義等の歪みを補正する義務などの根拠が問われる。(4)戦争の正義。戦争に訴える正当性を巡るもので、近年では人道的介入の可能性として匡正的正義の問題として新たに浮上している。(5)世界統治構造。世界正義を実現するための国家間構造について。少数の国家が覇権を得るのではなく、かと言って不正義をなす国家に対して何の手立てもない国家間構造でもない世界秩序とはなにかについて。著者の見るところ、これら5つの問題系をバランスよく検討することが世界正義論には必要である。例えば(2)について市民的政治的人権の保障をしない国家は正統性がないとして、直ちに・短絡的に(4)国際的な強制介入が正当化されると考えるのがネオコンであるし、まったく逆に(2)市民的政治的人権の保障を国家の正統性から外してしまい、(4)強制的介入の不正義を説くのがロールズの「節度ある階層社会」である(p.49ff)。

    ここから先はこの5つの問題系に従って著者は微に入り細に入り有力な議論を検討していく。印象に残った議論だけをピックアップしておく。まず、国家の正統性については3つのポイントを挙げている(p.135,155)。(1)まず正統性と正当性の概念的区別の上で、正義を志向している体制であることが正統性を生む。そもそも正義を志向していない国家は正当性を持っても正統性を持ち得ない。(2)正義志向性の制度的保証には統治者と被統治者の反転可能性と、少数者の保護が必要(勝者と敗者のフェアプレー)。統治者が正義を志向しなくなった場合にそれが被統治者によって修正できること。(3)正義志向性に含まれる基幹的人権保障は、国内的だけでなく国際的にも国家の正統性をなす。国内に不正義を修正する仕組みがあるからこそ、国際的には不介入が求められることになる。

    また、世界経済の正義についてはトーマス・ポッゲの制度的加害是正論を中心に検討されている。それは、世界貧民の原因の重要な一部は先進国諸国が押し付けているグローバルな世界経済制度にあり、先進国はこの制度を媒介とした世界貧民への加害を是正する匡正的正義上の責務を追っているとするものである(p.194)。こうした制度的加害是正論は途上国の自己責任にすべてを負わせるものでもなく、かといって先進国に自らの範囲を超える義務を負わせるものではない。それは途上国・先進国お互いの責任を分離し、自己責任に帰せるものがあるからといって制度的加害を否定する欺瞞を除去するものである(p.242)。ただし著者はポッゲの議論を諸手を挙げて歓迎しているわけではなく、先進国の積極的支援義務を合わせることにより、世界経済の正義をより強化しようとしている(p.243-249)。

    さらに、戦争の正義について、戦争原因の正・不正が区別しうる/し得ないという差別化/無差別化の視点と、戦争は政治の道具として結果が良ければ良い/結果がどうあれ戦争は許されないとする手段化/非手段化の視点から、戦争の正義論を4類型に分類する考え方が目に止まった(p.281f)。その中で絶対平和主義(ガンディーやルーサー・キングなどの絶対非暴力主義)は無差別化・非手段化として位置づけられている。これは一般的に無力な正義観とされるが、相手と絶対的な軍事力の差がある時にはむしろ政治的に有効(自分の弱者性を強調すること)であるとされている(p.294f)。

    世界統治構造については中途半端なサイズの国からなる諸国家のムラが結論となっていて(p.376f)、これは他書ですでに読んだところである。その中では国際NGO批判の一環で、女子割礼は文化的アイデンティティと身体の自由の問題ではないとする批判が目を引く。こうした考えは市民的、個人的人権保障しか見ていない。女子割礼なくして女性がまともに生活できる社会を作ることが大事なのであり、社会経済的人権保障が必要だと説いている(p.347ff)。

    最後に。世界正義を論じることは単なる法哲学上の言葉遊びではない。いかに議論の正当性を訴えても実際は覇権的国家に左右されてしまう。それでも法哲学の意義について、著者は以下のように語る。
    「世界の心は一つではない。様々な利害が対立し、さらに、かかる利害対立を構成に調整する価値原理、すなわり正義についての人々の判断も様々に分岐し、鋭く対立している。この対立を解決するのは容易ではない。永遠に不可能かもしれない。しかし、世界正義をめぐる思想の対立が持続する中で、日々厖大な数の人々が貧困にあがき、苦しみ、死んでいる。この状況に対して哲学は無力に見えるかもしれない。「哲学の貧困」を嘲笑するマルクスの声が地下から響き渡ってきそうである。しかし、哲学にできることがある。問題を隠蔽し、問題に対する我々の責任感覚を麻痺させ、問題を再生産する世界の現実をまことしやかに合理化する諸々の欺瞞を、哲学自体の欺瞞をも、批判的に剔決することである。見たくない問題を直視し、問題を解消せず解決しようとする我々自身の知的廉直性と倫理的誠実性の回復を試みることである。」(p.267f)

  • 【目次】
    目次 [003-009]
    まえがき 013

    第一章 世界正義論の課題と方法 023
    第一節 世界法の理論から世界正義の理論へ 023
      1 「世界法の理論」の問題性 024
      2 世界正義論の危険性と不可避性 027
    第二節 世界正義の問題系 033
      1 メタ世界正義論――世界正義理念の存立可能性 035
      2 国家体制の国際的正統性――人権と主権の再統合 037
      3 世界経済の正義――世界貧困問題への視角 039
      4 戦争の正義――国際社会における武力行使の正当化可能性 043
      5 世界統治構造――覇権なき世界秩序形成はいかにして可能か 046
    第三節 複眼的・包括的接近の必要 049

    第二章 メタ世界正義論――世界正義理念の存立可能性 057
    第一節 世界に「正義の情況」は存在するか 059
      1 正義の情況 059
      2 限定的利他性と国益優位論 060
      3 脆弱性の共有と国力格差 068
    第二節 平和は正義に優越するか 074
      1 「正義の原罪」批判としての諦観的平和主義 074
      2 不正最小化原理としての諦観的平和主義 078
    第三節 内と外の二重基準は正義に内在するか 084
      1 内在的限定論 084
      2 分配的正義の境界としての社会的協働 086
      3 国家的強制固有の正当化原理としての正義 096

    第三章 国家体制の国際的正統性条件――人権と主権の再統合 113
    第一節 世界正義の問題としての国家の正統性 114
      1 実効支配還元論 114
      2 正義と正統性との切断論 118
      3 正義志向性としての正統性 122
        (1) 最小限人権論 
        (2) 正義概念基底化論 
    第二節 ロールズの「節度ある階層社会」承認論の問題性 136
      1 政治的リベラリズムへの転向と「諸人民の法」の理論 136
      2 「節度ある階層社会」承認論の論理的破綻と欺瞞性 141
      3 寛容拡大論の倒錯性 147
    第三節 国際的特権付与としての国家体制正統性承認の規範的前提条件 150
      1 主権と人権の内的結合――世界正義におけるその含意 150
      2 正統性承認条件としての市民的政治的人権 157
      3 正統性承認問題から世界経済正義問題へ 162

    第四章 世界経済の正義――世界貧困問題への視角 175
    第一節 世界分配正義へのロールズの背反 177
      1 政治的リベラリズムと「諸人民の法」におけるロールズの分配的正義論の変容 177
      2 世界分配正義と第八原則との距離 181
      3 ロールズの世界分配正義否定論における理論的破綻と思想的頽落 184
        (1) 実質的正当化論拠の脆弱性 
        (2) 不正黙認を交換する取引 
    第二節 世界分配正義と世界匡正正義の交錯――積極義務論と消極義務論との関係 193
      1 積極義務論から消極義務論への重心移動の理論的・実践的意義 193
      2 消極義務論は世界貧民への道徳的配慮に消極的か? 197
        (1) 道徳的最小限主義が包含する道徳的最大限 
        (2) 積極義務論の実質的消極性 
        (3) 「正義の間隙」論の問題性 
      3 消極義務論は積極義務論に依存するか? 209
        (1) 制度的加害是正論における基準線問題 
        (2) 消極義務論の前提としての道徳的原状設定 
    第三節 世界貧困問題の原因と解決策――「制度的加害」対「国民的自己責任」論争の再検討と複合的接近の視点 220
      1 「説明的ナショナリズム」の呪縛 222
      2 制度的加害立証責任論の虚と実 228
        (1) 自己欺瞞の罠 
        (2) 制度変更効果懐疑論の問題 
      3 世界貧困問題への複合的接近――原理の相補的結合と制度戦略の相補的結合 242
        (1) 複合的原理――積極的支援義務と制度的加害是正責任の相補的結合 
        (2) 複合的制度戦略――制度的障害除去・世界税・移民政策 

    第五章 戦争の正義――国際社会における武力行使の正当化可能性 273
    第一節 戦争の正義論の可能性と多形性 275
      1 戦争は正義の外にあるのか 275
      2 戦争の正義論の諸類型 279
    第二節 戦争の正義論の規範的査定と批判的再編 288
      1 積極的正戦論と無差別戦争観の破綻 288
      2 絶対平和主義の現実性と理想性の再考 293
      3 消極的正戦論の再定位 297
        (1) 予防戦争 
        (2) 人道的介入 
    第三節 国際的安全保障体制の正統性条件 307
      1 たかが国連、されど国連 307
      2 一貫した実施可能性 313
      3 権力は義務付ける(Pouvoir oblige.) 322

    第六章 世界統治構造――覇権なき世界秩序形成はいかにして可能か 331
    第一節 グローバル化の両価性 333
      1 世界秩序形成主体の多様化による主権国家システム侵食が意味するもの 333
      2 グローバルな価値言説の両価性 344
    第二節 世界秩序形成における超国家的権力集中と脱国家的権力分散の問題 350
      1 なぜ世界政府は「専制の極限形態」なのか 351
        (1) 離脱不能性 
        (2) 民主制欠損の巨大性と不可避性 
        (3) 覇権的・階層的支配の拡大再生産 
      2 多極的地域主義の陥穽 358
        (1) 地域内問題――民主性欠損の深刻性 
        (2) 地域間問題――地域間紛争管理の困難性 
      3 世界市民社会の可能性と限界 365
        (1)  脱国家的権力分散の可能性 
        (2)  市民的公共圏に潜む覇権性 
    第三節 〈諸国家のムラ〉をめざして 370
      1 主権国家システムの再定義と再評価 370
        (1) 主権と人権の共起源的結合 
        (2) 人権の制度的性格と「強い国家」の必要性 
      2 〈諸国家のムラ〉としての主権国家システム 375
        (1) 代替的世界秩序構想としての〈諸国家のムラ〉 
        (2) ブルの「無政府社会」論との対比 

    あとがき(二〇一二年九月吉日 東海の小島の上を飛び渡る鳥は知らずや人界の無明 井上達夫) [386-390]
    引用文献一覧 [i-viii]

  • 国内的な文脈で語られることが多い「正義」が、グローバルなレベルでも妥当するのかということについて規範的な議論を展開する。最初から最後まで、とても参考になる議論ばかりである。ただ、気になったところがあるので、ここで一つだけ書いておきたい。
    最終的に井上達夫が提出する「諸国家のムラ」構想における「諸国家」は、互酬性ネットワークから外れると経済的に自足できないために、ムラ八分にされるというサンクションが機能する(脆弱性の共有)ことが前提とされていたが、これが現実の諸国家を反映しているとはどうしても思えない。
    さしずめロールズの原初状態のように、そこから何らかの正義原理を導出する正当化論拠として「諸国家のムラ」構想が用いられるならば納得できるが、現実の国境、人口、文化、文明から考えて、互酬性ナシで経済的に自足し得る国家というのはいくつか存在すると考える。とすると、この「諸国家」というのは、ロールズに対する一般的な批判である「負荷なき自我」とパラレルな、「負荷なき国家」とも言うべき、全く新しい国家枠組みではないのだろうか。
    「本来国家とは『諸国家のムラ』のような在り方が望ましく…」というように(ルソーの自然状態観のような)、「諸国家のムラ」構想を原初状態ないし自然状態としての構想として存立し、そこから現実の国家状況にも適合する正義原理を導出する、という順番ならわかる。
    しかし、これこそがまさに目指されるべき国家構想であり、欧米の列強国にあっては民主的プロセスを経て内部変革する他ない、というのは説得力に欠けるような気がする。

  • 何が正義であるかは、国内と国外では異なるという問題意識から、世界正義(国際社会における正義)を論じた本。論じられているテーマは、メタ世界正義論、国家体制の正統性について、世界経済の正義、正戦論、世界秩序である。
    本書は 、各問題の根底にある哲学的な議論を提供し、筆者独自の見解を見出しつつ、議論や見解を踏まえた提案をしている。しかし、哲学的議論そのものが難解であること、用語がとっつきにくく、さらには筆者の文体がかなり読みづらいことから、議論の詳細を追うのは骨の折れる作業である。
    哲学的に正しいとされる解決策を本書では提示しているが、それの実現可能性はどうか、そもそも、正義にかなう解決策であっても、それが最善の結果を生むのかということについては最後まで疑問に残った。

著者プロフィール

東京大学名誉教授

「2023年 『法と哲学 第9号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

井上達夫の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×