社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480015761

感想・レビュー・書評

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  • 社会心理学と聞いて心理学の一部門というくらいにしか考えていなかったけれど、社会学や哲学にも造詣が深い著者の目線からの話が全体像を把握しやすかった。
    volumeも多く読むのに時間がかかったけれど、どの章もとても内容の濃いものばかりで、改めて読み返したいと思うほどだった。

    読み終わって改めて感じたことは、世の中を一つの真理で説明することはできないと。多様性や自由が大事だというけれど、社会で揺るがない普遍的価値があるとすればそれはもう閉ざされた社会になってしまう。
    開かれた社会というのはあらゆる法律ルール道徳、いずれにおいても変わることのない絶対的なものは存在しない。全ては相対化されたものに過ぎないことを受け入れることが大切なのだろう。

  • HONZや出口治明さん、Amazonでも絶賛されていて、比較的時間がある夏休みに読んでみた。大学講義レベルとまではいかないのだろうが、しっかり考えながら読まないと理解できない。

    社会と心理の密接な関わりを研究するのが社会心理学。社会現象を説明するための心理学的な考察、社会と心理の相互作用、などが紹介されている。

    次の項目が興味深かった。
    ●思考実験の手法、考え方
    ●明治の開国、そして第二次世界大戦の敗戦後、すごい勢いで西洋化、西洋崇拝した理由の考察。
    ●民主主義の格差、それを受け入れる心理。
    ●差別の心理は、同質性の問題。

  • (社会)心理学の理論をカタログ的に紹介するのではなく、社会心理学はどうあるべきかを中心軸として、行動主義〜認知不協和理論〜少数派の全体への影響の仕方を題材に、論の立て方、実証の歴史をたどるような本。
    少数派の影響が、無意識下で確実に現れる(モスコヴィッシ)というのは勉強になった。

  • なかなか内容が入ってこなかったので超流し読み。評価無し。
    アイヒマン実験と、囚人看守実験、救助/通報行動と居合わせた人数の関係性から見る責任回避行動実験あたりが印象に残りました。
    第12講の生物と社会の本質的な特徴は同一性の維持と変化であるとしながら、変化も同一性も矛盾しながら共存しているのは、どちらも虚構だからではないか(テセウスの舟のような心理現象)という考え方も面白く感じた。
    ※日本人は100年程度で総入れ替えされるのに日本人という同一性を保つという考え方は心理現実とも考えられる。

  •  過去の遺産は宝の山です。もっと本を読めと心理学部の学生に言うと、また宿題かと嫌な顔をする。しかし、それは勘違いです。自分の頭で考えることは大切ですが、無からアイデアは生まれない。カントやヴィトゲンシュタインのように難解な哲学書でっもm同じ内容を自分で書くことに比べれば、読んで理解するのは、はるかに簡単です。(p.40)

     哲学や人文・社会科学では、答えよりも問いの立て方、つまり考え方自体を学びます。法学・語学・経営学などの実学を除けば、文科系学問の生活にほとんど役立ちません。しかし、これは悲観論ではない。人間の世界は謎ばかりです。それなのに性急な答えを無理に求めると、問いが小さくなってしまう。(p.41)

     良識と呼ばれる最も執拗な偏見を、どうしたら打破できるか。なるほどと感心する考えや、これは学ぶべき点だと納得される長所は誰でも受け入れられる。しかし自分に大切な価値観、例えば正義や平等の観念あるいは性タブーに関して、明らかにまちがいだと思われる信念・習慣にどこまで虚心に、そして真摯にぶつかれるか。自己のアイデンティティが崩壊する恐怖に抗して、信ずる世界観をどこまで相対化できるか。(p.44)

     科学者たちが合意する理論にしたがって適切な実験方法が定められ、実験機器が出す結果の意味が解釈される。この解釈以外に事実は存在しない。観察された事象が世界の真実の姿なのかどうかを知る術は、我々人間には閉ざされている。科学の成果が信じられるのは、この分野で事実が生み出される手続きが信頼されるからです。(p.50)

     社会状況に応じて人間行動は、どのようにも変わる。悪人だから犯罪を為すのではない。確かに、すんでのところで犯罪行為を踏み止まる者もいれば、一線を越えて罪を犯し、投獄される者もいる。同じ社会環境の下で育っても、ある者は人を殺し、他の者はそうしない。しかしそれは犯罪者とそうでない者とを分け隔てる何かが各人の心の奥底にあるからではない。因果関係が逆です。(pp.74-75)

     意志は個人の心理状態でもなければ、脳や身体あるいは外部空間のどこかに位置付けられる実体でもない。意志とは、ある身体運動を出来事ではなく、行為だとする判断そのものです。人間存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれるのです。(p.126)

     意志が行動を決めると我々は信じますが、実は因果関係が逆です。外界の力により行動が引き起こされ、その後に、発露した行動に合致する意志が形成される。そのため意志と行動の隔たりに我々は気づかない。つまり人間は合理的動物ではなく、合理化する動物である。これがフェスティンガーの答えです。(p.162)

     周囲から影響を受け、考えが変わり、その結果として行動に変化が生ずると我々は信じている。したがって社会環境が行使する影響の事実を認めながらも、人間は主体的存在であり、意識が行動を司るという自律的人間像が踏襲されている。しかしフェスティンガーはこの人間観を覆しました。社会の圧力が行動を引き起こし、その後に、行動を正当化するために意識内容を適応させるという逆の発想を提示しました。(中略)社会の中で自分の置かれた状況に応じた思考を人間は持つ。つまり認知不協和理論は社会構造の再生産プロセスを説明する心理学理論です。(p.192)

     人間は常に他者と自分を比較しながら生きている。そして比較は必然的に優劣をつける。『広辞苑』で「欲望」を引くと「不足を感じてこれを満たそうと望む心」と説明されています。問題は客観的な欠如ではない。恋愛の霊がわかりやすいでしょう。美しい人に出会うだけでは恋愛感情は必ずしも生まれない。最初は気にもとめていないのに、その人に注目するライバルを身近に感じた時、にわかにその人を独り占めしたくなる。ライバル関係の導入により、相手の絶対価値が社会での相対価値に変換される。(p.203)

     同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり、給料が少なかったりしても、それが意地悪な上司の不当な査定のせいならば、自尊心は保たれる。格差の基準が正当ではないと信ずるからこそ、人間は劣等感に苛まれないで住む。正しい社会ほど恐ろしいものはありません。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界です。(p.216)

     母親が悟りを開いたのは、生きとし生けるものには必ず死が訪れるという事実を知ったからではない。そんなことは初めから彼女にもわかっています。事実から革新げの論理飛躍がそこにはある。子供の死に際して、子供を復活させようとする努力そのものが、母親の苦しみの原因でした。つまり求めている「解決」こそが、まさに彼女の問題だった。その「解決」を放棄した時、同時に彼女は問題から解放され、救われます。メタレベルに視野を広げて初めて問題の根が見える。(p.302)
     判断の力は、想像の中で他者と取り持つ同意に支えられる。そこで生ずる思考のプロセスは、理性的推論の場合のような、私と私自身との対話ではない。私がたった独りで決断しなければならない場合でも、それは常に、そして先ず何よりも、後ほど同意しなければならない他者とのコミュニケーションである。この想像上の同意なしに、判断の正しさは得られない。(ハンナ・アーレント:p.303)

     慣れ親しんだ思考枠から脱するためには、研究対象だけ見ていても駄目です。対象を見つめる人間の世界観や生き方が変わる必要がある。研究の対象が外部にあって、それを主体が眺めるという受動的な関係ではない。研究が進むにつれて自己変革がなされ、それがひるがえって対象の解釈を変化させる相互作用として研究活動はあるべきでしょう。(p.350)

     権威と権力は異なる原理に支えられます。合理的思考から生まれるのは権力であり、権威ではない。権威は、ある意味で信仰の産物です。フランスの哲学者パスカルは言う。
     方の依拠するところをよく調べようとする者は、法がはなはだ頼りなく、またいい加減であることに気づくだろう。国家に背き、国家を覆す術は、既成の習慣をその起源にまで遡って調べ、その習慣が何ら権威や正義に支えられていない事実を示して習慣を揺さぶることにある。(p.365)

    高橋和巳『邪宗門』:人の解決を盗むのはやさしい。カントがどう言ったかヘーゲルがどう言ったか、博引旁証の才は山といよう。思想とはなにか思惟とはなにか、それぞれの哲学者の言葉を引用して、それぞれに応えよう。だが、「思うとは自分のどたまで思うこと」ということを日本人はまず肝に銘じねばならぬ。でなければ日本人はかつて中国に内面的に従属し、今またヨーロッパに追従するように、永遠に利口な猿となりはてるであろう。(p.389)

  • 社会心理学を切り口にしているが、これは「人間とは何か」、「社会とは何か」について、従来拠り所とされてきた「常識」を覆し、筆者独自の視点からそれらの問いに答えた稀有の書である。
    あまりに扱われているコンテンツが豊富過ぎて、一読しただけでは消化不良であった。何度も読み返しながら、自分の思考を深める機会にしたい。

  • ・ 実験は発見を可能にする技術であり、証明するための道具ではない
    ・ 子どもが夜泣きで健康を崩すと、フランスの小児科医は子どもにではなく、親に睡眠薬を与えます。なぜでしょうか。夜泣きのために親が眠れずイライラする。すると親のストレスを敏感に子どもが感じ取り、夜泣きする。そこでまた親は眠れず、ストレスが強くなるという悪循環に陥ります。だから、この悪循環を断ち切ればよい。睡眠剤をもらった親が熟睡してストレスが減れば、子どもに対する態度が変化し、子どもも安心して寝付きがよくなる。
    ・ 居合わせる人の数が多いほど、かえって救助行動が起こりにくい。自分がしなくてもほかの人がやるだろうと安心すると責任感が希薄になり、犯罪を阻止したり救助の手を差し伸べる気持ちが鈍る。
    ・ フロイト理論における無意識やエスは自我とは別の存在者であり、我々の知らないところで我々を操る他社です。このように常識的な意味にすり替えられてしまえば、無意識はもはや既成の世界観を脅かす危険な存在ではなくなる。なれたイメージにいったん変換・解釈された後に、新しい情報・経験は既存の世界観・記憶に取り入れられていきます。
    ・ 態度概念と行動は必ずしも相関は高くない
    ・ 被験者は選択の「理由」を誠実に「分析」して答えました。自らがとった行動の原因が実際には分からないにもかかわらず、我々はもっともらしい理由を無意識的にねつ造するのです。自らを納得させるために妥当な「理由」を常識と照らし合わせて見つけるのです。
    ・ 個人をターゲットにするのではなく、集団全体の社会規範を変化させないと影響力は長続きしない。各人を別々に考えるのではなく、集団に属す人々の相互関係を考慮する必要があります。
    ・ 預言の失敗を機に精力的な布教活動が始まる。信者を増やせば、教団の進行を指示する人の数が増加し、認知不協和の低減が図れるからです。信者増加の事実は、とりもなおさず、進行内容が正しい証拠です。
    ・ 「いやならいいですよ。強制する気はありません」といわれると、本当は外的強制力が原因で引き出された行為であるのに、その事実が隠蔽され、あたかも自ら選び取った行為だと錯覚するのです。
    ・ 何らかの行為を行った後で、「なぜこのような行動をとったのか」と自問するときに、個人主義者ほど自らの心の内部に原因があったのだろうと内省し、自らの行動に強い責任を感じやすい。そのため行動と意識の間の矛盾を緩和しようと自らの意見を無意識に変更する
    ・ いったん決断して行為を始めると、そのあとに考えを変えるのは想像以上に難しい。(インセンティブが変わっても行動は続ける)
    ・ 境界が曖昧になればなるほど、境界を保つために差異化のベクトルが、より強く作用する様子が分かります。人種差別は異質性の問題ではない。その反対に同質性の問題です。差異という与件を原因とするのではなく、同室の場に力ずくで差異をねつ造する運動のことなのです。
    ・ 同期に入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり、給料が少なかったりしても、それが意地悪な上司の不当な査定のせいならば、自尊心は保たれる。格差の基準が政党ではないと信ずるからこそ、人間は劣等感に苛まれないで住む。正しい社会ほど恐ろしい物はありません。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界です。
    ・ 合理的な個人の誠心も集団に取り込まれると変質し、原始状態に戻る。感情に踊らされ。無意識の働きにより各人は集団にとけ込み、主体性を失う。集団内の個人は自立性をなくし、集団全体がひとつの精神と化す。
    ・ 人間は安定した認知環境を必要とする(シェリフ)。だから大将が曖昧なとき、不安定な状態を脱するために心理が変化すると考えました。
    ・ 弟子(少数は影響減)の主張を退けておきながらも無意識的には影響を受けており、後になってその効果が現れたのです。影響減は忘れられ、影響内容のみが受容される。まるで時限爆弾か、一定の潜伏期間を経て発病するウィルスのようです。影響減が少数派だと、本当は他社から受けた影響の結果なのに、自らが選択した判断であるかのごとく錯覚する場合が少なくありません。
    ・ 悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのです。
    ・ 単語の存在にされ気づかないほど短時間だけ示す場合でも、つまり被験者は何かが見えたと意識しない場合でも単語の情報が働いて、最初の単語と意味が似ている単語が選ばれる。しかし最初の単語を示す時間をもう少し長くして、どんな言葉かはわからないが何かを見たのは確かだと感じるようになると、今度は意味のにた単語ではなく、形のにた単語が選ばれるようになる。
    ・ 何人かが同じ意見を表明する場合は、真実を反映しているのではと思い直す
    ・ 集団表象と集団におかれた個人の表象に区別すべきである
    ・ 恐怖の対象への同一化を通して自我を防衛するという精神分析学者アンナ・フロイトの「攻撃者への同一化理論」があります。子どもが幽霊のまねをしたり、しかる教師の表情や癖を模倣して生徒が自己防衛する例を取り上げ、攻撃の犠牲者から攻撃者へと変身して恐怖を乗り越えるといいます。
    ・ 人の交流という意味では日本社会は閉ざされている。しかし文化面から考えると、外の要素を自主的にまたどん欲に取り入れてきた。そういう意味で情報の流れから見ると、日本文化は外部に開かれている。
    ・ 間接的接触のおかげで外来情報がもとの文脈から切り離され、情報の具体的状況が無視されるので、日本社会の磁場作用を受けて意味内容が変化しやすい。
    ・ 情報源と直に接しないので異文化を押し付けられにくい。ある時代において、変えたら日本人でなくなってしまう感じのする本質的あるいは中心的価値もあれば、少々変化しても問題ない周辺的価値もある。変化が中心的価値に抵触すればするほど、日本人の抵抗は強くなる。それに対して、中心部と正面衝突しない形で周辺部から変化が導入される時はアイデンティティの聞きが生じない。周辺部が緩衝地帯の役割を果たします。
    ・ 慣れ親しんだ思考枠から脱するためには、研究対象だけ見ていてもダメです。対象を見つめる人間の世界観や生き方が変わる必要がある。研究の対象が外部にあって、それを主体が眺めるという受動的な関係ではない。
    ・ 他社が行使する強制力として法・道徳が意識されると、社会生活は円滑に営まれない。外部から行使される暴力としてではなく、内面化された規範として現れる必要があります。社会制度は人間が決めた慣習にすぎない。しかしその恣意性が人間自身に対して隠蔽されて初めて、社会強制力は自然な形で効果的に機能する。
    ・ 人間が作った秩序なのに、それがどの人間に対しても外在的な存在になる.共同体の誰にも、そして権力者にさえも手の届かない外部だからこそ、社会制度は安定する。誰にも自由にならない状態ができるおかげで社会秩序は、誰かが勝手にねつ造した物ではなく、普遍的価値を体現すると感じられる。人間自ら創り出しておきながら、人間自身にも手の届かない規則を作るというルソーが夢見た方式です。
    ・ 時間はなぜ過去に向かって流れないのだろう。それは過去はすべて決定されていて再現する必要がないからだ、というのが私の答えである。同様に未来が現時点で厳密に決定されているならば、わざわざやってみる必要はない。やってみなければわからないから時間が進むのである。

  • 『世界や歴史の根源的な恣意性あるいは虚構性を熟知していた点がその理由の一つだと思います。

    つまり世界に普遍的な真理はない、我々の目に映る真理は人間の相互作用が生み出すという世界観です。

    真理だから同意するのではない。悪い行為だから非難するのでもなければ、美しいから愛するのでもない。

    方向が逆です。同意に至るから真理のように映る。社会的に非難される行為を我々は悪と呼ぶ。そして愛するから美しいと形容する。共同体での相互作用が真・善・美を演出するのです。』

    世界の虚構性といかに向き合うか。奥深く、めちゃくちゃ面白い。

    ただ、自明と思われている世界の自明性を一枚一枚剥ぎ取ってしまい、そこには虚構性しか残らないことを明らかにしてしまった先に、何が待っているのだろうか。

  • 前半は研究などを交えて心理学を紹介している。ファーストアンドスローやhuman kindなどで読んだ内容が多いが説明が厚めでより理解か深まった。特に認知不協和はページがさかれている。終盤は日本人や日本文化について書かれていて良い観点がえられた。

  • 社会秩序の維持と変化について。実験結果を使いながら理論を裏付け、それを社会現象に敷衍していく。社会秩序の維持について。フェスティンガーの認知不協和理論は、自分の意志と矛盾する行動を取ったときに行動を正当化することでその不協和を軽減するというもの。これを民主主義社会に当てはめれば、この社外では平等が建前になっている。だが実際に格差は存在する。したがって社会的弱者は不公平を糾弾する。民主主義社会は建前と現実の乖離の正当化を常に迫られる不安定なシステムだと筆者は言う。
    変化について。フェスティンガーらは変化は多数派によってもたらされ、少数派は社会規範に従うか社会から排除されるしかないと考えていた。これを批判したのがモスコヴィッシである。少数派はいわば触媒となり、多数派の考えを変えていくと考えた。
    最後に筆者はなぜ個人や社会が同一性を維持しつつ、変化するという矛盾を両立させられるのかを考察する。我々は対象が不変だと信じるからこそ、同一だという錯覚をする。実際のところ、対象は非常に滑らかに、連続的に変化している。

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著者プロフィール

小坂井敏晶(こざかい・としあき):1956年愛知県生まれ。1994年フランス国立社会科学高等研究院修了。現在、パリ第八大学心理学部准教授。著者に『増補 民族という虚構』『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫)、『人が人を裁くということ』(岩波新書)、『社会心理学講義』(筑摩選書)、『答えのない世界を生きる』(祥伝社)、『神の亡霊』(東京大学出版会)など。

「2021年 『格差という虚構』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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