くるいきちがい考 (ちくま文庫 な 2-2)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 16
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480020543

感想・レビュー・書評

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  • 狂っているかいないか、キチガイなのか普通なのかを決めるのは、それぞれの価値観から逸脱した部分が大きければ狂っているキチガイと決めつけられてしまう。平均や標準であることに縛られすぎているのではないか。
    不安を克服しない人たちが、やがて社会全体を狂わしてしまう。

  • さっくり終了。対話の形式は個人的にはちょい読みにくい。飛ばし読み泣かせ。上野千鶴子の解説が印象に残る。

  • 思索

  • おそらく、精神科医という仕事をやっていれば、一度は誰だって考えるに違いない。クルウということは一体どういうことを示しているのか。
    まずはクルッテイルというのはどういう時かというところから、スタートする。大体において、自分がクルッテイルではなく、世の中とか、他人がクルッテイルということが考えられた。
    次に、クルッテイルと考えるのは、どのような気持ちからくるものなのか、検討する。自分の知らない、未知のものに対して、ひとはクルッテイルという。なおかつ、それが危害を加えうると、恐怖が喚起されれば、余計にそうである。そういうものを集めて、クルッテイルと見なす。それが世のクルイを作り出す。
    常識がクルイを作り出す。常識を疑うというけれど、常識とは、最初からクルッタものなのである。常識自体、クルイの常識である。
    生きているかぎり、この、常識というところから抜け出ることはできない。どんなクルイであっても、それもまた、ひとつの常識の中に包含されてしまう。真の意味で発狂するということがどうしてもできないのである。
    精神科医の仕事とは、クルッタものを見なすことではなく、病という見立ての中にそのひとを置いて考えてみることである。いわゆる、病気というものを想定することで、説明がつくのであれば、その病気に有効な手立てが使える。それはクルッタことを治すことを必ずしも意味していない。
    しかし、精神科医の想定する病気というものが、これまた厄介な存在なのである。何を病と見なすのか。それは見立てのできる病なのか。これが難しいのである。
    現在の多くの精神病の見立ては、症状から推定される。こういう症状が出てればこういう病気、という操作的診断基準。しかし、これは何も見立てられない。これはただのカテゴライズであって、結局、その症状が何から生じているのか、見立てにならないのである。
    医学の多くは、原因を取り除くことで症状の改善を試みる。器質的なものならそれを取り除く。心理的なものなら、その刺激を与えないようにする。認知の仕方が誤っているのなら、その認知をなくさせる。
    だが、精神病の多くが、その原因がまったくといっていいほどつかめないのだ。確かに遺伝もあるが必ずしもそうとは言い切れない。環境的なストレスもあるが同じ環境に置かれても発狂するひともいれば、しないひともいる。
    そもそもクルッテイルという事態そのものが、原因なく生じるからこそ、クルッテイルものなのであるから、原因がわかっていたら、誰もそれをクルイとは言わないはずである。
    ゆえに、精神病に関して、見立てを持とうとすること自体が難しいことなのである。
    そこで、彼は、原因がひとつではない、という多元論を採用しているのである。別にそう考えるのは構わない。だが、そのように考える時、必ず原因相互の関連という問題に陥らざるを得ないのである。独立に影響しあっているのなら、それらをすべて潰せば病は生じない。だが、そううまくいっていないのが現実である。
    独立していないのであれば、原因相互はどのように関連しているのか、考えなければならない。薬物を用いて不安がなくなり、脅迫行動が減ったという。薬物が働きかけるのは物質的身体であるから、そうすると、身体とこの精神のつながりというものを別のもので媒介しないといけない。
    彼は気付かなかったのか。精神科医を訪れるのは、葛藤を抱えたひとたちであるというのなら、そこにしか病気は存在しえないということに。真に病気であることが、ただの見なしに過ぎないというのであれば、病気だと考えている人間のそこにしかないということに。要は病気であると思う人間が、それは病気ではないと思ってしまえば、病気はなくなってしまうはずなのだ。
    まだこのころの彼はそのことを考えるに至っていない。だが、やがて彼は知る。集団ヒステリーを神への祈りへと変えたあの宗教が、目指しているのはまさにこのことであったということに。

  • アル中の解決は、葛藤を解決。やめれば解決。
    病気が葛藤の原因なら治せば解決。
    正常と異常。典型は異常にしかない。正常とは、異常でないこと。

  • 良い

  • 相対主義のすすめ。世の中あらゆることは相対的関係性でなりたっていることの入門書。絶対正しいことなんて、にゃい!

  • クルッテイル、クルッテイナイについて考える事で
    それらを生んでいる「常識」とは何か問い直そうという本。

    『信じることと、疑うことと』もそうだったけど、
    脱力系で皮肉屋な文章が良い。


    自分のものさしを持つ人間は、人は人、自分は自分と思う。
    その人間は、自分に直接被害がおよぶようなとき以外、他人の行動に寛容でいられる。

    反対に

    平均的な枠の中に自分を押し込めた人間が持つのは、平均のものさし。
    平均のものさしを持ち続けるには、つねに他人のものさしに気をつかっていなければならない。
    だから、世間体というものを、気にする。
    彼らにとって、平均からはずれた人間は、自分のたよりにしているものさしを動かしてしまう危険がある人間。
    自分の土台をおびやかす存在に対して激しい敵意を向けることさえある。


    途中で精神分析の話が掘り下げられていくところはちょっと難しかったけど、
    精神科医と、素人のF君というふたりの対話形式で書かれていて読みやすい。
    ちょくちょく挿まれる正常、異常に関するエピソードも分かりやすくて面白い。


    本当に本当の自分のなかに、社会で常識とされている枠からはずれる部分があるのは当然で、
    それが狂うということであるならば、だれでもどこか狂いかけている。
    そんな部分があるから人間は面白いと思います。
    結構共感できたな。

  • 岩舩先生のオススメ

  • 精神科のお医者さんのこの方。確か、長らくアルコール依存症の治療にあたられていたはず。
    (北杜夫の友だちでもあったな、確か)

    これは、「くるい」「きちがい」とは何か、何が「正常」で何が「異常」なのか、に、ついての柔らかい論考。

    考え方も柔軟なら、筆も柔軟なので、読んでて楽しい。

    医療エッセイも幾つか出しているけれど、この方の書く診察室の風景、患者さんたちのエピソードは、どれも暖かいユーモアに包まれていて、オリバー・サックスかそれ以上。

  • 飄々と語られる「くるい・きちがい」
    ずいぶん古い本だけど、語られる人たちが「精神障害者の方」について語られるものよりも、ずっと当たり前に人として扱われている。

  • 正常と異常の問題を取り上げ、社会の常識とされているものに疑念を投げかける。ヒトと社会のクルイを判断する難しさ。

  • 正常と異常の境目についてのお話。結論は、精神科は頼りないのでできるだけ自分で何とかしようという本。著者は精神科医。はぐらかされた感は若干あるけれどそれなりに説得力あり。

  • 正常と異常は、何が決めるのか。常識ってなんでしょうね。一つの問いをたて、それを丁寧にほぐし言葉を積み重ねていくということを中学生の私は、このひとから学んだのだった。今でも、それは私の思考にとって大切な習慣となっている。でも、初めての出会いは、なぜか「T・N君の伝記」。誰だTN君って思いながら読んだ小6の冬。だいぶ経ってから、へー中江兆民のことかーとわかったが、すでに内容は覚えていなかったよね。

  • なだいなだ。スペイン語で「無そして無」

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著者プロフィール

なだいなだ:1929-2013年。東京生まれ。精神科医、作家。フランス留学後、東京武蔵野病院などを経て、国立療養所久里浜病院のアルコール依存治療専門病棟に勤務。1965年、『パパのおくりもの』で作家デビュー。著書に『TN君の伝記』『くるいきちがい考』『心の底をのぞいたら』『こころの底に見えたもの』『ふり返る勇気』などがある。

「2023年 『娘の学校』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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