ことばが劈かれるとき (ちくま文庫 た 7-1)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (309ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480021786

感想・レビュー・書評

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  • 言葉とは、意味を伝える「記号」ではなく、他者に語りかける身体的な振る舞いであるというのが、本書における著者の中心的な主張です。難聴に苦しんだ少年時代から、演劇教室のなかで出会った人びととの交流など、著者自身が体験したさまざまなエピソードを通して、こうした主張が語られています。

    現在では、齋藤孝が著者の考えに近い身体論を展開しており、ともに哲学的な議論に傾きすぎず、具体的な事例を通して、身体による知の諸相に分析のメスを入れています。ただし、「型」というしかたで身体知をなじませることに重点を置く齋藤にくらべると、「ことばが劈かれるとき」という本書のタイトルが示しているように、身体が新しい知のフェーズに開かれる瞬間をあざやかに切りとっているところに、著者のねらいがあるように感じました。

  • 著者の竹内敏晴(1925~2009年)は、「竹内レッスン」と呼ばれる演技レッスンを基にした「からだとことば」のワークショップを主宰した演出家。
    本書は、生後間もなく難聴になり、16歳になるまで十分に耳の聞こえなかった著者が、聴力の回復に伴って「ことば」を習得していった過程と、そうした自らの経験を基に作り上げた「竹内レッスン」の様子や教育の現場との関わりについて綴った自伝的作品である(1975年出版、1988年文庫化)。
    私が印象に残ったのは以下のようなフレーズである。
    (俳優の教育において世界的に影響を与えたロシアのスタニフラフスキーに言及して)「かれの「ことば」についての考えを一言で言えば、「ことばは行動である」ということになるだろう。ことばには、意見の表明もあれば、感情の隠蔽もある、命令もあれば哀訴もある。だが、基本的には対象(他者)に働きかけ、その行動、あるいはイメージとか意見とかを含めてもいいが、それらを変えることが、ことばの働きだ」
    (野口三千三とメルロ=ポンティに言及して)「「からだ」とは、意識(精神)に指揮使役される肉体ということではない。からだとは世界内存在としての自己そのもの、一個の人間全体であり、意識とはからだ全体の働きの一部の謂いにすぎない。からだとは行動する主体であり、同時に働きかけられる客体である両義的な存在である。心とか精神を肉体と分けて考える二元論は批判され、超えられねばならぬ」
    「人間は考えたことをことばに移すのではない。考えるという行為はことばをもってする。つまりことばが見出されたとき思考は成立するのだ。新しいことばの組み合わせが生まれたときに人は考えたということになる」
    「こえとかことばを<からだ>の動きと別々に考えることはできない。自分の<からだ>の中でその人に対して何か働きかけようという「気」が起こったときに、すっと手が動く、こえが出てゆき、相手にふれる。そのとき、相手のからだの内に、こちらの動きに対応してある動き(自己-触発)が芽生える、その体験を、ことばを理解したという」
    著者の特殊な経験に加えて、生来の鋭敏な感覚と思考により、「からだとことば」について多くの示唆を与えてくれる。
    (2006年4月了)

  • 少し前の本なので、少し読みにくいところもあるが、特に後半からが個人的に面白かった。
    体、姿勢、声、そしてその人の性格は全て繋がっていて、ことばも体の一部である、というのは納得だし発見。
    演劇だけじゃなくて万人に通ずる本だと思う。

  • 「おかね、おかね、どうしてそんなに欲しいのかしら」とつうが嘆くセリフがある。その、「おかね、おかね」の言い方が少し違うような気がすると私は言った。山本さんは不思議そうな顔を少し傾けて黙って見ている。ーー聞いていると、おかねとはどういうねうちのあるものか知っていた上で、どうしてそんなにたくさん欲しいのかしらと言っているように聞こえます。しかし、「つう」はおかねの機能をまったく知らない、ただピカピカ光る硬いものとしてしか感じていないのだから、この場合「おかね」という名詞は意味を含まない記号としての音でしかないのじゃないか。だからその言い方はただ、オカネオカネという、非常に単調なくり返しになるべきではないか、こんな気がするんですけれども、どうなんでしょうか。ーー山本さんは、一瞬、ハッとしたように顔を動かして黙っていてから、「そうですね」と顎を引くようにして返事した。私は嬉しかった。やっと「聞く」能力がある線を超えたという実感がからだをほてらせた。

     冗談というやつは、とてもありえないようなナンセンスなこと、野放図なことを、ポンと投げかけるから成り立つ。ところが、やっとのおもいでことばを口にしている身にしてみれば、言葉の一語一語はひどく重く、緊張の結果である。とても、無責任なことは口に出せない。「なあみんな、こいつだけにゃ食わせねえことにしようぜ」なんて程度の軽い冗談でも、まじめに考えれば実現不可能なことである。それを口にすることは、ウソをつくことだ、という感じなのだ。

     演技とは、芝居をうまくやるための技術、ととるのが通常の理解だろうが、そのような配慮は全く私の頭から消えていた。「レッスンによって人間の何が変わりうるか、どのような可能性が劈かれるか」、ひいては「人間にとって演技レッスンとは何か」、これしか私の関心はなかった。
     稽古場は(最上の場合)るつぼのようなものだ。そこに立つものはもはや日常の自分ではない。そこは何をやってもかまわぬ場である。日常の次元では抑圧されているもの、意識的に静止してあるもの、それらすべてをとり払って、一つの見知らぬ自分に出会うこと。これが演技レッスンの意味であろう。

     ことばが意味伝達のための道具であるとする考え方は、言語表現より思考が先行しており、それが本質であるという判断が前提になっている。だが人間は考えたことをことばに移すのではない。考えるという行為はことばをもってする。つまりことばが見出されたとき思考は成立するのだ。新しいことばの組み合わせが生まれたときに人は考えたということになる。とすれば、新劇における通常の考え方である「思想を表現する」に対して、逆に、「表現が思想なのだ」という姿勢を対置せねばなるまい。

     普通私たちは日常生活を、間違いない現実だと思っており、そこで生きている私たちのからだこそ正常に働いていると思っている。だがはたしてそうだろうか? という疑いをこの現象は露わにする。
    (一)日常生活はさまざまな約束事(fiction)によって組み立てられている。
     夫が妻を呼ぶーー「オイ、アレとってくれ」で通じるのはいちばん簡単な例だろうが、この場合ことばは一つの簡略化されたサインである。日常の約束事としてのことばの基本性格は便利さにあり、コミュニケーションは、その仮構された約束事の網目を反射的にゆききするにとどまる。人と人とが全身的にふれているかどうかは、実は捨象されているのだ。会社の上役とOL、テレビと視聴者、はては教師と生徒でさえ、みなそうである。
     だから、そこへ水俣病患者とか、日常的約束事の構図を破るものが突入すると、まったくことばは役立たなくなる。そのときはじめて、コミュニケーションのための何かを探り始めねばならなくなるわけだ。
     今更の言い方だが、現代の若者の一見とっぴな表現行動は日常性というフィクションを破って、全身的なコミュニケーションをとり返そうとする試みなのである。
     その発展として
    (二)舞台の世界がある。演劇は普通フィクションの世界、つくりものの世界と言われる。自由に約束事を創り出す。二時間が終われば消えてしまう約束事を。
     だから、日常生活=現実に対して舞台の生活は嘘であり、幻であると言われるのだが、しかし、それが約束事の上に成り立っているという次元で言われるのなら、実は両者とも、同じく架空のいのち、仮の生にすぎない。演劇は、日常のルールにのっとった行動を、新しく組み立てた出来事によってぶちこわし、その裂けめからなまなましく奔騰してくるのもを突きつける装置なのだ。そこに、演劇の世界こそ真実の生であり、現実こそウソだという論議が成り立つことになる。
     からだがからだに、非日常の、目新しいふれ方をする。その情報が相手のからだに伝わり、すばやくからだの中で選ばれ、増幅され、予測できないからだの変化を呼びさまして、反応を返してゆく。その目覚ましさが見る人の日常埋もれているからだを目覚めさせるのだ。
     演技とは、日常生活の約束事ーー科学的思惟や管理社会の常識ーーによって疎外されている「生きられる世界」ーー根源的体験ーーをとりもどす試みである、と言えるだろう。別の言い方で言えば、からだを根源的にとり返す試みだ。私はそれを「からだを劈く」と呼びたい。

  • 22.02.01

  • 忘れられない竹内先生の講義(レッスン)。
    この本はその講義の課題図書でした。

    問い続けるという生き方があることを知りました。

  • 言葉は行動である、に惹かれた。そう考えると俺の言葉は誰かに語りかける力が弱くて、ただ自分の頭の中を明確化するために使われてるな、と思った。

  • 古い本ですが、印象深い本です。ブログに書いています。
    https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/201906270000/

  • ちょうどサックスを鳴らすため爆発的な呼気が必要なように、こごまってしまった身体が意思を自発的に伝えるには莫大なエネルギーを要すると思う。

    10メートル先の人、後方にいる人横にいる人に届く声、なんてこの本を読むまで考えたこともなかったなあ。

  • 演劇って今ここを生き切るための設定なのかも?
    グロトフスキ読まなきゃな!

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著者プロフィール

1925年、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、竹内演劇研究所を主宰。宮城教育大学、南山短期大学などで独自の人間教育に携わる。その後「からだとことばのレッスン」を創造・実践し現在に至る。著書に『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)、『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)、『からだ・演劇・教育』(岩波新書)、『癒える力』(晶文社)、『竹内レッスン』(春風社)、『声が生まれる』(中公新書)などがある。

「2007年 『生きることのレッスン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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