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この作品に関連する談話室の質問
この作品からのみんなの引用
みんなの感想・レビュー・書評
アダルト・チルドレンと宗教の関連性はもっと掘っていきたい。例えば八王子に創価学会があるのもその関係と言えるのだろうか?
15年後の今だから分かることもあったり。終わりなき日常という概念はイマイチ感得できなかったのだが、コミュニケーションを全面的に背負わされる環境というのはやはり卓見だったと。テレクラ、ブルセラ、援交という宮台の初期の仕事は、出会い系にSNSそしてツィッターという流れのなかで、読み返してみる価値があるのかないのかw
第1章 「オタク論・連赤論・二重組織論・邪宗論」はデタラメ
第2章 「さまよえる良心」がアブナイ
第3章「終わらない日常」はキツイ
第4章 コミュニケーション・スキルという知恵
僕らの生きている日常は決して終わりそうにない(それにたぶん、近々終わることはないと思う)。
そこから逃避することは各々の自由だが、それによって救われるかどうかは人それぞれである。しかし、逃避したくなる気持ちや、何らかの救いを求める想いは、多かれ少なかれ僕たちの中にあるのだろう。人がそんな心境にあるとき、社会(=私たち)はどんな反応を示すであろうか。「あの時代」を振り返るとともに自分を見つめ直すのにはよい本かもしれない、と思う。
「世界の終わり」というクソバンドにこの本を捧げたい。しかし311以降、この本が勧める「まったりと生きる生き方」はいよいよ無効になってしまったのだろうか。どうでもいいけど。
オウムを知るというより、オウム真理教の構成員の中でとりわけ人数の多かった、
新人類またはバブル世代が、どうしてこの「神秘主義」主体の宗教に惹かれてしまったのか。彼らの生まれ、育った時代背景の雰囲気がよく描かれている。
流行の宗教の背景には、かならず時代の持つ特有の雰囲気があり、
今でこそ、宗教学の流れでは、新しい「分類」にわけれられるオウムだが、
16年前の著作である本書は、まだ生々しさを残しながらも、適切な分析をしていると感じる。この時代に宗教にハマッってしまった人は多いのではないかと思う。
オウムに限らず、この世代を理解するのにはとても判りやすいと感じる。
☆が3つなのは、もう少し掘り下げた内容でも充分読み応えがあったとおもう、という残念票。
オウムの問題を切り口に、当時の社会を分析する。共同幻想が崩壊した後のどのように生きていくかを述べている。要所々々で挟まれるコラムは意味不明だけど、当時の空気をよくあらわしている・・・ように思える?
いまさらオウム真理教ですか?という印象を持つだろうけれども、いやいや、読む価値はある。「制服少女の選択」に続いて読んだので、目新しさはなかったし、あまりに世代論が出過ぎる気もするが、よい本。
自分自身の中にあるものも含めて、若者の感覚に近づくことができたように思う。
90年代を考える上でオウム外せない。そしてオウムを含む90年代論を考える上でこの本を欠かすことは出来ない。終わりなき日常をまったりと生きることは許されなかったわけだが、そう断言させる空気が90年代にはあった、ということがわかるだけでもこの本にはとても意味がある。
オウムのような新興宗教にハマる人たちは、いったい何に惹かれているのか、自己啓発やヒーリングといったブームも根底は同じであり、終わりなき日常を生きる知恵を持たないものが引き寄せられる。
70~90年代のSFの変遷などと絡めた内容は、10年前の著作ながら、
今でも十分な説得力をもっていると思う。
現在のスピリチュアルブームも同じように理解できそうだ。
これまた納得できる。
コミュニケーションする際の大きな前提(宗教、共同体)が、弱まっている現代。コミュニケーションは難しくなり、そのスキルの差が開いていく。
どう生きれば良いのか。
「脱力」がひとつのキーワードになっていた。
確かに、深刻になる過ぎる人、真面目な人よりも、テキトーな人の方がコミュニケーションに長けていたりするもんな。
あとは時間はかかるが、相対的に分析、判断をしていくということ。これは納得の反面、非常に大変な作業だなと思った。。。
いまさらwwwですが読んでみたい。
「終わりなき日常」そうなんだよねー。そんな気分ですよ。
でも、その中を生きてゆかなければならないのであって。
世界は多分、変わらないんだと思っています。
時代の匂いがべったり張り付いている。だからこそ読んでおくべき一作。
◆「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードに、今最も活発な発言を続ける著者が、オウムと現代社会を分析する。社会が成熟し、幻想が共有されなくなった時代、人はそれぞれの物語を生きるようになっている。その後の事件、状況分析を加えたあとがきを新たに付す。
虚無的な思想に覆い尽くされた一冊。道徳や規範までも相対化してしまい、あまつさえそれを正当化するという点に、90年代以降の思潮を如実に反映していると言えよう。別の意味で興味深い内容だった。
終わりなき日常というモデルはまだ有効なのか。
じり貧の日本を耐える、または不感症に生きることも終わりなき日常と呼べるのか
最初から私には合わなかった。 「この人、一体何が言いたいんだろう…」と思いつつ読み続け、 最後の最後(p.183)で著者の目的が判明。 自分が悪いか世界全体が間違っているか、の二者択一から そこそこの自分とそこそこの世界に耐えていける様になる事を阻んだ各種装置(観念や制度)を、 徹底的に破壊し尽くす事…らしい。 しかし今回の「破壊」が、『「薄ぼけた自分」を抱えたまま生きろ!』と... 続きを読む »
高2の夏に初めて見た…井上嘉浩(オウム真理教最年少幹部)の中学校3年のころの詩が偶然載ってた…。
宮台さんの言うとおり、終わりなき日常の中で漠然と「正しいこと」を考えてたら、いたずらに逡巡して、迷走を繰り返すだけなのかもしれない。
人って学ばない。ただあまりにも可塑的なだけ。
厄介なことに、私の中にある宮台さんのイメージっていうのは彼の著作からではなくて、ゴー宣とかで小林よしのり氏が批判的に語ってたような宮台さん像が強固であって(ああ小林さんの漫画の持つ影響力・インパクトって、中高生にとって、でかかったんだなあ・・・って今更ながら思いますが・・・)宮台さんの著作にちゃんと目を通す度に、そんな自分を猛省しています。
私はこの『終わりなき日常を生きろ』が、連赤とオウムの比較を試みていることなんて、本開くまで全く知らなかったので、自分の勉強不足を恥じています。
一時期この言葉が自分の中の合い言葉になっていた時期があった。
「終わりなき日常を生きろ」
そうやって世界の端っこからものを見ている感じに憧れていた。
だけど、終わりなき日常はもう乗り越えた。
日常はそんなに、泣きたくなるほど空虚ではない。
日常は終わらない。
だけど「生きろ」というほどの未成年的な激しさを乗り越えた。あるいは乗り越えてしまった。
制服少女にいい本だ。
『そのような過剰な単純化や一般化は、実は、現実にはありえないような架空の条件を夢想することを抜きにしては、ありえないものだ。確かに、認識ににもコストがかかる。環境を認識するとき、できるだけ低いコストで認識したいというのは、理由のあることである。(中略)ところが、社会システムが複雑になればなるほど、そうした環境認識を前提にしてふるまうことは、自分や他人を危険にさらす確率を高めることになる。』
95年のオウム事件、今となっては相当古いテーマだなぁ、と思ってしまいがちだが、その内側にある、「反社会性から突き抜けた脱社会性」というテーゼは、現代においても用いることのできる図式であるように思う。
しかし、上祐とか、懐かしいな。
宮台氏の一連の著作は読んでいたのでこれはいらなかったかな。
「まったり革命」を叫んでたころの意図が読み取れる。
今後、女子高生は一部メンヘラ化したらしい。

宮台先生のM2で宮台教に入信
触発されて、これまでの読書で引用が多かった(批判的な引用)この本を読んだ。
副題の通りオオム真理教・サリン事件の社会学的考察
時代的な系譜学としてサリン事件を位...





