サラサーテの盤―内田百けん集成〈4〉 (ちくま文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (325ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480037640

感想・レビュー・書評

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  • 『サラサーテの盤』は1948年に発表された内田百閒の短編小説。とある一枚のレコードをめぐる怪異譚である。ジャンルとしては恐怖小説に属するのか、幻想小説と呼ぶべきなのか判然としない。オカルトのようでもあり、日常に潜む狂気のようでもあり、信頼できない語り手の紡ぐサイコサスペンスのようでもある。

    大正末期〜昭和初期の東京。風の強い夜、〈私〉の家を訪うのは亡き友人の妻であった。女はいつも決まった時刻に、夫が生前〈私〉に貸した遺品を返してもらいに来る。字引き、参考書、そしてサラサーテ自奏のツィゴイネルワイゼンのレコード。サラサーテの肉声が録音されている貴重品のレコードを、女が求めるに至った経緯とは…

    あからさまな超常現象は出てこないのだが、下手なホラーよりも不気味な物語だ。まず、登場人物の誰も彼もが信用ならない。〈私〉の妻だけは正気に見えるが、夫の連れ子を一人で育てているおふさも、夜な夜な死んだ父親と会話しているきみ子も、友人が死んだという割には妙に冷静な〈私〉も、みなどこか狂気を孕んでいるように見える。

    遺品をひとつずつ取りに来るおふさも不気味だが、ひとつずつしか返却しない〈私〉も相当奇妙だ。きみ子が亡き父と会話しているというのは事実なのか、おふさの妄想なのか。レコードの声は結局誰の声だったのか。きみ子が幼稚園に行って不在だというなら、なぜおふさは泣き崩れたのか。謎は何ひとつ解決されないまま物語は唐突に終わり、読者は置き去りにされる。

    描かれているのは非日常的な恐怖ではなく、日常そのものが融解してゆく恐怖である。自分の認識そのものが信用できなくなってゆく心細さである。ツィゴイネルワイゼンを知っている人は、その旋律を脳内で物語にオーバーラップさせてみてほしい。二倍増しで戦慄できること請けあいである。(表題作のみ読了)

  • 表題作は鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』の原作にもなった短編小説。映画を先に観ているので、どうしても中砂さんの顔が原田芳雄で浮かんでしまいます(苦笑)。

    余談ですが三島の解説がとても面白かった。百間の作品ってカテゴライズが難しいのではないかと思うのです。これって何なんだろうっていつも思います。例えば泉鏡花みたいに、背景や設定や登場人物やエピソードのどれをとっても「幻想的」としか呼びようのないものだとわかりやすいのですが、百間の書くものはものすごく日常的で、鏡花的耽美さから一番遠いところにありながら、紛れもなく現実よりは幻想の世界に近いところにある。その現実と非現実の境目というか、日常生活の中にふいに紛れ込む非日常的な光景というか、現実だと思い込んでいた世界がいつのまにか非現実のほうへシフトしていたその瞬間とか、その感覚をどう言い表していいものかわからないというのが正確なのかもしれません。しかも、それを登場人物自身は異常だと自覚していない、当たり前だとのように普通に受け止めているところが、眠っているあいだに見ている夢のような感触を読み手に与えるのだと思います。鮮やかな手腕だなあ…。憧れの文体です。

    「東京日記」「桃葉」「断章」「南山寿」「菊の雨」「柳検校の小閑」「葉蘭」「雲の脚」「枇杷の葉」「サラサーテの盤」「ゆうべの雲」「由比駅」「すきま風」「東海道刈谷駅」「神楽坂の虎」(解説:松浦寿輝/三島由紀夫)

  • ここに収録されている『東海道刈谷駅』は、友人の宮城道雄が列車から転落死したことを題材にしています。未だに本当の原因が分からない事故原因を、百閒は“死神のしわざ”と考え(←これが百閒クオリティー)、いかにして死神に殺されていったのか妄想力を働かせています。そこの部分の緊迫感と、後半部分で繰り広げられる、友人を悼む哀しい阿房列車の旅の対比とで、読ませる作品だと思います。

  • エッセイの時とはまた違った印象。読み易い、自然な美文であることは変わらない。
    そこはかとない怪異を感じさせる作品集。
    夢と現実との境目、生者と死者の境目、見えるものと見えないものの境目・・・すべて『曖昧』
    「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるが、これはネタ証しがされてホッとするとともに興醒めな部分もある。
    この本では、ネタ証しはされないので興醒めはしない。
    そう思えばそんなような〜?
    もしかしたらそうかもしれない・・・
    曖昧な気分がどこまでも続くので、何度でも読み返せる。

    個人的に印象に残った話をいくつか上げたい。
    最初の『東京日記』は、二十三編の小品詰め合わせ。怪物の登場から、懐かしい人の声で締めるまで、「夢十夜」のような感じで様々な不思議が描かれる。
    この本の巻末には、三島由紀夫の解説という、スペシャルなものが収録されているのだけれど、三島先生は「その六」のトンカツ屋の話が怖いと書いている。私も映像的にアッ!と思うオチだった。
    落ちにハッとするという事なら、「その十二」の知らない人と箏を並べて重奏する話と、「その十九」の同窓会の話も首の後ろにすうっと風が通る。
    割とハッキリした怖さをさそうのは、もう弔いも済んだはずの人が隣の部屋で、死んだ姿で寝ている話だ。

    『とおぼえ』の、氷屋のおやじと客の、なんだか噛み合わないやり取りが続き、だんだんと核心(?)に近づいて行くのは、そこはかとないこわさの中にユーモアもある。

    『南山寿』は、教師を退職した途端に妻が亡くなってしまい、手持ち無沙汰に鬱々としている人。
    行く先々に現れる、後任の新教官が不気味なのだが、本当に偶然なだけかもしれないし、今の言葉で言うところの「ストーカー」ならそれは別の意味で怖い。

    『柳撿挍(検校)の小閑』は、親友だった宮城道雄がモデルらしい。目の見えない人のものの感じ方というものはまた別世界だ。怪談ではなく、お弟子さんとのほのかな交流と予期せぬ別れの物語。

    『東海道刈谷駅』では、列車の転落事故で亡くなった宮城道雄氏の当時の行動を記録をもとに追う。
    そして、二年ののち、まだ気持ちの置き所に迷いながらも、宮城検校の遭難の地に程近い、東海道刈谷駅を訪れる。

  • 不可思議でいて、のめり込ませておきながら最後はほっとかれる…というような短編集。
    『冥途』に似て、悪夢をみてるような『東京日記』。
    有名な『サラサーテの盤』などが収録されていて、どちらも良いが、個人的には『柳検校の小閑』『とおぼえ』が好き。
    前者は、ホラーというわけではなく最後になんだか哀愁漂う切ない気持ちにさせる作品。後者はこれぞホラー、怪談という感じ。

    不可思議な話を読みたい人にはおすすめしたいが、近年ありがちなわかりやすいホラーや、はっきりとした結末などを求める人には読後感がもやもやするので向かないかもしれない。

  • 内田百閒は「冥途」は凄味のある作品で百閒らしいうすら寒い怖さが好きだけど、ほかの作品はわりあいのんびりした風景描写が大好きだったりする。
    「柳検校の小閑」「とおぼえ」がよかった。

  • 全12巻刊行予定のシリーズ1~4が年頭に発売されましたが、
    取り敢えず、この一冊を購入。
    鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が大好きでして、
    あれは百閒の作品を
    モザイク状に鏤めたようなお話になってますが、
    中核を為すのが上記の表題作「サラサーテの盤」なんですな。
    と言いつつ、恥ずかしながら百閒の作品は
    岩波文庫の『冥途・旅順入城式』(二つの作品集を併録した一冊)
    しか読んでおらず……てな訳で、
    いい機会だと思って入手しました。
    『冥途』は1922年、『旅順入城式』は1934年刊行で、
    今度の『サラサーテの盤』は
    1938~59年の間に発表された作品を集めたもの――ということで、
    基本的なテイストは一緒でも、
    書かれ方が違う、とでも言えましょうか。
    ぐっと小説らしくなっているというか(笑)。
    それでもやっぱり、
    日常が異界へスライドする、否、異界が日常の中へ
    じんわり滲み出て来るような感覚に満ちていて、不気味&愉快。

  • 謎い‥ひたすら謎。しかしその読後感、???となりつつも嫌な感じがしないので何回も読んでしまう。けど何度読んでもわかんないぜ内田先生。

  • 本書の中では、白昼夢のような日常を綴った「東京日記」が一番好き。理屈では説明のつかない現象にポカンとしたり、首を傾げたりする様子が脳裏に思い描かれ、だからどうということもなく次の出来事に移る。そこに生じる奇妙な空気感がいい。また表題作は、最後に蓄音機から流れる、きっとノイズ混じりであろうツィゴイネルワイゼン、しかもサラサーテと思しき人の肉声入りを想像すると、じんわり不安が広がった。

  •  実は大学時代に最後の授業で読んだこの「サラサーテの盤」いや〜その当時の色々な感情が湧き起こり、なんとも言えない気持ちに浸りながら読了。 
     どうでもいい話だが、「サラサーテの盤」の元になっている曲は「ツィゴイネルワイゼン」と言うそうだが、聞いてみると「あーあの曲かー」と心の中でふふっとなるので、読んだ後に聞いてみると教養が増えた気がして少し幸せになるのでおススメである。
     さて構成自体は、やはり百閒独特の曖昧模糊な文章によって終始不気味でジメジメした空気感が漂いながら非現実的な物語が展開している。たとえば、最初の場面では(実はここを授業で英語翻訳したので、相当思い入れがあるが)暗澹たる雰囲気に包まれてる家の中を鮮明に記述し、不穏な到来を告げている。そして、頁が変わった瞬間の「砂のにおいがする」という非現実的な記述により、頭が「???」となる我々読者はもはや百閒の現実と非現実が融合する不安要素に包まれてながら進むストーリーの虜になる。あんまり詳しくないので偉そうに書きたくないが、ラテンアメリカの本でよく使用される魔術的リアリズムのように、現実の中に非現実的なことが混ぜ込まれるが、物語自体は何事もなく進んでいき、私達読者が混乱する手法をとっているように思われる。ここら辺は内田百閒とラテンアメリカ文学の比較研究をすると面白いのではないだろうか?(もちろん、私には出来ないし、したくもない。)
     ともかく、現実と虚構の境界線が溶け合い、我々が正しいと認識していたこの現実も実は正しくないのでは?と不安に陥るような文章を愉しめるこの本は一読の価値があると思う。 
     最後に、百閒の文章を読了し終えて考えた人間的考察を加えたい。私達は普段、血のつながりや友人関係や会社での上司、同僚という人間関係を固定的に考えていると思う。つまり、たとえ数日や数週間、時には数年会わずともその人とは以前の関係になんらの変化がない状態であると考えているだろう。もちろん、変わらぬ関係も中にはあるだろうが、中には久々に会ってみると「なんか前と比べて一緒にいても面白くないなぁ」とか、逆に「この人ってこんな面白かったっけ?」となることが暫し私にはある。それはなぜ? 
     考えてみると、逆説的ではあるが、人間とは常に動的な存在で、私たちが普段会うなんらかの「知り合い」は実は「他人」なのではないか?と思ったりする。 
     つまり、人の細胞は毎日変化するし、昨日覚えていたことも今日には忘れるし、知らない人と出会って考えが変わることもあるだろう。これが自分のみならず他人にも起きているのだから、いわば昨日の自分も他人であり、一見すると記憶のある友達も同様に他人なのではないかと思う。 
     よって、意味わからないだろうが、私たちは人間という存在が日々「連続」しているものではなく、実は毎秒毎に「断続」していると理解するのはどうだろう。そうするとと、「あの人はあんな人じゃなかったのに」と暫し傷つくことがあると思うが、実はそれは当たり前で、今目の前にしている人は実は「他人」なのである。そう考えると、その人は自分の知る人ではなく、もはや「他人」なのだから必要以上に過去に拘りすぎて関係性を今後どうするかで気を病むこともない。   
     しかし、少なくともその当時はお世話になったのだから、もし関係が悪くなっても「あの時はお世話になりました」と心の中で思うことが大事だろう。 
     以上が内田百閒の「サラサーテの盤」を読んで思ったことである。百閒の描く不安定な人間像を参考にして色々考察してみた。

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