ノラや―内田百けん集成〈9〉 ちくま文庫 (ちくま文庫 う 12-10)
- 筑摩書房 (2003年6月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (325ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480037695
作品紹介・あらすじ
『猫は煙を気にする様である。消えて行く煙の行方をノラは一心に見つめている。…「こら、ノラ、猫の癖して何を思索するか」「ニャア」と返事をしてこっちを向いた。ノラはこの頃返事をする。』(「ノラや」より)。百〓@6BE1@宅に入りこみ、ふいに戻らなくなったノラ。愛猫の行方を案じ嘆き続ける「ノラや」を始めとして、猫の話ばかりを集めた二十二篇。
感想・レビュー・書評
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以前アンソロジーでノラ失踪の話を読んでいたが、今回猫の話ばかり22篇を集めた本書を読み改めて愛情の凄まじさを感じた。70才前頃ノラに巡り合った百閒。ノラ喪失に号泣しその後クルツを看取りまた涙する。初期の不気味な猫話との差が激しい。
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ノラを思って取り乱す様は痛々しくて、こちらの胸まで締め付けられるようだった。
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夏目漱石の門下生の一人、内田百間の飼い猫にまつわる短編随筆集。
ペットロス小説のはしりとも言える。
ノラがいなくなり、憔悴しきって涙を落とし、食べ物も喉を通らない百間の異常なまでの猫愛は心に染みる。 -
元々筆者は猫好きなのかと思っていたので、冒頭の数話を読んで驚いた。
ノラがいなくなってから内田百閒が毎日泣き暮らす様は、本全体がぐっしょり濡れているかのようだった。
ノラやノラやでは、筆者が無事ノラが戻った際の書き出しや、感謝の折り込みチラシの文言まで用意していたことが書かれており、それだけノラの帰りを待ち侘びていたことが伺えて胸が締め付けられる。
今後わたしは木賊を見るたびノラのことを思い出すだろう。わたしの実家にも木賊が生えているが、実家の黒猫が木賊を抜けて帰らなければどんなに悲しく心配か想像もつかない。
猫の手や耳の描写に、その愛らしさが表れていた。実家の猫に会いたい。
あとがきの稲葉真弓さんが、猫を飼うことを「猫に体を預ける」と描写していてまさにその通りだと感じた。猫を飼っているのがこちらであれば、その飼い猫に支えられているのもまたこちらなのだ。 -
猫虐待をする著者が、なぜか愛情を傾ける羽目になった猫に固執するさまがおかしい。猫の喪失に嘆く姿は、転化された過剰な自己愛に他ならない。
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昭和32年3月27日のうららかな午後の庭の木賊の茂みを抜けてどこかへ行ってしまった猫の「ノラ」。猫探しに奔走し、電話番号を記した新聞に折り込み広告を入れ、イタ電もかかってくる中、百閒の慟哭は留まる所を知らない。嗚咽し号泣し涙は滂沱と流れ、毎日入っていた風呂に失踪後35日目にしてやっと入るが、いつもノラが風呂蓋の上にいたので風呂蓋に顔を押しつけ「ノラやノラや」とまた号泣。失踪2ヶ月後にノラに良く似たシッポの形だけが違う猫が居着き「クルツ」と命名し、5年3ヶ月後に最期を看取る。失踪後13年経ても何か心に引っかかる時、割り切れない時につい口をついて出てしまう言葉、「ノラや」。ノラやクルは私共の心の中にいるとの記述に涙。クルツの場合はしてやれる事は全部したが、ノラにはしてやれない事が多々有り後悔に苛まれる百閒の慟哭は、猫を飼っている者として何時かやってくる別れに際して肝に銘じておこうと思う。
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以前にNHKで放送した番組でホロリと来て読んだのだが、文章だけにも関わらずこちらの方が泣けた( ;∀;)
猫を飼ったことある自分には、とても共感できた。
あまり猫を好きでなかった老百閒がふとした成り行きで野良猫を飼い、どんどん猫好きになっていく描写が微笑ましい。
(彼曰く、猫が好きでなくノラとクルだけが好きらしいが・・・)
その後、猫の失踪に日々泣き続け、新聞の折り込み広告を作る老人・・・
その狂気とも言える愛情の描写にどんどん引きこまれていく。
それと、事実だからドキュメンタリーなんだけど、文章はとても軽妙洒脱で素晴らしい。
印象に残った文章としては・・・
家内がお勝手でノラを抱いて、「いい子だ、いい子だ、ノラちゃんは」と歌う様に云いながら
そこいらを歩き廻ると、ノラは全く合点の行かぬ顔をして抱かれていた。
その様子の可愛さ。思い出せば矢張り堪らない。 -
いなくなってしまった
ノラ(とクルツ)の事を
嘆く百閒さんの記録
滂沱の涙と
右往左往する様
周りの人たち
(中には悪意な人もいるけど)
特に警察が気遣ってくれてるのが
人情味ある時代だなぁと思った
ブックオフ妙興寺店にて取り寄せ -
ネコに関わる短編集で、ネコ好きの人が主人公?と思っていると最初の3篇ははぐらかされます。
最初は主人公が下宿兼宿屋のような所で暮らしていて、ネコが部屋にやって来てもさほど可愛がる様子も見られません。この3篇は、ここではちょっと特異で、ネコに化かされたような話もあります。
奥さんと一緒に暮らすようになってからは様変わりします。ある日隣の家の軒下で野良猫が子どもを産み、子猫が主人公の家に住み着いてしまいます。ノラと名付けて可愛がりますが、1年半程経ったある日失踪してしまいます。
そのあとが大変で、ほうぼう探し回るのは勿論、何回も新聞広告に載せて、探してくれた人には3千円謝礼を払うとまで言う。昭和32年の3千円は今の3万円位になるのかな?そしてネコを偲んで大の男がおいおい泣く。
そのうちノラによく似たネコが家に住み着くようになり、クルと名付けて飼うのだけれど、クルが悪戯すると
「ノラはそんな事はしなかった。所詮ノラの代わりにはならない」
などと言いながら、このネコは5年以上飼って病気で亡くなるまで看取る。
読んでると、地域の人達が温かくて、親切に情報提供してくれたり励ましてくれる。なんか、いい時代だなと思えた。
この話はいわゆるペットロス、喪失感がテーマなんだと思うけど、病気で死ぬまで見届けたクルよりも、突如居なくなってしまったノラへの喪失感は計り知れない位大きい。
想定外のアクシデントに対応するのは、人間にとって物凄く大きなストレスなのかもしれない。 -
「阿房列車」以来の内田百閒先生。アク強く作り込んだ阿房列車とはまた雰囲気の違う、猫にまつわる日常を綴るエッセイ集。猫一般が好きなのではなくたまたま飼うことになった「ノラ」が好きなだけだ、という感覚はペットの話に限らず共感する人も多いのでは。それにしてもノラに関わるとある事件の中で我を失っていく百閒先生の姿には胸が打たれるというか、よくこの描写を出版物の形にまとめられたなと。最近日記サボりがちだったけどちゃんと書こうと思い直しました。百閒先生、次は何読もうかな。