メタフィクションの謀略 (ちくまライブラリー)

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著者 : 巽孝之
  • 筑摩書房 (1993年11月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480051950

メタフィクションの謀略 (ちくまライブラリー)の感想・レビュー・書評

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  • 本書自身がまたメタ化、発見はあった

  •  フィクションの形式、というのが、どれほど現実に影響を与えるか。人間は制度の中で立ち振る舞いを決定するわけで、リアリズムと呼ばれるようなタイプのフィクションは、その立ち振る舞いのための一つの物差しになりうる。メタフィクションという形式、つまりフィクションに批判的なフィクションというあり方は、まずはその点を暴きたて、フィクショナルな言動で築き上げられたリアリティという幻想を突き崩す。
     えっと、神話の解体とか、そういう話にもかかわってくるんだけれど、たとえばアメリカ。アメリカという国は、ピルグリム・ファーザーズの伝統からマニフェスト・ディスティニーだのなんだのと、やたらと「物語化」「神話化」を好む国であって、それはものすごく単純化してしまえば、その成り立ちが人工的に過ぎる国家だから、その統合のためにやはり人工的な物語を必要とするわけですよね。これは神話によってある種自然発生的に民族意識が生まれてくる、みたいな内容を人工的に作ってるだけで、ええと、だからいってしまえば純粋な「物語機能」の正しいあり方といっていいのかもしれない。そもそも、神話とか物語というのは、それを共有すること、それを現実としてでもいいし、信仰としてでもいいのだけど、一つの統合体の共同幻想として共有することが、まずは重要で、それはつまり世界の記述形式でもあるわけ。小説において文体が確定すれば、内容も決まったようなもの、というのはよくいわれることだけれど、文体を確定するということは、記述の形式を、いかにして記述するかを、確定するということなの。いかにして記述するかが決まっていれば、どのように未来を構築するか、その点もある程度は定まってくる。現実への表象可能性とでもいいましょうかね。僕の好きなショーペンハウアーを引用しつつ、意志に志向性みたいなのを与えるとすれば(ちょっとこの場合『意志』はニーチェの『力への意志』っぽいものになるのかも)、共有された物語というのは、表象への志向性を決定するわけ。こういう現実を表象していこうという一つの指標となるわけ。それは、元来物語が持ち合わせている一つの機能であって、かなり大雑把に接続するけど、ポストモダンで崩壊したといわれる「大きな物語」とも関わってくる。そして最初のリアリズムの小説、という話に戻るけれど、リアリズムにおける「リアリティ」って何、っていうと、やっぱりそれを「リアル」と感じる物語的言動の総体に他ならないわけでしょ。で、今はポストモダンの時代なわけで、「大きな物語」は崩壊したわけで、つまり「リアル」がフィクションであることにも自覚的になっちゃった。で、一部の頭の良い人たちは、じゃあそれをフィクションで言っちゃおうぜ、ということになった。メタフィクションを概観する作業においてデリダとか、ポストモダン思想家の名前を無視できないのは、おそらくそういうことだよね。
     はい、タイトルの謀略については、ざっとこんなところです。
     現実のフィクション性を暴き立てるものとしてのメタフィクションのあり方は、そりゃ謀略的にならざるを得ないものね。そして本書はそういう視点でメタフィクションを、主に作家論的なスタイルで、論述している。正当な、というか、非常に筒井康隆的なメタフィクション論、と取れる。「超虚構」の話なんて、まさにそれだよね。
     一冊の本としては、ばらばらに発表された評論をかき集めたものだから、内容の統一はちゃんとしてるけれど、流れに一貫したものがあるとはちょっと言いがたい。それでもとても楽しく読める本で、著者の文体が特にすばらしいです。作品の概説が、ちゃんと面白がってる人の概説ですよね。読んでてわくわくします。
     はい。
     作家論としては、ピンチョン、筒井康隆、ラッカー、沼正三、エリクソンにそれぞれ一章が振り分けられていて、それぞれ面白いです。はい。筒井康隆と沼正三が日本的な土壌+資本主義的制度から独自のメタフィクションとして発展していった様が特に面白い。それが、資本主義的制度という共通の問題意識において、エリクソン辺りと内容が合流してきたりもするのね。流れはあんまりない、とはいったけど、その辺の半ば偶然的な流れは、かなりぞくぞくします。このように欲望すること自体が欲望の対象となる資本主義社会、それはいかなる強制もなく自発的に起こる欲望なのだけれど、にもかかわらず制度に取り込まれてしまってる。そういう意味では、すでに資本主義社会の制度そのものが、メタフィクショナルな言説をも内包している、あるいはそういう言説を、メタフィクショナルなものとしてではなく、再び「大きな物語」的なものとして、表象する機能を持っているわけ。メタフィクションというのは、実は現代においては、フィクション以上に正しく物語として機能してしまうのではないか。エリクソンの章における、マドンナの言葉は、だから本当に衝撃的なものであるはずなのだよなあ。実際のところ、それそのものの衝撃性はぴんとこないというか、割と僕ら、このことについては自明のことだって自覚しているのかもしれないけれど。あれ。じゃあ、ひょっとして僕らはメタフィクションをメタメタフィクションしてメタメタメタフィクションする無限後退に捉われちゃってるんじゃないの。まあ、そういう問題意識も、書いてあったはず。うろ覚え。いずれにせよ二項対立的に対置した価値は、無限後退の契機になり得るから、メタフィクションの謀略はそれのみでは決して成功し得ないのだろうね。

     ノースロップ・フライだっけ、神話に戻るといったのは。でも、それはもうすでに神話であろうとする物語として、メタ神話でしかありえない、というのは、割とマルケスとか日本では大江とか、その辺で実証されちゃってるところ、あるよね。ではメタ的に何週もするの? それとも、そのような価値直列状態を、複数的な並列状態に突き崩すの? ううん、どっちもポストモダン的で僕はあんまり認めたくないかなあ。
     著者はどっちかっていうとメタメタになってくところを認める感じの立場らしい。でも、それって無限運動だよね。それも、制度的に採用されただけの無限運動であって、パラダイム壊れたら通用しなくなくなりそうな。どうなの。個人的な絶対判断、じゃ弱いし、貴族主義的価値序列を制度側に再び譲渡する、というのも変な話しだし。ねえ。

     とりあえずしばらくは価値並列的な無秩序状態と、それを超克しようとする価値直列メタメタ路線の二重化が続くのだろうけれど。まあそれでもいい。それに対して批判的な視点を獲得できるかどうか、メタ、メタメタ、メタメタメタという運動を、概念としては想定しておけるかどうか、まず大事なのはそれで、そのためにはこの本は非常に役立ってくれると思う。そういうわけで、オススメの一冊です。内容は古いけどね。文章が面白いから、全力で勧めます。初めて星つけちゃった。文句なしの、五つです。読んでください。

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メタフィクションの謀略 (ちくまライブラリー)の作品紹介

ハイテクが浸透し、現実がますます仮想現実と化してきたいま、文学は何をたくらんでいるのか?トマス・ピンチョン、筒井康隆、ルーディ・ラッカー、沼正三、スティーヴ・エリクソンらの小説を手がかりにした、ヴァーチャル・リアリティ時代の比較文学論が幕を明ける。

メタフィクションの謀略 (ちくまライブラリー)はこんな本です

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