- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480059178
作品紹介・あらすじ
社会の高齢化にともない、「死」という現象が身近で日常的なものになっていく。「死そのもの」をどうとらえるか、どのような死生観を自分のものとするかということが、今後の切迫したテーマとなる。個々の生や死が、宇宙や生命全体の流れの中で、どのような位置にあり、どのような意味をもっているのか。「時間とは何か」を問いながら、死生観について考える。
感想・レビュー・書評
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似非ニーチェ的にニヒル嘯き「どうせ死とは無にすぎない」などという考え方をやわらかく否定し、時間から永遠という事象の考察を経て死とは絶対的な無と絶対的な有、すなわち永遠という結論を導く。宗教哲学観念論すれすれではあるが明確に論じられているため、説得度が強い。
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私はどこから来てどこに行くのか、死とは無であり断絶であるのか、という生と死の根源的な問題に、時間論というユニークな視座から答えようとした著。さて、著者の結論は、死は決して終わりではない、無の断絶ではない、だから、安心して自信をもって生の充実に向かっていけばよいというもの。生きることに不安を感じている人、毎日にモヤモヤしている人、目の前の困難を突破することにはならないけれど、救われたような気分になるのではないでしょうか(私もそうでしたが)。
文学部 H.K
越谷OPAC : http://kopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1000297449 -
自分にとって新しく、記憶に残ったのは下の3つの考え方
・死生観を理解しようとすると、時間、特に「永遠」という概念ををどう捉えるかに行き着く
・人間の子供と老人の期間が生殖可能期間に比べて長いという事実から、それぞれの期間の役割を考える
・生と死について考えるとき、どこかで科学や哲学の世界から宗教について触れることが不可欠であり、キリスト教は直線的に、仏教の多くは円環的な時間軸を持っている
日本人には無意識に浸透している、アニミズムと、人は死ぬとカミになり、子孫を見守っていくという神道の死生観について著者がどう捉えるかも聞いてみたい。 -
私には、生まれたときから祖父母がおらず、身内の死に出会ってこなかった。十数年前現在のパートナーと出会って、私にもやっと「おばあちゃん」と呼べる存在ができた。私の子どもたちからすると「ひいばあちゃん」。年に2回帰省の際には、ひ孫とも仲良く遊んでくれていた。ところが次第に、孫やひ孫を認識する能力がなくなってきた。最終的には特別養護老人ホームに入り、生きてはいるけれども会わないままで最期の日を迎えた。私たち家族が駆けつけたときは、火葬される直前だった。というか、私たちが着くのを待ってくれていた。そして、一目だけ最後の顔を見ることができた。子どもたちにはこう言っている。「ひいばあちゃんはいなくなったけど、思い出せばいつでも心の中で会えるよ。忘れさえしなければ、心の中に生き続けているよ。」短い期間ではあったけれど、同じ時を共有できた。それが大切なのだろう。本書では、物理学的時間から、宗教の中の時間観まで、時間について多岐に渡って検討されている。それを通して、我々の死生観を見直していこうとしている。このお盆休み、ひいばあちゃんの3回忌を迎えた。めったに集まらない親戚が集まって、ひと時を過ごした。良い時間であった。
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時間がキーワードとなっているようだ。死と生を教える時に個人(ひとりの人間)を考えるなら、生により時間が始まり、死により完結する。(心臓の鼓動、生命現象)
概念としては、その前後では、時間の流れは繋がっている。祖先から繋がる家系として、遺伝として、進化としての時間、DNA記録と記憶、また後に繋がるものは、魂としての永遠性、仏、霊である。それらの線後に流れる時間を機械的に取扱っている、思考しているようだ。
第1の旅
時間を定義、理解することは、不要であると思われる。
第2の旅
ライフサイクルとしてのイメージ(p86)として図示されるが、時間とは、まさに感動的なものであると思う。基軸をどこにおくかにより、様々に変化する。
第3の旅
谷川俊太郎、二十億光年の孤独の詩(p109)、人間の時間と自然の時間をまさに、端的にあらわしていると思う。
第4の旅
聖なる時間としての宗教(の時間観)の対比を試みている。仏教徒キリスト教時間観=死後の生命(概念)がどうなるのか?は教義の真の部分である。と思う。自分以外の他者を理解するためには、知っている必要があると考える。肉親の死(間際)に面することが少なくなった今、このような問いかけは、良いかもしれない。 -
・ライフサイクルのイメージ
直線的に年老いていく、円環的に回帰してくる
・エコロジカルな時間
時間は生物によって無限に存在する。それぞれリズムを持っている。物理的時間、生物的時間の違い。相対的時間。
歴史は一本の長い時間上の出来事ではなく、時間の重曹的な積み重なり。
・永遠
円環からの解脱の先にある。直線的な復活の先にある。
仏教では内在的に、キリスト教では超越して行く対象である。
・相対的な有と相対的な無の混じった世界が「生」 -
死生観を問いなおす、時間論から、ていう内容だった。
キリスト教とか、近代哲学とか、近代科学とか、キリスト教との対比としての仏教とか、における時間論。 -
・「私」が死んだ後も、私はかたちを変えて存在し続ける。
したがってそのような意味での私には「死」はない。これはたしかに「私の死」というものを乗り越えるひとつの世界観である。
・人間の場合、生殖を終えた後の「後生殖期」が長い、ということである。
つまり、純粋に生物学的に見ると”不要”とも言えるような、子孫を残し生殖機能を終えた後の時代が構造的に長い、という点に、「ヒト」という生き物のひとつの大きな特徴がある。
・「老人」という時期を、それだけを他と切り離してとらえるのは妥当ではない。人間という生物の本質的な特徴は、「世代間」相互のコミュニケーションの強さ、あるいはその「関係」性にある。
・日本人の生き方は神中心でも人間中心でもなく、「自然」中心であり、ここでの自然とは、「大きな自然のいのちのリズム」とも「宇宙の大生命」ともいいかえてよいものである。 -
あまり売れていないものの、評価が高い一冊といえるが、個人的にはそれほど本著での議論に感銘を受けるということはなかった。むしろ、広く浅い教養を持つ人が死生観について「時間」を基軸として迫っていったといった感が否めない。こんなことを言うとあれなのかもしれないが、著者にとっては自分が福祉に携わっているところから、そこに対して自分が抱いているある種のきれいな価値観から導き出された答えへと自然と流れ着いてしまっている気がするのである。具体的には高齢者との結びつきや、高齢者=死の間近にある人と、それ以外の人々との別れについての在り方といったもの、にである。著者からすれば高齢者は子供に対して物事を教えられる存在であり、それだけの時間も持ちうる。高齢者との結びつきを密にすることで、生に連続性のようなものを持たせる、といった具合だろうか?著者は高齢者が教える、といったところを強調しているが、しかし、現代の高齢者に教えられることがどれくらいあるのかは疑問である。もし、高齢者がそうしたある種の能力を保持していられたならば、誰しもがもう少し高齢者を敬うのではないか?しかしそれが実際は思考停止状態で生きてきた感が強くて、凝り固まった考え方に支配されている人が多いというのもまた事実なのではないか?無論中にはそうでない人もいるだろうが、そういった人たちは高齢者が疎まれるような現代においてもしっかりと周囲と親愛のこもった付き合いをしているに違いない。きれいごとを並べ立てるよりはこの構造について誰か本格的に考えるべきであるとは思う。
とはいえ、本著の評価できるところはやはり死生観に「時間」を基軸として真っ向から挑戦しているところだろう。意外とこのようなタイトルを銘打たれた本は少ないものである。しかし死生観も時間もかなり根源的な哲学的テーマと言えよう。著者はまず近代的な時間感覚は直線的であり、それに始点と終点があるとしている。始点が誕生であり、終点が死別である。これは近代感覚であり西洋的キリスト教的価値観の近代版と言える。キリスト教世界観では、無から神が世界=時間をつくり、その後イエスを経て、我々は終末にいたって永遠の命を得る、というところへと繋がる。これは終点に超越が設けられているものの、直線的なものと言える。これに比して、古代ギリシアや仏教などでは円環的な世界観が築かれる。古代ギリシアではその円環は肯定的に解されており、仏教では輪廻転生が「苦」として解されそこからの解脱により涅槃=永遠へと至ることが志向される。古代ギリシアでは円環を肯定的に捉えることからそこで終わるが、仏教では円環を苦として捉えることからそこからの超越が目指され、この観点から言えばキリスト教と仏教とは「現世的負価」に対する超肯定性によって同一性を持っているとも言える。とはいえ、著者は最終的に後者の時間感へと近づいてゆく。それは、アインシュタインによる相対性理論が時間を「相対的なもの」であると性格づけたように、我々が普遍的だと思っている時間は実は相対的なものでしかない以上、独立した時間軸なるものを想定することは困難であるといった点からである。それゆえに、キリスト教のような絶対的な時間感を想定するよりはむしろ仏教的な時間感を想定する方がより現実的であろうといった判断である。ただし、その円環は多層的な円環である。表層にはそれぞれの生物毎の時間感がありそれが中心に近づくにつれてより根源的な深みのある時間感へと移行していき、最終的には中心に超越的な「なにか」があるのではないか?と著者は結論付ける。そして、著者はその「なにか」と相対的な時間感から、生とは「相対的な有と相対的な無が混じり合ったもの」で、死とは「絶対的な有であり絶対的な無であるもの」といった死生観へと発展させる。ここで著者が死に対して言いたいのは、絶対的な有であり絶対的な無でありそしてその二つの相反する定義から零れだすもの、といった意味合いなのだろう。現代思想では相対的であることをして世界を否定的に捉えることが多いが、あるいはその相対性を攻撃する哲学者思想家も多いが、著者はむしろその相対性に肯定的に接しようとしているあたりがその特徴と言えるのかもしれにない。著者自身も答えが出せていないと白状しているが、ここで言う相対性と絶対性との差は生きているということは自分の認識によっているので相対的、死ぬとそうはならないであろうから絶対的とつけることでその差異を示しているだけだろう。だとするならば、有と無といった二つの相反する概念からもれ出てくるものに著者はある種の真理を見出そうとしているのだろう。そのような意味で著者は敢えて二項対立に戻りそれを超えるものというよりは、そこからもれ出てくるものを注視しようとしているようにも感じられる。つまり、最終的には死と生との間の境界を取り払おうとしているのだろう。
※ちなみに「時間」と「死生観」との関係を簡単に言ってしまえば、生きるということは「時間を生きる」ということであり、死ぬということは「それまでの時間から阻害される」といったことになるのだろう。