現象学は思考の原理である (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 25
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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480059932

作品紹介・あらすじ

世界観や宗教、信念上の深刻な対立は、現代にあっても絶えることがない。現象学は、「信念対立」を調停し克服する原理として構想されたのにもかかわらず、現在、そのことはほとんど理解されておらず、種々の誤解にさらされている。本書はこうした誤解を解き、現象学の重要概念を分かりやすく解説してゆく。3部以降では現象学の方法原理を用い、人間そして社会の原理論の礎石をなす言語、身体の本質を探究する。本書は、「真理」を僭称する知に対抗する思考の原理としての現象学の、新たな一歩をしるす一書である。

感想・レビュー・書評

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  • 2016.1.27
    フッサールの提唱した現象学によると、我々にとっての世界像、価値観には、絶対の客観的な解など存在しない。かくれんぼで考えると、主観的には頭隠して尻隠さずの状態があるが、その後に第三者の目、自己対象化の目によって、しっかり自分を隠すことができる。この自己対象化の目を客観と言うが、それも主観的視点から想像力によって発展した視点であり、つまり自分からの視点の距離感の違いであって、すべての認識は主観的と言える。このように、認識をすべて主観、意識活動に置き換えて考えることを現象学的還元という。りんごを例にすれば、りんごがあるから赤くて丸いものがあると認識するのではなく、赤くて丸いものが意識の中で認識されるからその対象をりんごだと思う、ということである。このようにすべてを意識活動に還元すると、我々の世界像は信憑構造を持つことになる。我々は世界とはこうだ、という確信を持っているだけで、その確信が強ければ強いほど確固たる世界像を持つ。あくまで確信の度合いであって、客観的な正解ではない。そしてその確信の度合いは、環境や文化によって変わってくる。また個々人の確信的世界像の共通項こそが客観的世界と呼ばれるもので、それは自然科学的な世界像とも言える。物体の名前、地球は丸い、とか。対して、文化や環境によって作られた価値観など、共通項ではなく違いがでるものは主観的世界像であり、そこには宗教も含まれる。このように我々は、共通了解として持っている世界像と、そうではない世界像の2つを持ち、それらは教育などによって確信という形で作られる。こう教えられたから、こういう経験をしたからなどの理由によって、その世界像は作られる。各々の持つ世界像、その確信には理由があるということである。またあくまで確信によって作られた世界像なのであって、故にあなたにはあなたの教育と経験、私には私の教育と経験がある以上、その世界像は自然科学的なものを除き、相容れることはない。これが価値観の違い、信念の対立の背景である。ならばどうすればこの対立を克服できるか、それは、構造的に価値観の違いは相容れないという認識のもの、自由を脅かさない範囲に置いては、相互承認をするしかない。自由を脅かす範囲に置いては、みんなで共通了解としてのルールを設け、自由を制限する必要がある。公共の福祉に反しない限りにおいての自由を、あなたも私も持っているということである。実に面白い。竹田さんの著作は他のも読んだが、おもしろいなーと思う。ただ、確かに価値観の違いが構造的に生まれることはわかったが、承認しあうことしか解決はないのだろうか。話し合うことでお互いが弁証法的に新たな知見に進むこともあり得る気がするし、そのような態度は、認め合うしかない、という了解からは生まれない気がする。信念対立の理由はわかったが、対立の克服の方法はまだ考えようがある気がする。レポートの参考資料として読んだのですべて読んだわけではないが、後半の欲望論も私の興味の範囲のものであるため、また機会があれば読み直したい。生きていて分かり合えないことはいくらでもある。現象学の原理を生活に活かすことで、人間関係ひいては人生をより深く豊かにしたい。

    2016.2.2 p.s.
    本著の言語論、身体論に関しても読了。非常に面白かった。言語論においては、一般意味と企投的意味とがあることがわかった。つまり、言葉の意味と、それを使って何を言わんとするか、つまり意図との違いであり、また意図はその当人の欲望が関わる。欲望より意図が生まれ、意図を伝えるために意味ある言葉を使う。言葉(意味)がなければ意図は伝えようがないが、また意図の集積が言葉(意味)を生み出した、とも言える。意味とは、〇〇のために、という意味であり、欲望を満たす手段として機能するときに、意味は生まれる。言葉はまさにそのような手段であり、言葉のもつ一般意味もまた、意図を伝えるための手段である。私にとってこれが魅力的だったのは、他者理解にも役立つからである。あなたの言葉はまさにあなたの意図を伝えるためのものであり、そしてそれはあなたに欲望があるからだ。よって言葉尻だけ捉えるのは無駄であり、その人の意図を見抜くことが必要となる。身体論においては、情動(感情や欲望、気分)がまず根本にあり、これが世界に意味と価値を与える。意味とは上述通り、価値とは欲望を満たすもの、エロスを与えてくれるもののことである。欲望があるから世界に価値を見出し、その価値のための手段として意味を見出す。またそのために、人は自らの能力を行使し、開発する。欲望の能力の差が不幸の定義だと言ったのはルソーだが、まさに人間は欲望により世界を作り、能力によりそれを満たす。そして、人の欲望は変わる。欲望の体系というか、中心点が変わり、欲望の優先順位も変わる。これは発達段階的であり、マズローやエリクソンの言わんとしているところに被るものがあるように思われる。改めて竹田さんの述べる現象学は、私にとって哲学の師だなーと思ったのと同時に、いやすごいなーと、ここまで厳密綿密に、自らを内省し、記述するのはできないなーとも思った。あと欲望対象の価値審級性がいまいちピンとこなかった。人間の欲望は言語に規定されるので、本能的エロスを越え、真善美という欲望を持つ、というとこ。多分自分の欲望が言語に規定されている感覚がわからないからだろう。私の了解が追いついていないのだろう。能うについてと、言語論とが新鮮な知だった。今後も現象学を学びながら、自らの生き方を耕したい。

  • この世には絶対的な本質は存在するはずなのだけど、人の目を通す限りは確認することができない。誰かが本質を語ったとしても、それは主観の域を脱することができない。本質は見えないとしても、突き詰めて考えた人間同士でその主観が一致することはよくあり、それが普遍。そのような普遍は多種存在し、各々いる領域で「これこそが本質だ」と誰しもが考えるため、信念の対立が起こる。信念はバラエティに富んでおり、それぞれの信念の間には優劣は存在しないということを前提として、もっと互いに認め合えればと述べられていた部分にはっとさせられた。

  • 体験や認識そのものについての記述と捉えている現象学ですが、本書を読んでいろいろと考え変わりました。

    フッサール『イデーン』の解説から始まり、ヘーゲル、デリダ、ウィトゲンシュタインと様々な視点を現象学の立場から眺めていく構成が斬新でたのしい。
    まず、その思想がどういった思想なのかを説明したのちに、現象学としてその思想を捉えるというわかりやすさも手伝ってあっという間に読み終えてしまった。

    「現代言語哲学の挫折」の章は、なんとなくモヤモヤしていた言語・分析哲学へのモヤモヤが一気に晴れていく感じで爽快。

  • とても気に入った前回の「言語的思考へ」と同じ著者の
    比較的新しい本。基本的スタンスや述べていることは同じ
    なのだが、少しだけ考えや哲学的作業が進んでいる感じ。
    これからの本が楽しみである。

  • 難解なところが多いため、途中で返却。

  • 37995

  • 小浜逸郎・佐藤幹夫主催の「人間学アカデミー」での講義に基づいて書かれた本です。フッサールがめざしていたのは「確信成立の条件」を解明することであり、「還元」はそのための方法にほかならないという著者の年来の主張に基づいて、フッサールの現象学の内容が解説されるとともに、現象学批判への反論が試みられています。

    著者は、現代の言語哲学やフランス哲学から投げかけられている現象学批判に対して、現象学の立場を擁護する議論を展開しています。「言語論的転回」以後の哲学は、言語にまつわるさまざまな問題の存在を指摘しているものの、いずれもわれわれが言語的表現へと向かっていくことの根拠になっている実存的な本質に目を向けようとしないと著者はいいます。現代哲学の言語に関するさまざまな議論は、言語の一般的な表現(一般言語表象)だけを見ていることから生じた問題に足をすくわれており、現象学的な観点に立つことではじめて、言語表現を介して発話者の「言わんとすること」をめがけるような信憑構造を解明することができると著者は主張します。

    さらに、著者自身の欲望論の立場から、とくに身体をめぐる問題に対する考え方の方向性が示されます。われわれはみずからの欲望のあり方を、言語を通じて深く「了解」します。また欲望のあり方は、主体を取り巻く社会的関係の中で、そのエロス的な布置をたえず組みなおしていくような性格をもっていることが論じられています。

    このように、著者によれば現象学とは、われわれの欲望のあり方とその変容を深く了解するための方法にほかなりません。そしてこの方法は、人びとのあいだで意見の相違が生じたときに共通了解をさぐっていくための原理であり、このような努力を通じてはじめて、ひとはイデオロギーの相違を乗り越えることができると主張しています。

  • 2016.12.9
    ゼミ発表に引用させてもらった。が、やはりいまいち、私は現象学を理解仕切れていないようである。客観に主観は一致するかという認識問題を、「主観」が「客観」を「確信」として「構成する」というのは、フッサール、ではなく、カントであるらしい。そしてフッサールは、「主観」も「客観」も、一切のそのような存在妥当を判断停止し、意識に遡って考えると、一切は現象である、意識から構成された現象であり、その意識内の現象の中に「主観」や「客観」などがある、つまり「主客二元論」から「現象一元論」が、フッサール、ということになる。意識に徹底的に根拠を求めた認識哲学としての現象学は、私のテーマである「価値観の違いや対立」についても、やはり大きく参考になるように思う、なぜなら価値観を「倫理」の問題で考えるなら、まさしく倫理学に於いても多様な学説が乱立しているのであり、そのどれが説得力があるのかわからないからである。日常における価値観の対立を問題にしたい、価値観とは倫理と考えるなら、各々の倫理観の対立はなぜ起こるのか、いかに克服されるのか、では倫理とは何か、それも対立している。これが倫理だ、いやそれではない、が学説で対立している、では倫理とは何かを決める原理は、つまりメタ倫理はどうか、これも、対立している、なぜか、なぜ倫理も、倫理の根拠も、各々で対立するのか、こう考えると、倫理を現象学的に考えることが、つまり倫理を「現象」に入れ込み、その確信の根拠を問うことが、重要な気もする。

  • [ 内容 ]
    世界観や宗教、信念上の深刻な対立は、現代にあっても絶えることがない。
    現象学は、「信念対立」を調停し克服する原理として構想されたのにもかかわらず、現在、そのことはほとんど理解されておらず、種々の誤解にさらされている。
    本書はこうした誤解を解き、現象学の重要概念を分かりやすく解説してゆく。
    3部以降では現象学の方法原理を用い、人間そして社会の原理論の礎石をなす言語、身体の本質を探究する。
    本書は、「真理」を僭称する知に対抗する思考の原理としての現象学の、新たな一歩をしるす一書である。

    [ 目次 ]
    序 現象学は哲学の可能性を拓く
    1 「思考の原理」としての現象学
    2 時代閉塞を乗り越える原理―現象学の射程
    3 言語の現象学
    4 「欲望論」原論
    結 現象学は「本質」についての学である

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 読んだのはずいぶん前ですが…
    難しいけど、すごく大事なことを言ってると思う。
    現象学的還元は、かなり勇気がいるし、普通に考えると困難。
    子ども時代の主観性→大人になるにつれて客観性を獲得→もう一度主観に帰る。
    多分画家がある程度客観的な絵を学んでから抽象や主観的な絵に向かうように、客観的な見方を獲得した大人が現象学的還元をすることで単なる主観ではなく、より深い主観で世界を見渡せるんだなと思う。
    言わば主観'(ダッシュ)。あるいは人間が介在した客観視?
    後半はかなり読むのが苦痛。

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著者プロフィール

1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。著書に『「自分」を生きるための思想入門』(ちくま文庫)、『人間的自由の条件ーヘーゲルとポストモダン思想』(講談社)など。

「2007年 『自由は人間を幸福にするか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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