- Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480062444
感想・レビュー・書評
-
8月15日は終戦記念日とされているが、その背景には世界各国の国政やメディアによる記憶の再編があった―――
という内容の本で、最後には日本が記念日の日付を変えることを提案している。
歴史的知識に乏しい僕のような人間には難しい。
また、本とするために単調な論理を避け、厳密さを追究したりレトリックを加えたりしている。それを楽しめるかどうかが、この本を楽しめるかを左右する。
僕は歴史の知識に乏しく、筆者のレトリック的表現にも興味をそそられなく、また論点が見えなくなることが不満。
教養のために腰を据えてゆっくり読むといいだろうと思うが、今は避けたいし、今後もする機会には恵まれないだろう。
もし、機会に恵まれるのなら、じっくりゆっくり、さらに分析も加えながら読みたい本。
ぼろくそいってるけど、筆者の思想はがっちりと論理性を持って出ているので、わかる人には良書だと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
終戦の日はいつか、と聞かれたら、多くの人は八月十五日と答えるだろう。しかし、ポツダム宣言受諾の表明は8/10、昭和天皇の終戦の詔書への署名は8/14、ポツダム宣言調印は9/2である。8/15は終戦の詔書がラジオで流され、国民が終戦を知ったという日である。しかもラジオの内容は聞き取りにくく、実際に敗戦を理解したのはその日の新聞によってだった国民も少なくなかった。
八月十五日は戦後にメディア等々によって作り出された神話であることが解き明かされて行く。対して、9.2や開戦の12.8は忘れ去られる。終戦、敗戦とはなんだったのか、ということが神話の陰にぼやかされていく。
そこで私たちは思いを致さないわけにはいかない、3.11という神話に。3.11だけで全てが変化したわけではない、ということは、今はみなわかっているだろう。しかし、原発や政治イニシアチブの問題、経済成長モデルの破綻、デフレ等々、全てがこれから3.11に収斂され、神話化されてしまうかもしれない。我々は8.15の語られ方をみつつ、3.11の語り方についても考えなくてはならないだろう。 -
実はずいぶん前に読み終わっていましたが、なかなか更新する暇がなく。
題名の通り、日本の「終戦記念日」の八月十五日について、主にメディアの目線から分析した内容となっています。
そういえばなかなか日本で「敗戦」て言葉は目にしない。
こうやってメディアに操作されてるのだろうか(-_-;)
客観的に当たり前のことを見つめるって、きっと思う以上に難しいんだろうな。 -
今まで知らなかった事実が次々と明らかにされて、目からうろこの一冊だった。
詳しく終戦について考えたことはなかったが、この本を読むことで、もっと終戦について調べてみようと感じた。 -
「終戦」をいつに決めるかは、事実より国家が恣意的に決定するものだと了解していた私にとっては、何ら驚くことのない本であった。
よく考えれば分かることである。8月15日に、南方戦線や中国・満州で戦っていた人々が一斉に降伏するはずが有るわけがない。
しかし、民衆は、怠惰だから分かりやすい方を好むのは今さら言うまでもなく、このような本を読まない限り気付かない。 -
毎年疑うこともなく8月15日には終戦記念日を迎え、特に甲子園では12時から1分間黙祷をすることはよく知られています。そういう私にとって、この本のタイトルを見た瞬間に惹かれるものがあり手に取って読んでみました。
玉音放送の一部を何かの番組で聞いたことがありますが、昭和天皇は難しい言葉を使っていて、普通の人には何を言っているのか理解できなかったと思いましたので、あの放送をもって戦争が終わるかどうかは確信が持てなかったと思います。
この本では8月15日が過ぎても直ぐには戦争が終わらなかったことや、学童疎開が有料であった事実が紹介されています。現代も色々と問題はあるとは思いますが、戦争のない時代を過ごせる私は恵まれていると改めて思いました。
特に、日本占領後の方針に対して大きな功績(アメリカ軍票は使わない、間接統治)をした鎌田中将の功績が抹殺されている(p111)のは残念に思いました。
以下は気になったポイントです。
・7月28日の新聞に掲載されている記事には、「米英重慶、日本降伏の最後条件を声明」とあって、米英ソの共同声明でなく、ポツダム会談に参加していない重慶政府(中国)が名を重ねていて、参加したソ連は欠落している(p17)
・ポツダム会談中の選挙でチャーチルは破れて、会議半ばの7月28日からは労働党の新首相アトリーと外相がイギリス代表となったが、25日にトルーマンの宿舎を訪れて署名を同意して帰国した(p20、25)
・今日「ポツダム宣言」と呼ばれている「三国声明」は、米国国務省の知日派が作成したものをバーンズ国務長官が仕上げたもの(p22)
・当時の日本列島の本土防衛は東と西に二分されていて、第一総軍(司令部東京)と第二総軍(広島)であり、第二総軍司令部の隷下に、中国軍管区司令部(広島)と西部軍管区司令部(福岡)があった(p31)
・ポツダム宣言の受諾そのものは、8月10日の午前2時30分、天皇の聖断で決定し、外務省は中立国のスイスとスウェーデンの日本大使館を通じて、交戦各国に伝達を依頼した(p62)
・航空艦隊には空母はなかったが、5航艦司令部隷下の航空隊は、多くの部隊が健在であり、玉音放送のあった夕刻に、11機の艦上爆撃機とともに最後の特攻攻撃をした、合計で3500とも5000機ともいわれる特攻機が待機していた(p76、77)
・本土決戦は二段構えで、海岸線に配備された新設の連隊と、日本奥地には新鋭部隊が秘匿されていた、航空機で1万機以上、戦車3000台以上、毒ガス爆弾は1万8000発以上(p95)
・爆撃機を含む航空機の多くは、戦力温存のために日本海側の飛行場に疎開していた(p95)
・占領先遣隊を迎えた接伴副委員長の鎌田陸軍中将は、先遣隊の隊長(テンチ大佐の上司であり顔見知りでもあった(p106)
・千円だけもって朝鮮へ帰還するかどうかを迷っているうちに、朝鮮戦争が始まり、200万人は帰国したが、60万人は日本に留まった(p141)
・昭和20年の秋は明治以来の凶作となった、大量の爆弾の煙が成層圏まで舞い上がり日差しを減らしたため、艦船の沈没は海面を油膜で多い海水の蒸発を遅らせ巨大な台風となった(p149)
・日本政府は450万トンの食糧援助を要求して、GHQは100万トンに削って本国へ要求、政府は70万トンを認めた(p150)
・日本国内で空襲を経験しなかったのは、奈良県・鳥取県・石川県と箱根地区である(p160、161)
・昭和13年の防空法制定により、空襲があった時は老若男女を問わずに消火活動をする義務があり、空襲から逃げると罰金(500円:将官の年棒レベル)があった、学童疎開の真相は、防空義務の足手まといを去ることと、次世代の戦力培養であった(p193)
・学童疎開は有料で、一時金:200円と、毎月20円以上の生活費が必要、公務員の初任給が月収75円の時代(p193)
・日本が占領を脱して独立したのは、昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和条約の調印による、条約発効は27年4月28日(p213)
2010/09/05作成 -
再読。8月15日を終戦記念日としていることの何と日本的なことか。8月になると戦争をテーマにしたドラマや小説よりも、こういった本を読みたくなる。
-
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4480062440
── 佐藤 卓己《八月十五日の神話 ~ 終戦記念日のメディア学 20050706 ちくま新書》
陰暦の月日数は、平均 29,53 である。
http://q.hatena.ne.jp/1313370273#a1094248
満月信仰(0014 or 0015)~ 高貴な人々の忌日 ~
-
【読書】 終戦記念日として国民全体に認識されている8月15日。8月15日には、全戦没者に対し、国をあげて追悼の誠を捧げるため、全国戦没者追悼式が実施されている。「戦没者を追悼し平和を祈念する日」が設けられたのは実は昭和57年4月であり、自分が生まれた年。不思議な縁である。そんな8月15日にまつわるメディアの報道の仕方、当時の国民の反応・文化活動等を書いた本。
-
「常識」を疑う、ことの大切さ