- Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480062444
感想・レビュー・書評
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終戦についての考察。教科書やいわゆる8月15日にTVでやる放送では知ることのないことが知ることができ、視野が広がる。
8月15日に何があったのか、玉音放送について、その後の戦後についてのマスコミの情報操作、色々ありますね。
まずはどういう事実があったのかを知り、そこから自分の考えを構築していかなければ、危険ですね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
定価:本体820円+税
Cコード:0236
整理番号:544
刊行日: 2005/07/05
ページ数:288
ISBN:4-480-06244-0
八月一五日が来るたび、先の戦争のことが語られる。だが、終戦の“世界標準”からすれば、玉音放送のあった「八・一五=終戦」ではなく、ポツダム宣言を受諾した八月一四日か、降伏文書に調印した九月二日が終戦の日である。にもかかわらず、「八・一五=終戦」となっているのは、なぜか。この問いに答えるべく本書は、「玉音写真」、新聞の終戦報道、お盆のラジオ放送、歴史教科書の終戦記述などを取り上げ、「終戦」の記憶がいかにして創られていったかを明らかにする。「先の戦争」とどう向き合うかを問い直す問題作である。
<http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480062444/>
※2014年に文庫化。
<http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096548/>
【目次】
序章 メディアが創った「終戦」の記憶
「八一五字の八・一五詔書」
セピア色の記憶――『北海道新聞』の玉音写真
八月十五日の九州飛行機工場
「玉音写真」がつむぎだす物語
第1章 降伏記念日から終戦記念日へ――「断絶」を演出する新聞報道
「終戦」とは何か
勝者と敗者の終戦記念日
創られる記憶
「玉音の記憶」に根差す戦没者追悼式
第2章 玉音放送の古層――戦前と戦後をつなぐお盆ラジオ
聖霊月と「八月ジャーナリズム」
玉音放送のオーディエンス
お盆ラジオの持続低音――甲子園野球と「戦没英霊盂蘭盆会法要」
玉音神話と「全国戦没者追悼式」
第3章 自明な記憶から曖昧な歴史へ――歴史教科書のメディア学
国定教科書の混乱と検定教科書の成立
「終戦」記述の再編
記憶と歴史の対峙―― 一九六三年‐一九八一年
歴史家=政治化する記憶―― 一九八二年以降
おわりにかえて――戦後世代の「終戦記念日」を! -
今まで知らなかった事実が次々と明らかにされて、目からうろこの一冊だった。
詳しく終戦について考えたことはなかったが、この本を読むことで、もっと終戦について調べてみようと感じた。 -
「終戦」をいつに決めるかは、事実より国家が恣意的に決定するものだと了解していた私にとっては、何ら驚くことのない本であった。
よく考えれば分かることである。8月15日に、南方戦線や中国・満州で戦っていた人々が一斉に降伏するはずが有るわけがない。
しかし、民衆は、怠惰だから分かりやすい方を好むのは今さら言うまでもなく、このような本を読まない限り気付かない。 -
「常識」を疑う、ことの大切さ
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みなさんは終戦はいつだと思いますか?玉音放送が流れた8月15日?はたまた昭和天皇がポツダム宣言を受諾した8月14日?ミズーリ戦艦の上で調印式が行われた9月2日?もしかしたら玉音放送を知らないまま一生を過ごす人もいるだろう。しかし日本人の一つの集合的記憶として植えつけられた終戦日をメディアの観点から考えて行く本。決して読んで損はしないと思う
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ポツダム宣言を受諾した8月14日でもなく、降伏文書に調印した9月2日でもなく、天皇の声をラジオで伝えた8月15日が「終戦記念日」として記憶されるにいたったのは何故なのか。新聞、ラジオ、教科書というメディアから、「8月15日の神話」がどのように作られたか探っていく。
まずしょっぱなから「玉音放送を聞く国民」のやらせ写真をザクザク発掘していくというスリリングな展開。敗者は映像を持たないという大島渚の至言。終戦の記述について、小中の教科書が9月2日に触れていないのに高校の教科書は9月2日が定番というのも意外だった。へえ~。
批判的思考はまず事実を知ることから。終戦記念日?8月15日じゃないの?と思ってしまった人はとりあえず読もう。 -
[ 内容 ]
八月一五日が来るたび、先の戦争のことが語られる。
だが、終戦の“世界標準”からすれば、玉音放送のあった「八・一五=終戦」ではなく、ポツダム宣言を受諾した八月一四日か、降伏文書に調印した九月二日が終戦の日である。にもかかわらず、「八・一五=終戦」となっているのは、なぜか。
この問いに答えるべく本書は、「玉音写真」、新聞の終戦報道、お盆のラジオ放送、歴史教科書の終戦記述などを取り上げ、「終戦」の記憶がいかにして創られていったかを明らかにする。
「先の戦争」とどう向き合うかを問い直す問題作である。
[ 目次 ]
序章 メディアが創った「終戦」の記憶(「八一五字の八・一五詔書」 セピア色の記憶―『北海道新聞』の玉音写真 八月十五日の九州飛行機工場 「玉音写真」がつむぎだす物語)
第1章 降伏記念日から終戦記念日へ―「断絶」を演出する新聞報道(「終戦」とは何か 勝者と敗者の終戦記念日 創られる記憶 「玉音の記憶」に根差す戦没者追悼式)
第2章 玉音放送の古層―戦前と戦後をつなぐお盆ラジオ(聖霊月と「八月ジャーナリズム」 玉音放送のオーディエンス お盆ラジオの持続低音―甲子園野球と「戦没英霊盂蘭盆会法要」 玉音神話と「全国戦没者追悼式」)
第3章 自明な記憶から曖昧な歴史へ―歴史教科書のメディア学(国定教科書の混乱と検定教科書の成立 「終戦」記述の再編 記憶と歴史の対峙―一九六三年 ‐一九八一年 歴史家=政治化する記憶‐一九八二年以降 おわりにかえて―戦後世代の「終戦記念日」を!)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
なぜ天皇がいわゆる玉音放送をした8月15日が国際的に見ても法的に見ても終戦の日とする根拠がないにもかかわらず、日本人にとっての終戦記念日となったのかを徹底的に調べ尽くした書籍で、とても興味深い内容でした。
今月2日ミズーリ艦上で日本と連合軍の間で協定が締結された日で本当の終戦の日であり、日本にとっては敗戦の日であるにもかかわらず、新聞に書かれていたのは衆院選とカトリーナの話だけでした。著者の言うとおり、いまだに日本人にとっての終戦とは天皇の言葉(詔という言い方もありますが)を中心に定義づけられているという見方に不自然さを感じた次第です。
かなり強い言葉を使っていいますと、終戦をめぐっても日本はある意味、天皇が国民に終戦を知らせたという日本人にとっての「終戦」をいまだに国内的に見た「終戦」と位置づけているところに一種の自己中心的な処理方法を見るのです。この点に関しては反発を呼ぶかも知れませんが、あえて書いてしまいます。
国内向けに自国内で不戦の誓いをしたとしても、それが適切に先の対戦に巻き込まれた国々むけた「対外的」なメッセージになりうるのかというと、そうとも思えないのです。この日を終戦記念日にし続けていることに、メディアの影響力の恐ろしさというか、自然と8月15日ですべてが終わったと思えてしまえる現状の怖さを痛感できるそんな本です。
情報量の多さ・正確さ、過去の歴史の忠実な引用、「終戦」に対する日本国内と国際的見解の違い、などがわかりやすく的確に述べられています。何を持って戦争が終わったとするのか、の判断基準はひとそれぞれで違うと思います。国内向けに終戦の記念する日をもうけて、追悼と不戦の誓いを立てることは何も問題ではありません。
ですが、それはあくまで国内向けのものとしか役割を果たしておらず、戦争に率先して参加した国や巻き込まれた国全てを含めての共通の意志を醸成していくには、やはり国際的な見解も含めた上での対外的な終戦記念日に日本人自身が感心を持つことが大事だと思うのです。8月15日が第二次大戦の終結であるという誤解を解くためには必読の本です。本当の戦後史観を見つけることができると思います。