生と権力の哲学 (ちくま新書 598)

著者 :
  • 筑摩書房
3.13
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本棚登録 : 111
感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480063038

作品紹介・あらすじ

権力とはわれわれの外にあって、人々を押さえつけるようにだけ働くものではない。それは、「見えない」かたちで動き、われわれを「殺す」よりも「生かす」ものとして働く不気味なシステムなのだ。厳密な実証的研究を踏まえながら、権理論に新たな位相をひらいた知の巨人、フーコーの思想を中心に、その課題を現代的な場面で捉えなおすべく苦闘するドゥルーズ、アガンベン、ネグリらの問題意識とその論理を丁寧に読み解くことによって、グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、「ポジティヴ」に戦い続ける希望を提示する。

感想・レビュー・書評

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  • 権力と主体をめぐって、フーコー、ドゥルーズ、ネグリ、アガンベンとその思考をたどっていく。問題設定が切実に感じられたために、記述の抽象性にもかかわらず、ぐいぐいと読み込むことができた。社会的存在としての私をどういう戦略で生きていくか、幾度も考えさせられた。

  • [ 内容 ]
    権力とはわれわれの外にあって、人々を押さえつけるようにだけ働くものではない。
    それは、「見えない」かたちで動き、われわれを「殺す」よりも「生かす」ものとして働く不気味なシステムなのだ。
    厳密な実証的研究を踏まえながら、権理論に新たな位相をひらいた知の巨人、フーコーの思想を中心に、その課題を現代的な場面で捉えなおすべく苦闘するドゥルーズ、アガンベン、ネグリらの問題意識とその論理を丁寧に読み解くことによって、グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、「ポジティヴ」に戦い続ける希望を提示する。

    [ 目次 ]
    第1章 不可視の権力―生政治学とは何か
    第2章 「真理」の系譜学―フーコーの課題
    第3章 「人間」のつくられ方―『狂気の歴史』から『監獄の誕生』へ
    第4章 セクシュアリティーと生権力―『性の歴史第一巻』
    第5章 「外」の力と「法」の逆説―ドゥルーズとアガンベン
    第6章 帝国とマルチチュード―ネグリの挑戦

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • いつか必要になりそう。でも、いまはまだ難しすぎる。

  • 後期フーコーの生権力論の核心をこれほど明快に浮かび上がらせた論考は初めてである。ドゥルーズの生の形而上学にもとづく管理社会論との対質も興味深く、アガンベンの剥き出しの生や証言をめぐる議論や、ネグリの帝国論も示唆的である。むろん、生権力に対する抵抗の可能性を中心に、今一歩踏み込んだ議論を望む向きもあろうが、入門書としての議論の深さは充分すぎるほどである。

  • フーコーは「正義」に依拠する思考を徹底的に拒絶する。そうした「革命」の夢想が、実は管理=コントロール型権力が発揮される、もっとも格好の実例ですらあることを、理論的にも歴史的にも確認しようとする。フーコーの<生権力>論の一つの核は、排除されたもののルサンチマンに支えられた転覆の思考が、実際には権力の補完物や相補物でしかありえないという、この時代の政治的主張の困難さをどこまでも問いつめていくことになる。p32

    正しい社会をつくるために、誰もが監視の一機構になり、誰もが権力の一翼を担い、誰もが誰かくぉ売り飛ばす。p106

    生命と衝動によって見いだされる性という領域こそが、権力の攻略点であり、倫理や政治の焦点になることを、フーコーは示している。0111

    「抵抗」とは「人間」によって行われるものではない。「人間」の視線に依拠した何かを述べたとしても、それは「人間」であることを支える<生権力>に絡めとられるだけである。そうではなく、われわれ自らが「人間」の「外」の「力」である可能性を秘めていることを、徹底的に見いださなければならない。端的に「人間」の「外」にあるものが「生命」である。それはわれわれにとって異様な面持ちにおいて現れるかもしれない。そこでは、物質としての生命そのものが、「人間」という枠組みの「外」で、多型的な可能性を生みだすのである。情報と生命のテクノロジーは、われわれにとって、こうした「生命」の力をとりだす契機でありうる。生権力的なものに「抵抗」することとは、こうした、「非=人間」としての自己を見いだすことにおいて、積極的に描かれるべきではないのか。p157

    「法」とは、通常では「適法」か「違法」かの判断を与えるものである。だがそれは、あくまでも「法」の「内部」における議論にすぎない。あるいは「法」が成立した「内部」で描かれる「主権」に通用する議論にすぎない。そうした事態が覆されるのは、「法」が想定しない「例外」や、「法」そのものの「外」についての判断を下さなければならないときである。「法」はつねに、そうした「法」の「外」に触れている(単純にいえば、「法」は革命によって組み替えられうる)。p184

    アガンベンは、「法」の「外部」を、たんなる「否定性」として放置するのではない。そこには生命という内実を見いだしながら、「法」を思考しなおそうとするのである。生とはまさに「例外状態」を引き起こすものである。「剥き出しの生」は「法」の「外部」でありながら、「法」に絶対的に現前してしまう。p189

  • やっとこの本で「生権力」ってのが何かわかった気がする。けど結局はフーコーも読まなきゃいかんのか、と思ってしまうのだが。

    ものすごく単純に理解してみる。「超越」的な何か(「法」や「王」)を想定する権力とは、違反したり気に食わないことがあったら殺しちゃうよ、という脅しを利用しながら、「抑圧」「禁止」によって支配する。ところが、「生権力」は人間の「生」のあらゆるところにしのびこんでくる。人間が何かをする、その「する」というところに働きかける権力のことを指していて、「超越」的な権力とは全然違う。

    たとえば「不倫したら死刑」という法律があっても、見つかったら罰されるけど、見つからなかったらやりたい放題。この点で、「法」という「超越」的権力は、抜け穴が多い。

    ところが、「生権力」は、法律学やら、心理学やら、メディアやらなんやらの大量の言説を駆使して「不倫」を分析の対象にすることに主眼がある。その結果、たとえば「だらしのない人間が不倫をします」「脳がおかしい人が不倫をします」とか(あくまでたとえです)いう言説が広まる。そうすると、みんなは「不倫とかしたら、他の人から頭おかしい人と思われるなあ・・・」と思って、不倫しなくなる。そこには、道徳観念とか以前に、実は「生権力」が働いている、と。

    まあ、そう言われると確かに権力の考え方としては、新鮮だ。学者をはじめみんながこの考え方に、どどーっと流れていったのもわかる気がする。

    しかしまあ、今さら僕が時代遅れのニューアカ信奉者でもあるまいし、フーコーやらを援用して研究をしても仕方がない。というか、かなわない。参考にするべきは、対象の捉え方かなと思う。「権力」に対するイメージも、実は全然違ったイメージで「生権力」って形で捉えることができたわけだし。なんというか、どうやって既成の概念を捉え返せるかっていう視点を大切にしていきたいなあ、と思う。

    まあ、要はやっぱ現代思想は僕には難しいなあ。哲学や思想史専攻じゃなくてよかった、と思う。

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著者プロフィール

檜垣 立哉 1964年生。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中途退学。大阪大学名誉教授、専修大学文学部教授。哲学・現代思想。著書に『生命と身体』(勁草書房)、『日本近代思想論』『ヴィータ・テクニカ』(青土社)、『バロックの哲学』(岩波書店)、『日本哲学原論序説』(人文書院)、『ベルクソンの哲学』『西田幾多郎の生命哲学』(講談社学術文庫)、『哲学者がみた日本競馬』(教育評論社)、監訳書にN.ローズ『生そのものの政治学』(法政大学出版局)ほか。

「2023年 『ニューロ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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