自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

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著者 : 大屋雄裕
  • 筑摩書房 (2007年9月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480063809

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)の感想・レビュー・書評

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  • 大本事件→第二次大本事件は共産主義運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を宗教団体に適用した最初の案件であった。
    神話・宗教対立(国之常立神、くにのとこたちのかみという神を、大本は重要視。日本神話において、その神は天照大神より上位におかれてる。そのため、国家神道との対立は必至であった。)を踏まえて、対共産主義としての治安維持を宗教団体に適用した事例。つまり、国家権力はいつでもその標的を変更することができる。
    リバタリアニズムは、完全自由主義で、政府の役目は監視のみでよい。ロックの自然状態にたいし、支配的保護会社が神の見えざる手によってできる。
     ギルドは製品管理を行い、罰としてシュップフェンを。現世と彼岸を結ぶ。残し。特許はグーテンベルグが活版を有償提供したことに始まる シュティルナー 個人を属性や概念に押し込めると自由がなくなる、これをエゴイズムといい、自我の唯一性、絶対性を主張した ポル・ポト カンボジアでホロコースト 新宿には50台の監視カメラあり、新宿警察署と本部で監視 
    パノプティコン的分類  
    →功利主義、帰結主義行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性、英: utility)によって決定されるとする考え方、のベンサムが設計した刑務所。監視人からすべてが見えるが、収容者からは何も見えない。
    客体
    自由を選び、帰結を受容する。

    監視カメラはつけるべき。行動は監視カメラで、ネットなども監視されている。
    プライバシーはないと思うが、綺麗事をいう段階はもう過ぎたと考える。

  • 筆者は新鋭の法哲学者の大屋雄裕。彼の仕事内容を知っている者からすれば本書の内容には幾らかの落胆を覚えるかもしれない。というのは、本書のテーマを学問的に把握するならば、それは社会学と言うべき内容になっているからである。これは、現代の政治哲学・法哲学(法価値論)は権力論を政治学と社会学に譲渡し、専らは正義論に終始しているという学問状況に由来している。また、「自由とは何か」というタイトルとは裏腹に自由の概念規定には踏み込まない。これは単に筆者に特有のことではなく、師匠の井上達夫も喝破するように、この規定が袋小路に陥るという認識に基づいているからだろう。本書のテーマは、「はじめに」にある通り、主体としての「自由な個人」を再検討することである。

    第一章「規則と自由」において注目すべきは、自由を制約するものとして認識される国家を社会契約から検討し、国家による脅威が実際には私と同じ個人に由来するというものである。社会契約や古典的自由主義を学べば当然に思えるこの事実が、時の経過とともに変容してきたことを再認識させられる。そして、この自由の制約からバーリンの自由の概念を整理する。ここで重要なのは大屋自身の議論ではなく、井上達夫が『自由論』で展開したそれだろう。

    第二章「監視と自由」では、主に規律訓練型の権力が国家と同様に両義的であることを示されている。そうしてアーキテクチャに議論を拡げるのだが、ここで注意しなければならないことがある。それは、アーキテクチャが規律訓練型の権力作用としてのみ論じられている点である。アーキテクチャとは、規律訓練型のそれであると同時に、環境管理型のそれであるということである。前者は主体化として把握されるが、後者は自由化として提示されるものである。しかしながら、メーガン法を例に、人権の衝突の問題を整理し、事前規制と事後規制とを区別する議論は非常に興味深い。

    第三章「責任と自由」では、刑法学史なるものを確認していくのだが、これは勉強になる。刑法を学んだ経験があっても、この種の記述は見落としがちになるからである。しかし、第三章で重要なのは第三節「責任のための闘争」である。刑罰の軽化は犯罪者にとっては利益になるだろうが、それが障碍者であった場合はどうか。刑罰の軽化は、権利の制限を意味していたのである。すなわち責任能力の欠除である。一般に、責任は自由の存するところに見出される。自由あってこその責任だと言うのだ。だが、大屋はこのような目的手段関係ではなく、「生成的な関係」として自由と責任を捉えるのである。
    ”「自由な個人」だから帰結の責任を負わなくてはならないのではなく、責任を負うときに・そのことによって私は「自由な個人」になる。ここでは、自由と責任のあいだの因果関係が逆転しているである。”

  • 野矢茂樹の「根源的規約主義」の立場から法解釈の問題に切り込んでいる気鋭の法哲学者が、監視社会の問題を手がかりに「個人」と「自由」の問題を論じている。

    アメリカの憲法学者L・レッシグは著書『CODE』の中で、現代社会における「アーキテクチャによる支配」を問題にしている。ここでの「アーキテクチャ」とは、「社会生活の物理的に作られた環境」のことで、私たちが行為をおこなう空間のあり方を変容することで、私たちの行為をコントロールする仕組みを意味している。アーキテクチャを利用することで、人びとに支配されているという意識を引き起こすことなしに人びとを従わせることができる。何かによって自由が制約されると私たちが言うとき、それによって何かが不可能になったという意識が必要になるが、アーキテクチャによる支配は、人びとからそうした意識を奪ってしまう。

    個々人のデータによって人間集団をさまざまな消費者類型に分類し、それぞれの経済的価値に応じた扱いがコンピュータによって効率的に割り当てられるマーケティング・システムを、社会学者のO・H・ギャンディは「パノプティコン的分類」と呼んだ。こうした、私たちの行為に先立ってそれを予測し、先回りしてそれを提供するシステムは、自発的に責任を引き受けることによって生まれる「自由な個人」という近代独自のフィクションを掘り崩すことになる。

    功利主義の立場を取る安藤馨は、個人の人格を基礎とする自立という観念をもはや必要としない、アーキテクチャによる統治が発達することで、人びとの効用が増大するのであれば、「個人」という観念の意義が低下してゆくことを肯定的に捉える。これに対して著者は、「自由な個人」という観念がフィクションであることを承認しつつ、私たちが特定の振舞いを個人の自由な行為とみなすことの意義を擁護しようとしている。

    「個人」というフィクションが持つ意義が具体的に論じられていないところに少し不満を覚えた。少し期待水準が高すぎたせいかもしれない。

  • 新書というパッケージに騙されるな、面白い

  • 2011/04/23 @kappamark

  • 2010 10/19読了。筑波大学中央図書館で借りた。
    アクセスログ分析を行う身として、また図書館の利用ログに基づくリコメンデーションや行動ターゲティングについて扱う上で避けては通れないトピックかな、と思い手に取った本。
    最初の問題設定が単なる監視社会への違反や違和感表明にとどまっていない(詳しくは引用参照)点に期待を持って読み進めた。
    国家のものではない監視の欲望への言及など頷くところ多し。
    アーキテクチャ関連では、あとはやはり『CODE』読まないわけにはいかないかなあ、ということも再確認。

  • [ 内容 ]
    かつてより快適な暮らしが実現した現代社会。
    各人の振る舞いは膨大なデータとして蓄積され、“好み”の商品情報が自動的に示される。
    さらにはさまざまな危険を防ぐため、あらかじめ安全に配慮した設計がなされる。
    こうして快適で安全な監視社会化が進む。
    これは私たち自身が望んだことでもある。
    しかし、ある枠内でしか“自由”に振る舞えず、しかも、そのように制約されていることを知らずにいて、本当に「自由」と言えるのか。
    「自由」という、古典的かつ重要な思想的問題に新たな視角から鋭く切り込む。

    [ 目次 ]
    第1章 規則と自由(「個人」の自己決定と法・政治 自由への障害 二つの自由―バーリンの自由論 交錯する自由)
    第2章 監視と自由(見ることの権力 強化される監視 ヨハネスブルク・自衛・監視 監視と統計と先取り 監視・配慮・権力 「配慮」の意味 衝突する人権? 事前の規制・事後の規制 規制手段とその特質)
    第3章 責任と自由(刑法における責任と自由 自己決定のメカニズム 責任のための闘争―刑法四〇条削除問題 主体と責任)

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    [ 参考となる書評 ]

  • かつてより快適な暮らしが実現した現代社会。各人の振る舞いは膨大なデータとして蓄積され、“好み”の商品情報が自動的に示される。さらにはさまざまな危険を防ぐため、あらかじめ安全に配慮した設計がなされる。こうして快適で安全な監視社会化が進む。これは私たち自身が望んだことでもある。しかし、ある枠内でしか“自由”に振る舞えず、しかも、そのように制約されていることを知らずにいて、本当に「自由」と言えるのか。「自由」という、古典的かつ重要な思想的問題に新たな視角から鋭く切り込む。

  • 「行為とは暗闇の中のジャンプである」(p175)。柄谷行人できたか。

  • NDC分類: 321.1.

    おすすめ バーリンの2つの自由からはじまって、法学をベースに社会・人文科学の諸分野の成果により「自由な個人」を論じる。

    素晴らしいバランス感覚。

    著者の出す結論自体はオーソドックスに「近代的個人の擁護」となるんだろうけど、この概念について指摘される問題点・強力な批判にきちんと答えている。

    結論というよりそこに至るプロセスに説得力があった。

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自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)の作品紹介

かつてより快適な暮らしが実現した現代社会。各人の振る舞いは膨大なデータとして蓄積され、"好み"の商品情報が自動的に示される。さらにはさまざまな危険を防ぐため、あらかじめ安全に配慮した設計がなされる。こうして快適で安全な監視社会化が進む。これは私たち自身が望んだことでもある。しかし、ある枠内でしか"自由"に振る舞えず、しかも、そのように制約されていることを知らずにいて、本当に「自由」と言えるのか。「自由」という、古典的かつ重要な思想的問題に新たな視角から鋭く切り込む。

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