ドゥルーズ入門 (ちくま新書 776)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 13
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  • Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480064813

感想・レビュー・書評

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  • 未読の本として開いたつもりが、いたるところ、青い線が引かれていた。が、驚くことに一切記憶にない。それが面白くて、(おそらく)再読を始めた。この本を読んだであろう自分と今の自分は同一人物なのか。
    ところが本書を読み進めれば読みすすめるほど、過去と未来の境目が曖昧になっていくのだ。
    時間が流れているというイメージ。それが、本書で完全に払拭された。時間が先へ進むというのは、単に時計の針からの連想。物はただ、動いたり、たんに変化したりしているだけ。へんに、個体としての老朽化といった方向=意味があるものだから、誤解しがちだが、ちがう、それは単に視点を一つに固定しているからそう感じるだけだ。負のエントロピーをどうにか維持するのが生命であるからには、それに外れるものが悪いものとされる。おそらくそれが流れとしての時間を形づくっている。それはへたに言語があるがゆえの弊害。メタな視点があるがゆえの弊害。

    ーーーーーー
    ドゥルーズが投身自殺した日のことをはっきりと覚えている。それはあるデリダ研究者から知らされた。生を肯定する哲学を展開したドゥルーズがなぜ自殺を?そう短絡的に思ったものだ。しかし本書を読み返した後では、その理由がかなりわかる。語弊を恐れずに言うなら、それは「楽観的な自殺」だったのだろう。より正確にいえば「悲観的ではない自殺」。そして死が一回性のものである以上、ドゥルーズはひとつの「賭け」に出たのだ。賽子の一擲。その冒険をひたすら祝福したい。イヴ・クラインの「飛翔、あるいは...」がその冒険に肉薄している。

    自分が死に瀕したさい、きっとドゥルーズの著作を読む(読み返す)と思う。死を、ただ生の欠如と捉えないこと。それを戒めにしたいと思う。

  • ドゥルーズがいかにベルクソンに影響を受けたかが丁寧に整理されている。一方で新書ながらも用語が多く、入門書とはいえない。ドゥルーズを改めて別の本で読み直して再度挑戦したい。新書にする意味はあるのかしらと思いました。

  • ドゥルーズの「哲学」とは何か
    ドゥルーズと哲学史
    『差異と反復』―ドゥルーズ・システム論
    『意味の論理学』―言葉と身体
    ドゥルーズ=ガタリの方へ―文学機械論

    著者:檜垣立哉(1964-)

  • 第3章までは何とかついていったものの、その後は集中力を失った。著者がNHK出版から出した入門書で理解できたこと以上のことは、あまりわからなかった。

  • [ 内容 ]
    没後十年以上の時を経て、その思想の意義がさらに重みを増す哲学者ドゥルーズ。
    しかし、そのテクストは必ずしも読みやすいとはいいがたい。
    本書は、ドゥルーズの哲学史的な位置付けと、その思想的変遷を丁寧に追いながら、『差異と反復』『意味の論理学』の二大主著を中心にその豊かなイマージュと明晰な論理を読み解く。
    ドゥルーズを読むすべての人の羅針盤となる決定的入門書。

    [ 目次 ]
    第1章 ドゥルーズの「哲学」とは何か(内包性と潜在性;十九世紀という文脈 ほか)
    第2章 ドゥルーズと哲学史(ドゥルーズのコンテクスト;テクストの存在論化的読解 ほか)
    第3章 『差異と反復』―ドゥルーズ・システム論(二つの主著;反表象主義の哲学 ほか)
    第4章 『意味の論理学』―言葉と身体(『意味の論理学』について;静的発生と動的発生 ほか)
    第5章 ドゥルーズ=ガタリの方へ―文学機械論(ドゥルーズと文学―ドゥルーズと言語;クロソウスキー論 ほか)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 主にガタリと協働する前のドゥルーズについて、特に『差異と反復』と『意味の論理学』という二つの重要な著作にフォーカスしてその思想を読み解こうとした本。この二書の位置づけと、そこからガタリと協働した後の思想との違いについては、きちんとした視点を持っていて参考になることは多い。

    冒頭は主にベルクソン、ニーチェ、スピノザからドゥルーズの初期思考や通奏低音となる考えをたどっている。ベルクソンの持続と過去の話からドゥルーズの潜在性の概念へのつながり(p.43-57)は、もっとも分かりやすいところだろう(ただしベルクソンを読んでいないと何も分からない)。続いて1960年代後半の二つの著書の話に入る。ここでのメインテーマは「発生」と捉えられている。この議論はカント以降に脈々と哲学において続けられ、1960年当時のフランスでも現象学を中心に(ベルクソンでも)大きな潮流だった。経験や現象を可能としているものから、それらがどう成立してくるかを示すという超越論的発生論である。『差異と反復』と『意味の論理学』の違いは、後者に現れる高所・表層・深層の三つ概念を使って語られている。『差異と反復』が主に述べるのは、表層(超越論的領野)から高所(現象)の成立であり、これは静的発生と呼ばれる(p.70)。なかでも、個体化を導く未規定な「理念」についての記述はよく書けている(p.96-105)。

    一方、『意味の論理学』では器官なき身体や分裂症に仮託して語られるのは、深層の世界である。深層から表層と高所が発生してくる動的発生がここで問題となる(p.128)。つまり、『意味の論理学』は「身体と言語とをテーマとし、パラドックスの装置に依拠しながら、『差異と反復』で描かれていた発生論を、動的な深淵から捉え返す試み」(p.177)である。ガタリ以降のドゥルーズはこうした深層を更に論じていくわけだが、そのことは機械や器官なき身体といった、それ以降の重要な概念が『意味の論理学』に現れることでも分かる。

    ガタリとの協働を始めたドゥルーズの思想を著者は「転回」として捉える。それは何よりも、『差異と反復』『意味の論理学』にあった発生論の放棄である。その代わりに語られるのが、機械性や平面性、発生論ではないコード化論である(p.202-204)。こうした発生論を放棄したドゥルーズは我々の経験や現象に至る垂直的な発生については語らない。代わりに、そうした経験や現象が単なる副次的事象でしかないような機械のアジャンスマンについて語られることになる。ここで面白かったのが、この転回にドゥルーズの文学論が関わっているという指摘(p.179)だ。著者は特に、『プルーストとシーニュ』の改訂版における書き換えにそれを見ている(p.184f)。日常的な現象を突き破り、垂直的な発生論を打開する道を、芸術の力能が拓いていく(p.203-207)。この芸術論の位置づけは参考になることが多い。

    さて。この本は入門書と言いつつ、ドゥルーズの概念を無批判的に使いすぎではないだろうか。著者は渡辺二郎のハイデガー本のドゥルーズ版、哲学の脱神秘化・通俗化を目指した(p.211)と書くが、それならば概念をきちんと説明して位置づけないと解説にならない。多くの概念が何の説明もなく使われる。ドゥルーズの思想にある程度、馴染んでいる人間にはそれらの概念間の位置づけとして読めるが、そうでなければほぼ何も分からない本だろう。ドゥルーズの思想の通俗化とはかなり遠いと思われる。例えば存在の一義性について、後期のドゥルーズでは平滑空間、リゾームに当たるものとするが、これらはだいぶ適用される領域の違う概念である(誤解を恐れず言えば、カテゴリが違う)。また、例えば次の二つの文章。
    「一義性とは、階層性のない、バロック的多孔空間のことである。一義性とは、中心がないことによって、あらゆる場面が等しく分散した中心をなしている空間性のあり方である。」(p.62)
    一義性とは空間なのか?空間性のあり方なのか?そもそも、空間のあり方ではなく、空間性のあり方とは何のことか?空間のあり方なら例えば曲率などのパラメータでの特定、あるいはどんな空間と同型となるかによって特徴づけることができよう。だが空間性のあり方とは何のことか。この文章がまだ「~等しく分散した中心をなしているというあり方をしている空間である」なら、球面とかトーラス面を思い浮かべて少なくとも第一文との整合性は推測できる。万事、こうした調子なのであまり細かく付き合っても仕方ない。ドゥルーズ自体がこうした自由な言葉の使い方をするが、解説する人間が同じようにしても仕方ないのではないか。

    以下の残りは自由連想である。『差異と反復』における無限大と無限小の議論がある(p.72-85)が、数学を多少とも知っている人間にとってはチープすぎる。無限大についての19世紀以降の数学の発展について触れられているが、議論自体はヘーゲルの話であり、この議論なら集合論は必要ない。カントールが革命的であったのは、無限回の操作の結果を再び操作の対象とできること(→無限タイプの導入)と、そうした様々な操作による無限の間に算術(超限算術)が定義できる、という点にある。この本で論じているような単なる有限と無限ではなく(まして有限を脅かす無限のようなものではなく)、無限にも多くの無限があり、例えば連続体濃度や可算無限の違い、到達不可能基数や可測基数などのモデル論上の違いなど興味深い論点がたくさんある。さらに言えば、これがドゥルーズがライプニッツを引き継いで語っているにせよ、無限小について関数のグラフまで持ちだして論じるならば無限小の概念にまつわる困難を数学史でフォローしないのは問題外だ。ワイヤーシュトラウスやコーシーが何を考えたのか、それがドゥルーズの無限小概念の使用にどう関係するのかを論じる必要がある。また、ロビンソンやネルソンの無限小解析の現代的な定式化まで目を配る必要があるだろう。こうした議論なしに無限小を語るのは、天動説に基づいて現代宇宙論を語るとか、エーテルの存在を仮定して現代物理学を語ってるに等しい議論だ。無限小の概念を大手を振って使用するには、大きな説明責任を果たさなければならない。きちんと考えられる人がいないものか。

  • 逗子図書館で読む。興味深い本でした。ただし、何を書いているのか不明です。本人は分かっているのでしょうか。そんな気になります。何故、分からないのでしょう。第1に、僕の知性の問題です。これが最大の問題です。後の問題は大した問題ではありません。第2に、前提となる知識の問題です。多分、この本の読者には自明なことです。ただし、僕には自明ではありません。例えば、この哲学者の経歴です。前の世代と大きく異なっていると指摘している。前の世代はアカデミズムにとどまらない活動をしている。それに対して、この哲学者はアカデミズム内のものだと指摘している。そうなんでしょう。ただし、前の世代のキャリアパスを紹介しなければ、納得できません。そういう部分が多すぎるのです。そんな気がします。

  • ミシェルフーコーが原型をつくり
    それをドゥルーズとガタリが地球規模にまで拡大したポストモダニズム、ポスト構造主義は

    地球市民学的見地からみても非常におもしろいですううう

    ちょっとPHPで出てる「ポスト構造主義はなんだったのか」
    ってのを読みなおしてみたい

  • 先端諸科学が描きだす、統一的でない諸学のメタ構造を考える。何かの経験や位相や時代に統合されえない、メタ的な場所を描きだす。これが、ドゥルーズやその世代の思想家に課されたテーマであったといえる。そのために、テクスト自身の、その読みの精度を高めていく。それはまさに、「超越論的経験論」を考えるという、そもそも異種結合のようなアイデアをもって繰り広げられるドゥルーズの記述の根本にあるものである。p43

    ベルクソンの読解においては、何がポイントであったのか。いうまでもなく、潜在的(ヴィルチュエル)なものが、「生命」という主題に深く結びつけられたことが捉えられるべきである。この二つのテーマを発展させることにおいて、ドゥルーズはまさにベルクソンの最良の後継者である。p44

    「可能と実在」の記述に見られるように、流れにおいて、何か新たなものが創造されることが問題なのである。たとえば新しい文学が生み出され、新たな潮流が形成されたとする。するとひとは、そうした新しいものは、過去に「可能性」に埋め込まれていたもので、そのひとつが実現されたのだと考えやすい。しかしそうした思考において、可能性とは、すでに実現したものを過去に投影することから成り立つものでしかない。ベルクソンはこれを、可能性にまつわる「回顧的」な錯覚と見なしている。つまり可能性とは、すでに過ぎてしまったことを後ろ向きに見直すことによって形成されるだけのものなのである。だがそれは、流れる時間を、流れた後で、空間化して捉えているにすぎない。p47

    生命であるものは、それがもつ潜在性によって、まさに未来に開かれている。それは本質的に開かれているのである。未決定性とは、決してネガティヴなことではない。そこでの未決定性は中途半端であることを意味しない。未決定性であることは、何か新しいものになりえ、そうした意味において、未来という時間を可能にする、そうしたポジティヴな存在であるということである。生命とは、そうした点において、潜在性の範型なのである。p54

    何を措いてもドゥルーズが自らの哲学の形成において、ベルクソンを乗り越える先に見いだすものは、ニーチェとスピノザなのである。ベルクソンの純粋記憶論の彼方にはニーチェの永劫回帰が置かれている。ベルクソン的な差異化−分化システムの根底には、ベルクソン的な差異の発想では視野に収められず、なおかつそれを「超越論的」に支えていくとされる位相である。こうした意味で、ニーチェとスピノザへの賞賛は、まさに手放しであり、いわばドゥルーズの思考が導かれていく再基底部を露呈されるものになっている。p56

    「内在」とは、逆説的であるのだが、一切の「超越」を除外した上で見いだされる「超越論的」な領野である。p58

    ドゥルーズがニーチェとスピノザから獲得したものは、ヒエラルキーのない、そしてそこで働く否定性の影もない、自己肯定的な空間の開示である。それは、頑迷に自己中心性を確保した上で、それを開き直って肯定するものではない。自己が自己であることそのものを、自己中心性なく肯定することである。p61

    自己は孤立した空間の内部に、自己だけが住まう領域として存在するのではない。だからそこでは、自己がありながら自己中心性がない。あるいは自己を何かの基準とともに、そこに到達しえないルサンチマンによって追求する必要がない。p62

    こうした自己肯定的な空間が「一義性」と名指されるものそのものである。「一義性」とは、後期のドゥルーズでは、「平滑空間」として、あるいは「リゾーム」として描かれるものであるのだが、それは『差異と反復』の概念装置において、何よりもヒエラルキーなき空間として押さえられている。一義性とは、階層性のない、バロック的多孔空間のことである。(中略) それはスピノザ的な意味での「内在」であり、徹底した「内在」への内属なのである。最も逆説的なことであるが、それこそが徹底した「外」を形成する。何の基準にも一致しないかぎりでの「外」に「内在」していること。p62

    このように見いだされた一義性や内在性の空間とは、それ自身何であるのか。それはまさに、「自然」という名で呼ばれているもおではないのか。自然であること、自然のなかに存在しつづけること、それが、超越的な一神教の発想を根底的に拒絶する、肯定的な思考の本性である。その点でスピノザが、無神論的な唯物論者といわれたこと、ニーチェの永劫回帰が一種の物理学的な思考と一致する相をもっていること、それは繋がりをもつだろう。唯物的で、物質的で、しかしそれ自身が時間的な開かれのなかでさまざまなものに変化する自然。こうした自然の肯定性をドゥルーズは世界への「信」と呼んでもいる。世界があることを信じること。それはヒエラルキー的に設定される超越を見いだすのではなく、内在的で唯物的なこの生を、そのままに受け入れることを意味している。p63


    ベルクソンにとって、現在とはそれ自身が流れの一断片にすぎないようないのだから、そうした流れそのものの方が「実在する」。そのような時間的な流れの過去になった部分には、ベルクソンにとって「記憶」という名が与えられている。記憶が流れの潜在性を形成し、その尖端が現在であるということになる。ここで「実在」に関する視覚の逆転が生じてしまうのである。ベルクソンにとっては、現在的なものが実在するというよりも、記憶こそが「潜在的」に実在する。そしてその帰結として記憶は、それが現在であって、ついでに記憶になるという二次的な仕方で形成されるのではなく、記憶そのものが、現在であることと同時に成立するのである。すべての記憶は現在と同時存在であり、なおかつ記憶の方が優先的に実在をなしている。p90

    「問いは、命令なのである。あるいはむしろ、問いは、その問いが生じてくる命令と、問題との関係を表現しているのである・・・・問題つまり理念は、問いとして提示される偶発事あるいは出来事としての命令から流出してくる」p105

    「パラドックスこそが哲学のパトスあるいは情念である」p113

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著者プロフィール

檜垣 立哉 1964年生。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中途退学。大阪大学名誉教授、専修大学文学部教授。哲学・現代思想。著書に『生命と身体』(勁草書房)、『日本近代思想論』『ヴィータ・テクニカ』(青土社)、『バロックの哲学』(岩波書店)、『日本哲学原論序説』(人文書院)、『ベルクソンの哲学』『西田幾多郎の生命哲学』(講談社学術文庫)、『哲学者がみた日本競馬』(教育評論社)、監訳書にN.ローズ『生そのものの政治学』(法政大学出版局)ほか。

「2023年 『ニューロ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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