コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書) (ちくま新書 800)
- 筑摩書房 (2009年8月8日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480065018
感想・レビュー・書評
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人のつながりの形と、地域社会の課題をつなげて考えている一冊で、複雑化している問題の各論について考えるのと同時に全体感としての方向性をどっちに向けていくべきなのかという部分を考える助けになる本だなと思いました。
道に迷って迷って「あ、こことつながってたんだ」って思う瞬間と同じような、この問題とこの問題はこうつなげるとうまくいくのでは、っていう瞬間が読んでいて何度かあって、自分でも実践できそうなことは取り組んでってみようと思っています。^^詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タイトルそのままで、コミュニティーとは何か?必要なのか?どうして今重要なのか?を語る一冊。
キーワードの1つである”定常化社会”すなわち成熟した経済社会の本質的な人間の価値の見直しと、そこにこそ本質的な価値創造性がある。本来、いずれの社会であっても、本質的な人間としての社会的価値創造が在るべきであるが、定常化社会であるからこそ、そこに気づかねばならなくなったという逆説的な現在なのかもしれない。
歴史的な社会構造の変化は、パイの分配への競争に向かい、そしてそこからの脱出という繰り返しがある。簡単に言えば、モノの消費から時間・空間の体感、言い換えると、欲望の見せびらかしから幸せという内的な感覚へと向かうということである。
社会現象的に言えば、都市化と過疎化の分離から引き戻しという現象が起きるともいえよう。
ところで、コミュニティーとは、外部に開いた性質のモノ。つまり、外部と接するときの1つの文化を持った固まり。
そして、外部とのつながりの交わりに文化の混乱が起こり、そこに創造性が生まれる。ということは、おっきく言うと、都市と田舎という2つの大きな塊となっている今の日本で、その2つの交わりを起こすところに創造性が起こるというともいえる。
しかし、ここでもう1つ大切なことは、都市と田舎という間にある傾斜的な意識である。創造性は、補完的な関係、つまり、相互に尊重し合うフラットな関係の間で起こるのであって、いずれかがいずれかを支配するような意識(簡単に言えば、都会が田舎を営利的に活用するといった感覚)では、永続的で本質的な創造は起きないと思うのである。
人は一人では生きていけないという。というが、果たして本質的にそれを実感しているかというと、その感覚は希薄なように感じる。というのは、当たり前に自身の周りの生活が豊かであるから。そして、当たり前に親がいて、20才とは言わないまでも、ほとんどの私たちは、生まれてからしばらくは生きることを全力に外部から守られる当然があるから。無くなって初めて知るということである。
今この定常化社会の最先端である日本に自身が身を置くことを貴重なタイミングとして、この先の社会がまた新たなモノの消費から時間・空間の体感を繰り返すスタート地点とするのではなく、その共生となる社会構造を創造することを始めたいと思うのである。
すなわち、ここで生きたい。そして、子供の子供にもここで生きてほしいと誇れて生きていけると安心できるところ、社会にするということである。 -
学問としてコミュニティについて考えている本。
コミュニティを研究する人以外は読まなくていいと思う。 -
会社や家族といった共同体が変化しつつある中、これからの日本社会にはどのようなコミュニティが求められるのかを論じている。
著者は本書の中で「持続可能な福祉都市」というものを提唱している。日本の都市(特に地方都市)は車での移動が基本なので、高齢者や障害者が徒歩中心の生活を送るのに適していない。これは車社会であるアメリカでも同じ。最近は若い人でも車を持たない人が増えているから、車中心の社会を見直してもいいかも知れない。
いいことは言っているんだけど、抽象的な部分が少なくないので、少し難しい印象を受けた。ある程度社会学の知識があった方が読めるかも。 -
コミュニティに関する興味深い論理展開。
様々なアプローチによって、コミュニティを「問い直す」というもの。
コミュニティを考える際に、手元に置いておきたい一冊。 -
自治体はしばしば株式会社に例えられる。実働部隊たる行政職員が社員であり、納税者たる住民が株主であると。
実情を鑑みれば、確かにこの例えは自治体のある側面を捉えているといえると思う。……が、俺は以前からこの例えに違和感をもっていた。どこか住民を客体化しているような気がして。
本書の著者も「(略)市民は“株主”に対応するともいえるが、見方を変えれば、市民は、その人が住んでいる「○○市」という団体の“社員”ともいえるかもしれない」(p53)と述べている。専門の学者先生が同じように考えていることが単純にうれしかった。
・高齢者=地域との関わりが強い人々、すなわち、高齢化社会=そうした人々が増える時代、という議論
・福祉に都市計画を関連させるという視座
・ストック(資産)の格差と社会保障の関係
など、中盤では実務的な示唆に富んだ議論が盛りだくさんで興味深かった。
終わりの方ではややアカデミックな議論を展開し、今後必要とされるであろう思想の、著者なりの方向性を控えめに示している。
これまでの人類の歴史がそうであったように、社会のパラダイムが大きく変革するときに必要とされる新しい思想が、現代は欠如しているという(現代は資本主義が飽和した時代で、新しい思想が求められているという文脈)。
このような時代に必要とされるのは、「有限性」(限られた資源の中で生きる人間をどのように位置づけるか)と「多様性」(古代から重視されてきた「普遍性」ではなく、むしろ、異なる歴史・風土・文化をもった集団をいかに承認し共存するか)をもった思想だという。
抽象的だし、なんとなく優等生的だけど、このさき現代思想について考えるとき、ここに立ち返って評価するといいかもしれない。 -
これは新書のレベルじゃない。
人生を懸けないと作れない大著だ。
参考文献100冊。
学問分野は経済学、社会学、心理学、人類学、宗教学、歴史学、哲学、倫理学をはじめ、科学論、独我論、医学、生物学、疫学、生気論、社会システム論、都市論、公共論、思想論、政策論、国家論、格差論、環境論、文化論、社会保障論、税制論、情報論、その他どこに分類して良いか分からない数々の体系から引用された知など、多岐に渡るというか、もはや学問分野の分類などという概念がアホらしくなるほどの広い視野を全て「コミュニティ」という一点を語るために集約して活用し尽くすという、恐ろしい本である。
そして、至る所に散見される「」や()や「或いは」「と呼ばれる」のような断定を留保し思考を促す表現に、読者に対する真摯さを感じる。
世の中にこのような智者が存在するという衝撃を覚悟できる者だけが、この本を手に取るべきだと思う。 -
●戦後の日本社会とは、一言でいえば「農村から都市への人口大移動」の歴史であったが、(略)都市に移った日本人は、(独立した個人と個人のつながりという意味での)都市的な関係性を築いていくかわりに、「カイシャ」そして「(核)家族」という、いわば”都市の中の村社会”ともいうべき、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。
そうしたあり方は、経済全体のパイが拡大する経済成長の時代には、カイシャや家族のパイの取り分の増大につながるという意味で一定の好循環を作っていた。しかし、経済が成熟化し、そうした好循環の前提が崩れるとともに、カイシャや家族のあり方が大きく流動化・多様化する現在のような時代においては、それはかえって個人の孤立を招き「生きづらい」社会や関係性を生み出す基底的な背景になっている。
*独我論と「普遍的な価値原理」P34*普遍的な原理が個人をつなぐ「通路」になるP247
●本章では、①独我論という問題、②普遍的な価値原理の不在、③経済成長という目標への一元化という三者が(戦後の高度経済成長以降の日本社会という社会構造を背景に)緊密に連動していることを確認した。今後の(経済成長という目標の絶対視から抜け出た)成熟化ないし定常化の時代におけるコミュニティやつながりの構築において(1)ごく日常的なレベルでの、挨拶などを含む「見知らぬ者」どうしのコミュニケーションや行動様式、(2)各地域でのNPO、社会的起業その他の「新しいコミュニティ」づくりにむけた多様な活動。(3)普遍的な価値原理のあ構築がポイントになると述べ、特に(3)の「普遍的な価値原理(=集団を超えた規範原理)の構築」について議論を展開した。P249*普遍的な思想の”同時多発性”P251*なぜこの時代に「普遍的な原理」を志向する思想がうまれたのかP260*文明の成熟化・定常化と規範原理P263 -
(「BOOK」データベースより)
戦後の日本社会で人々は、会社や家族という「共同体」を築き、生活の基盤としてきた。だが、そうした「関係性」のあり方を可能にした経済成長の時代が終わるとともに、個人の社会的孤立は深刻化している。「個人」がしっかりと独立しつつ、いかにして新たなコミュニティを創造するか―この問いの探究こそが、わが国の未来そして地球社会の今後を展望するうえでの中心的課題となろう。本書は、都市、グローバル化、社会保障、地域再生、ケア、科学、公共政策などの多様な観点から、新たな「つながり」の形を掘り下げる大胆な試みである。 -
残念ながらギブアップ。どうしても読み進められない、眠くなるという本があってこれは私にはそういう本です。
参考書的に拾い読みすることにします。