わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座 (ちくま新書 832)
- 筑摩書房 (2010年3月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480065391
作品紹介・あらすじ
ひとはなぜ、自由が拡大したのに不自由を感じ、豊かな社会になってかえって貧しさを感じるのか-現代人は、このようなパラドックスに気づき、向き合い、引き受けねば幸福にはなれない。「自由」「責任」の本質は何か。「弱さの力」とは何なのか。哲学の発想から、常識とは違う角度からものを見る方法を、読者とともに考える。人々と対話し思索を深める"臨床哲学"を実践してきた著者が、複雑化した社会のなかで、自らの言葉で考え、生き抜いていく力をサポートする。
感想・レビュー・書評
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生きてゆくうえで本当に大事なことにはたいてい答えがない。答えではなくて問うこと、それ自体のうちに問いの意味のほとんどがある。
大事なことは困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。
「受験勉強でついた頭の癖というのは存外しつこかった。」との鷲田さんの言葉に、自分自身の頭の使い方もそういうことかなと思った。短い時間で要領よく点数を稼ぐ方法を考える。わからなければ答えを見て、そこから解法を考える。常に答えをはやく探そうとしてしまう。
意味、人格、責任、自由など13章に、身近な例を挙げながら優しい語り口で考えが述べられている。答えとして書かれているのではなくても、考えるヒントになることがたくさん書かれていた。特に、身近な人間関係について大きなヒントをもらった。
少しずつまた読み返していきたいと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
わかりにくい問いをわかりやすい形にパッケージングし答えを出すことが知的な営みと思われる節があるが、わかりやすくする中で削ぎ落とされてしまうものの中に本質が宿っているかもしれない。
本質を失った問いは解いても解いても解決には向かわない。
まずはそのまま受け入れる、向かい合う事が良く生きる為の第一歩かもしれない。 -
自分がうだうだ悩んでることに対して先人たちはもうずっと前から深く考え続けていてその軌跡を遺してくれてたんだなあ
鷲田清一さんの本、他も必ず読んでみよう
意識はしばしば感覚のひだのなかに身を潜めている。重ねられた唇と唇のあいだ、閉じられた瞼、収縮した括約筋、拳をにぎりしめたときの手、押しつけ合った指、組み合わされた腿と腿のあいだ、一方の足の上に置かれた足といった場合がそれである。(……)皮膚の組織は自らの上に折り畳まれているのだと思う。肌は己自身の上に意識を持っており、また粘膜も自分自身の上に意識を持っている。折り畳まれたひだもなく、自分自身の上に触ることもないならば、真の内的感覚も、固有の肉体もないだろうし、体感も感じなくなり、(……)静止したような失神状態の中で意識もなく生きることとなろう。
悔しくて唇をぐっと噛みしめるとき、気合いを入れようと括約筋をぐっと締めるとき、大事なひとの安全を祈ろうとしっかり掌を合わせる時、そのときその皮膚が合わさった場所にこころはあると、セールは考えるのである。
顔を見つめあうとき、まなざしはすぐに金縛りにあったように、凍りつき、凝固してしまう。目がかち合うと、まなざしはたがいに密着してしまい、相手のまなざしを見るということ、つまり距離を置いて対象として見ることは不可能になる。見ることそのことが膠着するか、そのような膠着のなかで視線を無理やり引き剥がすか……。いずれにしても平静に相手の眼を見つづけることはできない。
……顔と顔のあいだは、言ってみれば、こうした粘着と引き剥がしという相反する力が交差する場、いわば磁場のようなものなのである。
……それは対象となることを拒む。それほどまでに顔は壊れやすい。じっと見つめられたときの居心地の悪さを思い出せばよい。視線が、見返す眼が、顔を壊し、歪める。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいないだろう。
つまり、人間の記憶というのは、縦並びから横並びへと徐々に変わってゆく。記憶は、若いあいだは何がどの年に起こったかが克明に記録されるクロノロジー(年代記)のかたちをとるが、やがてだいたいあの頃と言うふうに前後の秩序だけがはっきりしているパースペクティブ(遠近法)に移行し、最後は遠近もさだかでない1枚のピクチュア(絵)になる、というのだ。……ここには〈時〉をリニアに流れるものとしてとらえるのとは全く別の感受性がある。始めと終わりで区切られる直線の時間ではなく、ぐるぐる循環する円環の時間、輪廻転生の時間でもなく、別の「いま」が折り重なり、散乱している、そんな時間である。
〈時〉がばらけていくと言うのは、自分が、いや世界そのものがばらけてゆくということでもある。世界がそのようにばらけていって、「1枚のピクチュア」のようになったとき、世界はきっと、自分にとって意味のあることばかりが充満していながら、しかしどこか不気味な光景として現れてくるだろう。じっさい、過去のあるイメージが意識の中に現れることを拒み、それを無意識の中に圧しつめてきたわたしたちのそれじたい無意識の操作が、ある時不意にむき出しになることがある。その時、異なる「いま」の散乱のなかで、壮年期まで必死で紡いできた物語がばらけ、これまで意識したこともなかった別の下絵が浮き上がってくる。そのことによって、わたしたちはこれまでの「わたし」の外に出る。
つまり、苦しみや鬱ぎを当初あったのとは別の地平と移し変えるところに、他者を前におのれについて語ることの意味はある。語るということは、相手に回答をもらうということではない。見えない自分の姿を移すために、その鏡の役を相手にしてもらうことであるのだ。
……言葉というのは不思議なもので、交わせば交わすほどたがいの違いが際立ってくる。たがいに理解しあうということ、相手のことをわかるということは、相手と同じ気持ちになることだと思っているひとが多い。しかしそれは理解ではなく合唱みたいなものであって、同じものを見ていても感じることがこんなにも違うのかというふうに、違いを思い知らされることが、ほんとうの意味での理解ではないかと思う。
……聴くというのも、話を聴くと言うより、話そうとして話しきれないその疼きを聴くということだ。そして聴き手の聴く姿勢を察知してはじめてひとは口を開く。そのときはもう、聴いてもらえるだけでいいのであって、理解は起こらなくていい。
……こうして一つ、たしかなことが見えてくる。他者の理解とは、他者と一つの考えを共有する、あるいは他者と同じ気持ちになることではないということだ。むしろ、苦しい問題が発生しているまさにその場所にともに居合せ、そこから逃げないということだ。
むきだしの〈個〉
できないことを「できる」ことの埋め合わせるべき欠如と考えるのではなく、「できない」ことそのことの意味を考え、そこからあえて言えば、「できなくなることでできるようになること」というか、かならずしも「できる」ことをめざさない、そういう生のあり方をこそ考えねばならないであろう。
家族とは葛藤のるつぼである。しかもそこから下りることを許さない関係である。よほどのことがなければ解消できない関係である。
では、思考のその肺活量とは何か。それは、いますぐわからないことに、わからないままつきあう思考の体力と言ってもよいし、あるいはすぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされつづける耐性と言ってもよい。
……「これはこれです」
曖昧なものを曖昧なままに正確に表現する、一箇所もゆるがせにしないで、正確に、これしかないという表現へともたらすこと、これが画家の力量である。
……大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。目の前にある二者択一、あるいは二項対立にさらされつづけること、対立を前にして考え込み、考えに考えてやがてその外へ出ること、それが思考の原型なのに、そうした対立をあらかじめ削除しておく、均しておくというのが、現代、ひとびとの思考の趨勢であるように思われてならない。
哲学の仕事は、だれもが仄かに感知しているのにまだよく摑めていない、そういう時代の構造の変化に、概念的な結晶作用を起こさせることにあるはずだ。未知の概念をそこに挿入することで、その変化にある立体的なかたちを付与するものであるはずだ。時代はつねにそういう発見的な言葉を求めている。
そういう視界を概念によって開くためには、「わたしたち」の生のうんと外側に光源をとって世界を見るようなまなざしが必要である。「わたしたち」の思考のなかに安住していては、そういう補助線は引けない。ひとが見たいと思っているのは、その視野のなかで最良のものでしかない。ひとは「わたしたち」の外輪山のさらにその外側に視点をとって、いわばもっと「大人げない」夢を見なければならない。
→プロレタリア、無意識、狂気、飼い慣らされていない生の芸術(幼児や精神障碍者の描画)、過去の社会 -
タイトルに惹かれて読みました。先に読んだ同著者の「〈ひと〉の現象学」とほぼ内容が被っていましたが、解りやさすさ(ライトな切り口)はこちらの方。「生きてゆくうえでほんとうに大事なことには、たいてい答えがない」として、それを問うこと自体に意味があると言う。解らないことに出会った時、それを安易な、解りやすい論理に当て嵌めて解ろうとしないこと、解らないまま、正解がないまま、いかに正確にそれについて対処するのが大事だとも。物質的に豊かになった現代社会は「速い」ことが「善」とされるだけに、何でも「早く」(速く)どうにかしなければという思いに駆られがちだ。確かにスピードを要される物事もあるけれど、何かをじっくり「思考する」「待つ」という姿勢も忘れてはいけないように思う。
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ヴェリーベストオブ鷲田清一。
わからないことに囲まれたとき、答えがないままそれでも正解に近づくためにどう対処するか。わかるとわからないの境界をぼかす。わからないことをわかる。まだわかっていないことをわかる。また出た、ここでもわからないことへの耐性と寛容のはなし。 -
平易な語り口で生活に近いテーマを取り扱っていて面白かった。臨床哲学という領域に降れた経験は初めてだと思うけれど、参考になる内容が多く記載されていた。特に「コミュニケーションについて」「弱さについて」については日ごろ考えているが自分の中で整理できなかったことがしっかりと記載されていて、非常にうれしく感じた。
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所有できないものしか所有できない?―自由について が一番印象的で発見があった。ただし、臨床哲学というコンセプトには疑問がある。哲学はカウンセリングではない。そこを勘違いしている人は結果的に不幸になるケースが多いように思うが。
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サラリと読める
よかったが印象に残らない -
問いについて問う―意味について
こころは見える?―ふるまいについて
顔は見えない?―人格について
ひとは観念を食べる?―生理について
時は流れない?―時間について
待つことなく待つ?―ホスピタリティについて
しなければならないことがしたいこと?―責任について
所有できないものしか所有できない?―自由について
同じになるよりすれ違いが大事?―コミュニケーションについて
できなくなってはじめてできること?―弱さについて
憧れつつ憎む?―家族について
未熟であるための成熟?―市民性について
わかりやすいはわかりにくい?―知性について
著者:鷲田清一(1949-、京都市、哲学者) -
旅のお供の一冊。
さくさく読める本でした。
「ネガティブ・ケイパビリティ」につながる内容だったので、今の私にぴったりでした。 -
NHKラジオ『こころをよむ』の講義テキストを加筆訂正した本です。「意味について」「ふるまいについて」「人格について」など、13のテーマをめぐって議論がなされています。
「臨床哲学講座」というサブタイトルが示すように、われわれの生活に密着したところから著者らしいしなやかな知性が静かに歩みを進めていきます。哲学的エッセイですが、池田晶子のような力みは感じられません。そこに、少しもの足りなさを覚えてしまうこともあります。 -
書名に代表されるタイトルの他に、「時は流れない?」「未熟であるための成熟?」と言った、パラドクシカルでレトリックでクエスチョンマークが付されたた章タイトルが続く。意識や認識に関する哲学かと思いきや、深い人生を送る上での処世訓というか、(有体だが)生き方のヒントのような文章である。新書化された底本はシニア向け講義録とのことなので、やや懐古趣味的な印象もあるが、落ち着いて静かに読み進められる詩のような文章だった。
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苦手な鷲田さんに少しでも慣れるため、
意識して彼の著書を読むことにする。
でも、わかったような、わからないような。
まったくわからないのなら、
こんなに苦しまなくてすむのに・・・
自分の読解力不足に打ちのめされるわ。 -
たまぁに読みたい。
「思考のその肺活量とは何か 。それは 、いますぐわからないことに 、わからないままつきあう思考の体力と言ってもよいし 、あるいはすぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされつづける耐性と言ってもよい 」 -
大学受験を控えた者が必ず通る道にいる鷲田さん。
現代文の問題で苦労した記憶があります。
心に余裕をもって読んでみると感じられるところが多くあります。
高校時代の自信のなさからくる焦り。言いようのない不安。自分の存在意義のゆらぎなど…。
私は落ち着かないまま高校時代を過ごしました。どうすれば、焦りから解放されるのか、何をすれば自信がつくのか…。
こんなことを感じる人がいたら読んでみてほしいと思います。
考え方の根本から見直すことができます。
きっと心の処方箋になります。 -
考えること、この経験が人を成熟した大人に変えていく。
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臨床哲学を通していろんなテーマを易しく触れた入門書的なもの。わかりやすくて興味深く読めた
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「自由」、「家族」、「市民性」、「コミュニケーション」といった13のテーマについての考察。
特に「時間」についての話で、時を流れていくものとして捉えたところで、どうしてその流れを自覚できるのか、自分もその流れの中にいるのに、というあたりが面白いと思った。時を区切ることで時が駆られる、というのが面白い。うちの親は空いている時間は常に旅行に芝居に映画にと忙しく過ごしているが、この忙しさを作るのは時を駆るためではないかと思う。仕事をしないと自分から区切らないといけなくなってしまう、という例を表しているようだ。また、「責任」についての部分で、「何にでもなれるということは、あらかじめ何も決まっていないということ、(中略)自分がしたいことが見えないかぎり、何にもなれないということである」(p.94)の部分もなるほど、という感じ。この世の中、自分の生き方について何でもいい、とかよく分からない、という人は淘汰される、とまで言ってしまうと言い過ぎだろうか。でもこれと決めて、あるいはこうしたい、と思える人が圧倒的に強いことは確かだ。そう思えるように「キャリアデザイン」なんてことを考えなきゃいけないんだから。という、思考することの面白さを与えてくれる本だった。ただこういう文は高校の時に現代文なんかで読んでもめんどくさいと思うことの方が多かったが、今読むと面白いと思う。(14/06/--) -
見えないものを見てみようとする哲学の話。コミュニケーションについての考察が興味深い。
他者の理解とは、考えを共有したり、同じ気持ちになることではない。
相手と自分の違いを知ることが、他者を理解すること。
その差異を知りながらも、もっと相手を理解しようとその場に居続ける。そこに本当のコミュニケーションが生まれる。 -
生きがい、やりがい、働き甲斐、人は何かをするときに、それをすることの意味を問う。あるいは自分はなぜここにいるのか、自分がここにいることに何の意味があるのかという意味を問いただす。今、自分がやっていることの意味がわからないのは苦痛である。
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鷲田清一にしては、何を言いたいのかわかりづらかった!理解力不足!
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よく現代文の問題で使われてる鷲田清一さんの本を読んでみようと思って読みました。やはりこの人の書く話はよくわからないです。読解力欲しい。
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良いと思います。
とくに10章は秀逸 -
responsibilityとかhospitalityの意味についての話が、なるほどなぁと思った。意味をただ探すのではなく、保留してみるというのも一つなんだなと思う。特に意図したわけではないけど、医療や子育てにつながる話があったのが大きな収穫でした。
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パラドックス。反対側から見るとまた別のものが見えてくる。新鮮なのに、違和感なくすとんと落ちる内容。盲いだ眼をふわりと優しく啓いてくれる文章です。
先日、初めて鷲田先生の講演を聞きました。静かな語り口ながら、なかなか厳しい。聴衆が年配の方ばっかだったのはどうなんだろうか。若者にこそ届いてほしいメッセージが届いていないとしたら、残念。 -
〝ほんとのところよくわからない、とほんとうに思うようになるのが、ひょっとしたら老いのしるしなのだろうか。
死ぬ前に、理解できなくとも納得だけはしておきたい。自分がここにいる、いた、という事実を。
あるいは、ついに理解できなくても、このことがわからないという、そのことだけはわかっておきたい……。
近ごろ、しきりにそう希うようになった。〟
と、いう書き出しではじまるこの本は、「モードの迷宮」や「じぶん・この不思議な存在」の頃とはまったく異なる雰囲気を発している。
〝老い〟というものを見つめだしたからだろうか、その文章からは不思議な魅力が漂ってくるように思える。
文章が成熟しきっていて、一文一文を読むたびに感動してしまう。いつか自分もああいう文章を書けるようになりたい。
しかし、あまりに文章が上手であるということは、同時に大きな危険性をはらんでいる。
完璧な文章で書かれると、内容までなんだか完璧に思えてしまう。批判しようとする視点が失われ、無批判にそれを受け入れてしまいがちになるのだ。
その点は気を付けながら読まないといけないな…と常々思う。
(篠崎) -
第五章から読んだ。