正義論の名著 (ちくま新書)

  • 188人登録
  • 3.80評価
    • (6)
    • (13)
    • (10)
    • (1)
    • (0)
  • 18レビュー
著者 : 中山元
  • 筑摩書房 (2011年6月6日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480066121

正義論の名著 (ちくま新書)の感想・レビュー・書評

並び替え:

表示形式:

表示件数:

  • 【目次】
    目次 [003-006]
    はじめに [007-011]

    第一章 公共善と正義 013
    ホメロス『オデュッセイアー』――ゼウスの正義 014
    歓待/復讐の正義

    プラトン『国家』――正義は、国家や人間における調和である 018
    正義は強者の利益/正義と国家/国家の三つの階級/魂における正義/正義とは/不正な人の魂の状態/不正という災厄

    アリストテレス『ニコマコス倫理学』――正義とは公的な善の実現である 028
    正義とアレテー/正義の政治学/普遍的な正義/特殊的な正義/幾何学的な正義/矯正的な正義/正義としての貨幣

    キケロ『義務について』――徳の女王としての正義 039
    ギリシアの正義論の限界/キケロの普遍的な正義論/他国への正義/奴隷、女性、未成年への正義/公共善としての正義/徳の女王としての正義

    アウグスティヌス『神の国』――「遍歴の旅」の途上の正義 046
    神の国と地の国/最高善/ローマの正義の批判/地の国の正義/遍歴の旅の途上の正義

    トマス・アクイナス『神学大全』――天上の浄福を準備するのが支配者の正義 052
    トマスの正義論の目的/法と正義/正義の種類/体制論/世俗の支配者と魂の支配者

    マキアヴェッリ『君主論』――自由な共和国における正義 061
    正義と公共善の絆/マキアヴェッリの大衆観/マキアヴェッリの君主観/マキアヴェッリの願い/君主と民衆/公的な徳

    第二章 社会契約論と正義 071
    ホッブズ『リヴァイアサン』――国家が正義を執行する 073
    ホッブズの人間観/自然状態における平等/自然権/自然法/社会契約/正義の自然法/国家と正義/正義の回復の道

    スピノザ『エチカ』――民主的な国家のうちで最高の自由と正義が実現する 084
    スピノザの人間観/国家の成立/自然権の保持/正義/最高権力と正義/最善の国家/国家体制と正義

    ロック『市民政府論』――不法に抵抗するのは正義である 095
    ロックの自然状態/社会状態と所有権/所有権の基盤としての労働/歯止めの解消/貨幣/不平等な私有財産の承認/二重の不正/政府状態の設立/国家の形態

    ルソー『社会契約論』――社会契約が正義を実現する 110
    野生人と正義/社会状態と正義/正義の発達の三段階/革命の必要性/社会契約の課題/政治体の成立/国家法と正義/社会契約と正義

    カント『人倫の形而上学』――永遠平和のうちで地球的な正義を 124
    社会の成立/正義の社会/公民的な状態へ/法と正義/国家における正義と革命/国家体制論/世界公民状態へ

    第三章 市民社会論 137
    ヒューム『人性論』――人間はその本性からして社会を作り、正義を実現する 139
    社会の形成と効用/人間の反社会的な要素/三つの財産/正義の実現/正義の起源/情念論/穏やかな情念/道徳と正義

    アダム・スミス『道徳感情論』――人間には正義を望む道徳的な感情がある 150
    共感の概念/正義を守る法/中立な観察者/「内部の人」/社会の形成/見えざる手/経済学と正義

    ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』――最大多数の最大幸福 164
    最大多数の最大幸福/サンクション/立法者の視点/快楽計算

    ヘーゲル『法の哲学』――正義を欠いた幸福は善ではない 173
    人格と正義/不正と正義/道徳と正義/幸福と正義/市民社会と国家

    第四章 現代の正義論 181
    マルクス『ドイツ・イデオロギー』――イデオロギーとしての正義 183
    イデオロギーとは/搾取の不正義/分配的な正義/正義の社会

    ニーチェ『道徳の系譜学』――約束する人間の正義とルサンチマンの正義 189
    「約束する人間」の誕生/正義の弁証法――共同体の正義/正義の弁証法――矯正の正義/正義の弁証法――正義の止揚としての赦し/反動的な人間/ルサンチマンの正義/キリスト教の役割

    ベンヤミン「暴力批判論」――未曾有の正義 199
    暴力と正義/二種類の暴力/警察/神話的な暴力と神的な暴力

    ハイエク『法と立法と自由 二 社会正義の幻想』――配分的な正義は不正 205
    開かれた社会/正義に適うルール/社会正義の不正/正義論批判

    ロールズ『正義論』――公正としての正義 212
    『正義論』の目的/社会契約の前提/原初的な状態と正義の状況/無知のヴェール/ロールズの原理/ロールズの正義

    ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』――正義の国家は最小国家 223
    相互保護協会/超最小国家の誕生/最小国家の誕生/ロールズ批判/最小国家の魅力

    マイケル・ウォルツァー『正義の領分』――財が異なると、正義も異なる 231
    正義の内実/財の多元性/複合的な平等/財の領域

    マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』――善は正義よりも優先される 238
    付加なき自我の批判/正義と善/道徳的な責任の三つのカテゴリー/目的論

    ハーバーマス『討論倫理』――討議において正義と連帯が実現する 244
    ロールズの正義論の評価/三つの欠陥/討議的な倫理/討議と正義

    ホネット『正義の他者』――不正から正義を考えよう 250
    不正からみる正義/愛の圏域――個人としての承認/法の圏域――人格としての承認/連帯の圏域――共同体に参画する人格としての承認/三つの圏域の正義の衝突


    レヴィナス 『全体性と無限』――他者との語り合いが正義である 256
    イリヤ/存在の不快/他者と時間/責任/正義/貨幣

    デリダ 『法の力』――正義とはアポリアである 263
    法と脱構築/法の脱構築/正義と脱構築/第一のアポリア――規則の適用/第二のアポリア――決断不可能性/第三のアポリア――切迫性/贈与のアポリア

  •  「正義」といえば、NHKで放映された「ハーバード白熱教室」がきっかけとなって、日本ではマイケル・サンデル氏の講義・著作が大きなブームとなりました。
     本書は、古代から現代までの西洋哲学における「正義」の思想のエッセンスを、代表的な論者の著作を紹介しつつ概説したものです。登場するのは、古代ギリシャのプラトン、アリストテレスから、中世のトマス・アクィナス・マキアヴェッリ、さらには社会契約論の系譜としてホッブズ、ロック、ルソー、そしてカント。アダム・スミス、ベンサム、ヘーゲルときて、マルクスにニーチェ・・・と大思想家が目白押しです。
     正直なところ、私の理解度としては20%ぐらいでしょうか。ただ、それぞれの議論のほんのさわりだけでも触れることができてなかなか面白かったですね。

  • 正義をめぐる哲学の系譜。
    人間の在り方や国家などについて、哲学者はどう考えてきたのか、アリストテレス、ロック、カント、ヘーゲルなど順を追って説明。
    こうした考え方を背景にすると、マイケル・サンデルの正義論の立ち位置や現代性がよくわかる。

  •  古代ギリシアから社会契約論、市民社会論、そして現代の正義論までを、正義論をめぐる主要な書籍を中心に紹介するもの。駆け足的でもあり、若干著者の解釈が入り込んでしまっているが、サンデルも含め「これまでの」正義論をざっと洗うには最適の一冊。

  • 正義論の変遷は、哲学というより、社会学なのかな、と感じた。
    人、社会の進化と共に、ワガママ=正義となりつつあるようにも感じる。
    選挙で選ばれた人を認めない、その統治が受け入れられない、という主張が普通になりつつある時代。
    新しい正義論がどう述べられるのか。
    今後も気にしたいですね。

  • 道案内としては秀逸な書です。

    各論者の正義論をこれだけ簡潔に要約するのは尋常ではない作業のはず。特に現代に近づけば近づくほど、これまでの論者への批判や系譜、根拠などを踏まえて書かねばならないので、最後のレヴィナスやデリダが紙面が足りていない様子になるのは仕方がないのではと思います。

    こういった要約紹介の道案内本の読み方としては、誰のどういう部分に共感・違和感を覚えるのかをピックアップし、自分の考えをメモしておくのが良いのではないでしょうか。それが、政治や法の根底にある正義の問題ならなおさらです。自分はそのようにしています。
    そのようにして自分の中に浮かばせた関心の雲は、いつどのようなきっかけで相互につながるかわからない、というのが経験からの示唆ですね。面白いです。

    CPは最高です^^不十分だと思ったらもう少し本格的な正義論の本へ進めばいいのです。

  • [ 内容 ]
    西洋思想史上、「正義」について考えることは、「道徳」「倫理」「政治」などの問題とかかわりあいながら、つねにひとつの軸となってきた。
    「公正さとは何か」「正しさの基準はどこにあるのか」などなど、今日でも喫緊の課題として論じられるこれらについて、大思想家たちの「名著」は大きなヒントと刺激を与えてくれることだろう。
    プラトン、アリストテレスから、ホッブズ、ロック、ベンサム、ニーチェ、さらにはロールズ、デリダ、サンデル…。
    この一冊で主要な思想のエッセンスがわかる。

    [ 目次 ]
    第1章 公共善と正義(ホメロス『オデュッセイアー』―ゼウスの正義;プラトン『国家』―正義は、国家や人間における調和である ほか)
    第2章 社会契約論と正義(ホッブズ『リヴァイアサン』―国家が正義を執行する;スピノザ『エチカ』―民主的な国家のうちで最高の自由と正義が実現する ほか)
    第3章 市民社会論(ヒューム『人性論』―人間はその本性からして社会を作り、正義を実現する;アダム・スミス『道徳感情論』―人間には正義を望む道徳的な感情がある ほか)
    第4章 現代の正義論(マルクス『ドイツ・イデオロギー』―イデオロギーとしての正義;ニーチェ『道徳の系譜学』―約束する人間の正義とルサンチマンの正義 ほか)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • ちくま新書の第一の名作です。少し読んだものの、新書とは思えない内容の重厚さに、積ん読にしてしまい、3年かかって読み切りました。
    読んでいてしみじみ感じたのは、人間の知識や科学技術は過去2,000年で大きく膨れあがったけれども、考える能力はさほど進歩してないなあということです。たとえば、もしソクラテスやカント、アダム・スミスが目の前にいて、道徳を説かれたとして、論破できる自信はないです。

  • 正義(デイケー)=公正さの原理

    正義の概念は政治哲学と道徳哲学の交わる場において、結節点のような役割を果たしている。

    【流れ】
    ①古代ギリシャにおいて正義とは、ポリスの秩序を維持し、調和することを目指すことであった。共同体にとっての善、公共善を目指すことが正義だったのである。
    ②ホッブズにはじまる社会契約の思想は、人々は公的な善という外的な要因ではなく、自分自身の利益のために社会を構築すると考える。スピノザ、ロック、ルソー、カントと、この社会契約の思想は脈々と受け継がれ、カントにおいてはついに国家を超えた世界市民の秩序まで構想されるようになった。
    ③ヒュームやスミスのようとともに、契約ではなく、市民社会の秩序が自生的に誕生するというリベラリズムの思想が登場し、正義の概念もこれを裏づけるものとして考えられるようになる。これはベンサムやミルの功利主義の思想を生み出し、現代にまで続く市民社会論の思想的な枠組みを構成するようになった。
    ④社会契約の思想と市民社会の思想を統合する役割を果たしたのは道徳と政治を結びつける「人倫的な国家」という概念を重視したヘーゲルである。しかしこの統合はマルクスのイデオロギー論と、ニーチェの道徳の系譜学の方法によってすぐに崩壊することになった。その後はベンヤミンが正義と暴力の密接な関係を暴き、ハイエクはスミスの「見えざる手」の思想を受け継いで、正義の名の下に行われる国家の干渉を排除することを求める。
    ⑤近年において正義の議論が活発になったのは、ルソーとカントの社会契約の理論を受け継いで、原初状態と無知のヴェールの理論によって、正義とは何かを正面から問題としたロールズの『正義論』が登場してからである。この書物に刺激されたノージックは「見えざる手」の思想によって、最小国家としての夜警国家を超えるあらゆる国家を不正義と主張し、ウォルツァーが正義の内実をさまざまな領域に分けて考察した。サンデルはロールズの正義の概念が「負荷なき自我」という虚構的な人間観を基礎としていることを指摘する。
    ⑥ドイツではフランクフルト学派のハバーマスとホネットの思想に注目したい。ハバーマスはロールズの正義の理論がモノローグ的なものであることを批判し、コミュニケーション的な理性による討議倫理の思想を提起する。これを受け継いだホネットは、正義よりも不正義の領域に注目し、「他者の正義」の思想を提示する。フランスではレヴィナスが他者の顔との対峙のもとに正義を見出し、他者との対話の重要性を強調した。デリダは脱構築できない唯一のものが正義であると考えて、正義のもつさまざまなアポリアの考察を深めた。
    ⇒このように正義の概念は道徳の領域と政治哲学の領域を貫く「要石」のような概念である。

    【プラトン『国家』】
    理想的な国家は次の4つの徳を備えていなければならない。
    「智恵、勇敢、節制、正義」
    プラトンにとっての正義とは、国家や人間の魂における調和である。それは「外的になすことに属するのではなく、むしろ内的になすことに、つまり、本当の意味での自分自身や自分自身のことにかかわるもの」なのである。
    「不正をすることよりは、不正をされることのほうがましである」

    【アリストテレス『ニコマコス倫理学』―正義とは公的な善の実現である】
    アリストテレスの正義の基本的な定義は「人々が正しい物事を行うような状態、つまり人々が正しいことを行い、正しいことを望むような状態のこと」
    アリストテレスにおいて、正義が共同体の善を目指すものであるというその後の西洋の伝統的な正義論の基礎が据えられた。

    【キケロ『義務について』―徳の女王としての正義】
    ポリス的な正義の限界を乗り越えて、人類の全体に適用される正義の概念を構築したのが、ヘレニズム時代のストア派である。
    [キケロの普遍的な正義論]
    キケロも(プラトンと同じように)四つの徳を認めている。「①真理の認識と運用である。②人と人との社会関係を維持すること。つまり、各自が各自の務めを果たし、引き受けた事柄について信義に違わぬことである。③高潔にして不撓不屈の勇気である。④あらゆる行為と言動についての秩序と限度であり、そこにあるのは節度と節制である」①がプラトンの思慮、②が正義、③が気概、④が節制に相当する。
    [他国への正義]
    「公式の原状回復要求、あるいは事前の通告ないし宣言を経ないいかなる戦争も正当ではない」
    「同胞市民に対しては配慮すべきだが、他国人についてはその必要がない、と言う人々は、全人類に共通の社会を破壊している。この社会が消失すれば、親切、篤志、善良性、正義も根こそぎ失われてしまう」→ここにはギリシャの狭さを超越した人類のための正義の思想がはっきりと語られている。
    ローマ帝国時代のストア派の哲学者・セネカ『恩恵について』「すべての人間は共通の祖先である宇宙から由来したのであり、いかなる人も他の人以上に高貴ではない」→奴隷、女性、未成年も含んでいた。
    キケロ「自然の規定するところにして、人間は人間に対し、それがどのような人物であれ、その者が人間であるというまさにその理由のゆえに、その人の利益を重んじるべきである」

    [公共善としての正義]
    キケロは正義の最も重要な使命は「人間社会の相互の連帯、つまり人生の共同体とでもいうべきものを維持する理念」となるものであることを指摘しながら、正義の二つの務めを挙げている。①不当な攻撃を受けた場合を除いて、他人に害をなす者がないようにすること②公共のものを公共なものとして、各人のものを各人のものとして使用させること。

    [徳の女王としての正義]
    正義は人間の社会が存立するために必須の条件であり、「正義こそが唯一のすべての美徳の女王なのである」
    キケロ『国家について』「正義はすべての者をいたわり、人類のためをはかり、各人に当然受けるべきものを与え、神聖なもの、公共のもの、他人のものに手を触れないように教えている」
    犯罪者でも同じことである。山賊のうちで仲間のものを奪うのは不正義である。

    「知る勇気を持て」p322

    【プルードンによる「正義」の定義のリスト】p324
    ①人間には与えられた理性のおかげで、同胞の人物のなかに種としてまた個として尊厳を感じ取る能力がある。
    ②この能力の産物こそが正義であり、どのような危険のなかでも、人間の尊厳を、即座に感じ相互に保証しながら、尊重することが正義である。
    ③文明化により尊重は輝きを増し、そこでは私的利害を離れて正義がそれ自体のために実践される。
    ④このようなものとしての正義は、平等と連帯の条件を成し、人間と人類を一致させる種の運命である。
    ⑤正義の定義から法権利と義務が演繹される。法権利は各人が他者への人間的尊厳を尊重するようにと要求する能力であり、義務とは各人が他人のなかにこの尊厳を尊重することを求める拘束である。
    ⑥他者の上に立とうとせず、自己愛の偏見を起こさない、こうして謙虚は正義のひとつの形態となる。

    【アウグスティヌス『神の国』―「遍歴の旅」の途上の正義】p46
    キリスト教の信仰においては、「正しい人」はもはや社会的な正義を行う人ではない。「神を愛し、また隣人を、人間にしたがってではなく、神にしたがって、自己自身のように愛することを志す人」こそが、善き意志をもった人と呼ばれ、「正しい人」と呼ばれるのである。
    [最高善]
    「人間自身のうちに、自然本性のある正しい秩序が生じて、魂は神に、身体は魂に服属し、かくして身体も魂も神に服属する」ことこそが「正しさ」であり、正義なのである。

    【トマス・アクィナス『神学大全』―天上の浄福を準備するのが支配者の正義】p52
    彼の正義の定義はアリストテレス、キケロ、そしてローマ法の伝統ん忠実である。「正義は、それによってある人が不動かつ恒久的な意志をもって各人にかれの権利を帰属させるところの習慣である」
    [法と正義]
    トマスによると法は、三つの基準を満たすときに「正しい」と呼ばれる。
    ①まず目的において、「法が共通善に秩序づけられている」こと
    ②制定者が、立法者の権限を超えないこと
    ③その本質からして、「共通善をめざして、比例的な均質性に基いて諸々の負担が市民たちに課せられる」ときに、その法は正しいものとされる
    ⇒法は、立法者が定められた権限によって、配分的な正義の原理に基いて共通善を目指すときに、正しい法となるのである。
    [体制論]
    もっとも望ましい国制(ポリティア)は王政である。身体では心臓がすべてのものを動かしているように、すべての自然的統治は一者によって司られているのが望ましい。but その一人の支配者が堕落した時には僭主政となる。

    【マキャベリ『君主論』―自由な共和国における正義】p61
    「人間はすべて悪人で、思うとおりにふるまう機会があれば、すかさずその非道ぶりを発揮して私欲を満たそうと、身構えていると、つねに考えるべきである」『ローマ史論』▲メモ 「リアリスト」としてに真髄→キリスト教的な幻想性からの別離
    [マキャベリの君主観]
    マキャベリの『君主論』で描かれる人民は悪人であり、強制されなければ、善を行うことはない。アクィナスの『君主の統治について』では、君主が公共善を目指して善政を敷くことが求められたが、マキャベリの『君主論』では君主は信義を守らず、悪人となることを学ぶ必要がある。その背後には、人間はエゴイストであるという辛辣なまなざしが控えている。正義などは、みかけを飾るものにすぎないというのである。

    《2. 社会契約論と正義》p72
    近代の政治哲学は、公共善の概念をまったく必要としないホッブズによって始まると言えるだろう。スピノザは民主制の国家でこそ、真の意味での正義が実現すると考える。ロックは社会契約の原理には、契約に違反した統治者への抵抗の権利が含まれていることを指摘する。ルソーは社会契約こそが正義を実現すると主張する。そしてカントは国家を超えた地球的な正義と永遠の平和を夢想するにいたるのである。

    【ホッブズ『リヴァイアサン』―国家が正義を執行する】p73
    「汝自身を知れ」→自然状態における平等
    「もっとも弱い者でも、密かな企みにより、あるいは彼自身と同じ危険にさらされている者との共謀によって、もっとも強い者を殺すだけの強さをもつのである」
    「共通の力のないところに法はなく、法のないところに不正義はない」
    自然権とは「各人が、各人の自然、すなわちみずからの生命を維持するために、各人の欲するままに自分自身の力をもちいるという、各人の権利である」
    [権利と法の区別]
    「権利」とは、あることを実行するか、実行するのを控える自由である。これに対して「法」は、あることを実行するように、または実行するのを控えるように、そのどちらかを規定し、そう拘束する。
    自然法は三つの基本的な法で構成される。①平和の法②契約の法③正義の法
    ②→各人は自然権を放棄しなければならない。(みんな)
    ⇒この思考の装置では、人間が原初的な状態において実際に契約を締結したかはそれほど問題ではない。重要なのは契約という考え方で、すでに成立している国家の存在理由が説明できるということである。
    ③→「信約」その裏付けとなるのが国家である。国家が設立され、何らかの強制力が存在して、不正を犯した者を処罰する必要がある。⇒正義と国家と所有権は不可分なものなのである。(正義が存在するためには、国家が存在して所有権を確保し、契約に違反する者を処罰する必要がある)
    国家とは「人々を恐れさせ、処罰の恐怖によって人々が信約を実行し、さまざまな自然法を遵守するように拘束する可視的な権力」
    ⇒この国家において、主権者に侵害された正義を守る道は、最初から閉されているのである。ホッブズの国家は、旧約聖書に登場する怪物リヴァイアサンのように、抑えがたいものとなってしまう。

    【スピノザ『エチカ』―民主的な国家のうちで最高の自由と正義が実現する】p84
    スピノザの人間観:「人間は必然的に諸感情に従属する」
    「国家の諸原因とその自然的な基礎は、理性の教説の中に求められるべきではなく、かえって人間共通の本性あるいは状態から導き出されるべきである」↔ホッブズは理性
    「人間というものは相互の援助なしには、生活を支え、精神を涵養することがほとんどできない」存在なのである。
    スピノザにおいては「自然権」の放棄を伴わない。
    「それぞれの者ができるだけ自己の状態に固執しようとつとめること、しかもそれは他者を考慮にいれることなく、たんに自己のみを考慮にいれて、そうなることが自然の最高の法則である」→人間は自己を保存するという自然権をもつのである。
    ところがこの「人類に固有なものとしての自然権は、人間が共同の権利を持ち、住みかつ耕しうる土地をすべて確保し、自己を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意志に従って生活しうる場合だけに考えられる」→孤立した人間には、そもそも自然権は存在しないのであり、人間は国家のうちでのみ、自然権を所有することができる。
    [正義]
    「各人に対して各人のものを認めようとする恒常的な意志を持つ者が正しい人と呼ばれ、これに反して、他人に属するものを自分のものにしようとつとめる者は、不正な人と呼ばれる」
    [最高権力と正義]
    「国家の意志はすべての人々の意志とみなされなければならないから、国家が正または善と決定したことは、各人によってそう決定されたと同様に考えられなくてはならない」『国家論』
    「何が善であり、何が悪であり、何が正当であり、何が不当であるかを決定する権利」を持つのは国家の最高権力だけである。
    [最善の国家]
    「人間は理性によって導かれることが多ければ多いだけ、言い換えれば自由であればあるだけ、しっかりと国家の法律を守るだろうし、自分がその臣民であるような最高権力の命令を実行するだろう」
    そもそも国家の目的は、「生活の平和と安全」であり、「人間が和合して生活し、そしてその法が侵犯されることなく維持される国家が、最善の国家なのである」⇒「自由な民衆が建てる国家」
    [国家体制と正義]
    スピノザは絶対統治の国家である民主政治に期待を寄せる。民主政治の国家は、ほんらいは好ましいものである「自然状態にもっとも接近した」国家である。民主的な国家でのみ、最高の目的と正義が実現されるとスピノザは考える。

    【ロック『市民政府論』―不法に抵抗するのは正義である】p95
    (ホッブズやスピノザに反して)ロックは国家状態になる以前から、人々の間を正義が律していると考える。「誠実と信義とは、人間そのものに本質的なもので、決して[国家という政治的な]社会の一員としての人間に属するものではない」と考える。
    [所有権の基盤としての労働]
    ロックは人間に自然にそなわる所有権として、身体の所有権があることを指摘する。「人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しない」のである。→(拡張)「彼の身体、彼の手の動きは、まさしく彼のものである」拾ったドングリ、狩で殺した野うさぎのような労働の成果だけではなく、穀物を耕す畑にまで所有権は拡大される。
    [貨幣]
    「消耗滅失しない長続きする黄色い金属の一小片を、大きな肉の一片や穀物の一山に値するものと定めるようになった」
    [不平等な私有財産の承認]
    ロックの正義の議論は、自然法がいかにして擁護されるのかという問いを中心としていた。そして自然法は、「何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない」かぎりで自己を保存することと定めていた。しかし貨幣の導入と資本主義的な生産の容認とともに、財産の不平等が発生し、間接的に他者の財産を傷つける行為が容認されることになる。貨幣は正義に反する性格を持つものでありながら、それが「人類の共有財産」を増加するという公共善の目的に適うものとして、正義に適ったものとして登場することになるのである。
    ⇒ただし、不平等が拡大していくと戦争状態が生じる。そこで政府状態が必要となる。
    政府状態では人々は自然状態で手にしていた自由と、矯正的な正義をみずから執行する権利を喪失する。しかしそれは財産と安全を保障するためである。そして彼だけではなく、この社会契約に参加するすべての人がみずから自由と正義の執行権を喪失するのであるから、「それはただ必要であるばかりでなく、正義に適う」とロックは主張する。

    【ルソー『社会契約論』―社会契約が正義を実現する】p110~
    [思考実験としての「野生人」]
    「野生人の欲望は、身体的な欲望を越えることがない」
    「自然状態とは、わたしたちの自己保存の営みが、他者の自己保存の営みを害することがもっとも少ない状態であり、この状態こそが、ほんらいもっとも平和的で、人類にもっとも適した状態だったのだ」↔ホッブズの自然状態
    「自己愛」と「憐れみの情」という二つの原理のために、野生人は他者を害することがなく、孤独ではあるが、平和に暮らしていけるはずだと、ルソーは考える。
    [正義の発達の3段階]
    ①所有権が確立され「富める者と貧しき者の身分が定められたとき」
    ②「為政者の地位が定められたとき」
    ③「合法的な権力が恣意的な権力に変貌したとき」法の正義から力の正義へ i.e. 「不平等の最終段階」

    「社会契約」:「われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を一般意志の最高の指導のもとに委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全体の不可分な一部としてうけとる」
    [政治体の成立]
    「権利と義務を結びつけ、正義にその目的を実現させるためには、規約と法律が必要になる」
    [国家法と正義]
    (政府とは)「国民と主権者の間で意志を伝達するために設置された中間的な団体である。これは法律の執行と、社会的な自由と政治的な自由の確保を任務とするものである」

    【カント『人倫の形而上学』―永遠平和のうちで地球的な正義を】p124
    [社会の設立]
    「当初は情念に基づいた強制のもとで社会を形成していたとしても、やがては道徳に基いて全体的な社会を構築するようになる」
    [法と正義]
    法の広義な定義「ある人の選択意志が他人の選択意志と、自由のある普遍的な法則にしたがって統合されうるための条件の総体」
    狭義の厳密な法の定義「法を毀損する者に強制を加える権能」
    i.g. 「法の概念は、普遍的な相互的強制と各人の自由の結合の可能性」において直接に定められる。
    [正義の3つの法則]
    ①「汝を他人たちのたんなる手段とするのではなく、彼らにとって同時に目的であれ」という人格的な価値の堅持の命令。→「可能的正義」or「保護的正義」
    ②「何が実質として、さらに外的にも法的な権能を有するか」→「他者に不正をするな」⇒「現実的正義」or「交換的正義」or「相互取得的な正義」
    ③「各人を各人のものとして」⇒「必然的な正義」or「分配的な正義」
    [国家における正義と革命]
    カントの想定する国家は、モンテスキューの考える三権分立の国家である。
    [国家体制論]
    「元首の数を問わず、元首が民族をどのような統治方法で支配するか」によって区別した場合には、共和的であるか、専制的であるかのどちらかになる。
    共和的:①各人が社会の成員として、自由であるという原理が守られること②社会のすべての成員が臣民として、唯一の共同の法に従属するという原則が守られること③社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られること。

    【ヒューム『人性論』―人間は本性からして社会を作り、正義を実現する】
    正義はいかにして可能か。それはホッブズのように、社会の外部に正義を実現する権力を樹立することではない。社会のうちに生きることによって、人間は正義を実現することが、利己的な個人にとっても有利であることを教えられるのである。
    [3つの財産]
    人間には3つの財産がある。
    ①心の内的な満足
    ②肉体の外的秀逸
    ③勤勉ならびに幸運によって獲得した財物の享受
    [正義の実現]
    社会契約の理論では、契約によって所有権を保護する法律が定められ、その法律を遵守させ、侵害を処罰する政府が樹立される。しかしヒュームの理論では、所有権そのものが正義の産物であり、「正義の起源を解明し終えないうちに所有とか権利とか責務とかいう言葉を使用し、あるいは正義の起源の解明にそれらの言葉をもちいる者は、はなはだ大きな誤謬を犯す者」だということになる。これらは社会契約の理論の大きな逆転である。社会における所有関係は、「自然な関係ではなく、道徳的な関係であり、正義を根底とする」のである。Cf. 「黙約」:共通利害の一般的な感情
    [正義の根源]
    社会を形成して生きること、そして他者の所有を侵さないことが、社会全体にとっても、社会を構成する個人にとっても、「無限に有利であること、この点を十分に観察する経験を人々がもってしまえば、久しからずして所有と正義とは生まれるのである」。
    「自利は正義を樹立する根源的な動機である」
    [情念論]
    正義と道徳を結ぶのが、人間の情念の働きである。
    ヒュームは人間を支配するのは理性ではなく、情念であると考えている。「理性は情念の奴隷であり、しかも奴隷であるべきである」
    情念:①直接的な情念②間接的な情念
    穏やかな間接情念=道徳感
    [道徳と正義]
    徳の高さは社会にとって有益であるから正義であり、徳の低さは社会にとって有害だから不正義なのである。
    「公共的利害への共感は、正義の徳の伴うところの道徳的な源泉なのである」この共感の働きによって、正義は道徳を生みだすことになる。
    このようにヒュームにとっては、人々は自然に社会を形成しながら、理性よりも感情と共感によって正義を実現するのであり、そのためにとくに社会契約のようなものを締結する必要はないのである。

    【アダム・スミス『道徳感情論』―人間には正義を望む道徳的な感情がある】p150
    共感は、人間に普遍的な感情である。どんな悪人でも共感することができるのであり、「最大の悪人、社会の諸法のもっとも無情な侵犯者でさえも、まったくそれをもたないことはない」ほどである。
    正義は「大建築の全体を支える柱である。もしそれが除去されるならば、人間社会の偉大で巨大な組織は、一瞬にして崩壊して諸原子になるにちがいない」ような重要な意味をもつものである。
    [正義を守る法]
    この正義は次の3つの法で守られる。
    ①われわれの隣人の生命身体を守る法
    ②彼の所有権と所有物を守る法
    ③「彼の個人権と呼ばれるもの、すなわち他の人々との約束によって彼に帰属するものを守る法
    ⇒スミスはこれらを「もっとも神聖な正義の諸法」とよぶ。
    [中立的な観察者=内部の人]
    「内部の人が、われわれを非難するならば、人類のもっとも高い歓呼も、無知と愚かさによる騒音としか聞こえない、われわれがこの中立的な裁判官の性格を身につければつねに、われわれ自身の行為を、かれのもつ不機嫌と不満足をもってみることを避けられない」のである。
    「理性、原理、良心、心の中の住人、内部の人、われわれの行為の偉大な裁判官にして裁決者である」ものだけが、正義の実現を促すのである。
    [社会の形成]
    自然の本性も人間の本性も「同一の偉大な目的、すなわち世界の秩序と人間本性の完成および幸福とを促進するように、もくろまれている」のである。
    [見えざる手]
    「われわれが食事できるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、自己愛に訴えるのであり、自分が何を必要としているかではなく、相手にとって何が利益になるかを説明するのだ」『国富論』
    ⇒公共善を目指した活動よりも、自己愛による自己の利益を追求した活動のほうが、社会の全体の利益となることが多いのである。
    スミスの正義論は、スミスによって学問として確立した経済学と深く結びついている。
    スミスは商業における「交換的正義さえ守られれば、所有の重大な不平等にもかかわらず、かなりの配分的な正義がおのずから実現される」と考える。自生的な市民社会におけるホモ・エコノミクス(経済人)の自由な労働と商業を妨げるすべての政策は、正義に反するものとして退けられるのである。『国富論』は、そのことを証明するために書かれた書物であった。

    【ベンサム『道徳および立法の諸原理序説―最大多数の最大幸福』】p164~
    ベンサムは人間を支配する原理は快楽と苦痛だけであると次のように宣言する。「自然は人類を苦痛と快楽という、二つの主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである」
    個人の快楽を増大させることができるすべての行為を是認し、これを削減するようなすべての行為を否認することが「功利性の原理」である。この原理に従うならば、快楽が善であり、それを増進することが正義である。この原理では、善と正義は完全に一致する。
    [サンクション]
    この概念は「何らかの行為の法則や基準に、拘束力を与えることが出来る」快楽と苦痛の源泉である。
    Cf. 功利主義の概念は後にJ.S.ミルが精緻化
    ベンサムは道徳心よりも、各人が行為の前に快楽計算を行なって、快楽が差し引きでプラスとなるように行動するという計算高い心を重視していた。
    [立法者の視点]
    この功利の原理は、立法者の観点からみると、「最大多数の最大幸福」の原理と呼ばれる。
    この書物で道徳論の後に、犯罪論ではなく、人々の行動を左右するための刑罰論が続いているのはそのためである。
    「すべての法律の一般的な目的は、社会全体の幸福を増進させ、そして何よりもその幸福を縮小させるものを除外することにある」
    Cf. この刑罰の理想的な装置がパノプティコンであった。(この一望観察装置は、たんに効率的に人々を監視するだけではなく、人々の心のうちで、自然にサンクションの正しい計算が行われるようにする仕組になっている。

    【ヘーゲル『法の哲学』―正義を欠いた幸福は善ではない】p173~
    ホッブズからカントにいたる社会契約論の系列の正義の理論と、スミスからベンサムにいたる市民社会論の正義の理論を統合する正義論を確立したのがヘーゲルである。
    人間は人格として「わたしが、この世を生きるこの個人として自由であり、広がりのある、思考する存在である」というありかたをしている。「財産のうちには、わたしの意志が対象化され、形ある物となっている。財産が尊重されなければならないのはそのためである」
    ヘーゲルは人間が幸福を追求することは義務だと考える。「国家の目的たる共同体の善と、個人の特殊な幸福が、たがいに結びつき、自分の幸福を求める個人の行為が共同体の目的を促進するものとなり、逆に共同体の目的が個人の幸福を促進するというのが、社会のあるべき姿である」
    善とは「自由の表現であり、世界の絶対的な最終目的である」「善の要素としての幸福は、個々の特殊な幸福としての価値を認められるのではない。共同の幸福、自由の理念に適った一般的な幸福であってこそ、価値がある。正義を欠いた幸福は善ではない」
    「欲求の体系」としての市民社会では特殊性と共同性が分離していたが、国家ではこれが統一され、「特殊な利害のうちに共同の利害が含まれ、そこに統一がなりたって、正義と幸福が、どちらも侵害されることなく、ともに実現される」

    【マルクス『ドイツ・イデオロギー』―イデオロギーとしての正義】p183
    「正義とは何か」が問われるのではなく、「正義という概念を誰がどのような意図で語るのか」、そして「社会において正義の概念はどのような機能と役割をはたすか」が問われることになる。
    [搾取の不正義]
    国家において正義が実現されると主張したヘーゲルとは対照的に、人間としての値打ちを否定されている人間が「人としての在り方を完全に確立する」革命、国家の廃絶こそが正義だとマルクスは主張する。
    [正義の社会]
    革命後の社会では労働の分割はなくなり、「今日はこれ、明日はあれをする可能性を与えてくれる。つまり狩人、漁師、牧師、または批判者になるなどということなしに、わたしの気のおもむくままに、朝には狩りをし、午すぎには魚をとり、夕べには家畜を飼い、食後には批判をする」ことができるようになるだろう。
    国家が廃絶された後のこの社会では、「労働がたんなる生活のための手段であるだけではなく、それ自体が第一の生命の欲求となる」『ゴーダ綱領批判』。「そのときに初めて、ブルジョワ的な権利という狭隘な地平が完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう記すことができるだろう。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」革命後の正義の社会でこそ、分配の正義がまったく新しい形で実現されることになる。

    【ニーチェ『道徳の系譜学』―約束する人間の正義とルサンチマンの正義】p189~
    神が人間の罪を償うというキリスト教の神話は、債権者と債務者の関係から生まれた正義の弁証法を、いわば巧みな形で盗用し、それを乗っ取っているのである。そのために良心にほんらいの卓越者の良心と、ルサンチマンの「疚しき良心」の二つの良心が生まれるようになったのであり、それに対応する形で、正義の概念が二重の意味をもつようになったとニーチェは考えるのである。

    【ベンヤミン『暴力批判論』―未曾有の正義】p199~
    「法措定的な暴力」と「法維持的な暴力」
    「神話的ま暴力」と「神的な暴力」

    【ハイエク『法と立法と自由 二 社会正義の幻想』―配分的な正義は不正】p205~
    ハイエクは、現代の福祉社会の傾向をきわめて危険なもの、自由な社会をかつての部族社会に、全体主義に後退させようとするものとみなしている。そのため、ハイエクは、次の項で検討するロールズの正義論も批判することになる。ルールによる支配を求めるハイエクの正義論は、無知のヴェールによるロールズの正義の原理の理論と通いあうところがあることから、ハイエクはロールズが配分的な正義という概念を使わなければ、『正義論』の主張に同調できると語っている。

    【ロールズ『正義論』―公正としての正義】p212~
    マキシミン原理:ミニマムを最大(maxim)にすることを意味する。Cf. 「囚人のジレンマ」はその一事例
    ロールズは彼が導き出した原理から選択を迫られた人々は、マキシミン原理と無知のヴェールの想定のもとでは、ロールズの二原理を選択すると主張する。この長い手続きによって、正義とは何であるかが発見されるとロールズは考えるのである。それは「自由で平等な市民たちが世代を超えて協働する公正なシステムとしての社会」を実現する「公正としての正義」である。

    【ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』―正義の国家は最小国家】p223~
    私的な団体のイメージ「相互保護協会」
    [超最小国家の誕生]
    「一つの統一された連邦司法制度」:保護と執行のサービスは、その対価を払った協会員にだけ提供する。最小国家である夜警国家とは違って、この国家は財の再配分は行わない。司法機能だけを、しかも協会員だけに提供する。
    最小国家は個人の自由を最大限まで認めるユートピア的な国家である(リバタリアニズム)「最小国家はわれわれを、侵すことのできない個人、他人が手段、道具、方便、資源として一定のやり方で使うことのできないものとして扱う。それはわれわれを、個人として諸権利を持ち、このことから生じる尊厳を伴う人格として扱う」

    【マイケル・ウォルツァ『正義の領分』―財が異なると、正義も異なる】p231~
    「単一性を探求することは、配分的な正義の主要な問題を誤らせる」「正義は人間による一つの組み立てである。だから、それが一つの仕方でしか作られないというのは疑わしい。いずれにせよ、わたしは基準となっているこの哲学的な仮説を疑うことから始めることになるだろう」(ロールズ批判)
    財の多様性に基づいて、正義が問題になる領域も多元的になる。
    Eg. 人々がカーストが正義に適うと信じているのならば、それを強制することは正義ではなく、専制になるだろう。
    ↓必要となるのは「複合的な平等」
    「一つの領分に立つ市民、あるいは一つの社会的な財にかかわっている市民は、他の領分に立ち、他の財にかかわることで、地位が低下することのない社会」

    【サンデル『これからの「正義」の話をしよう』―善は正義よりも優先される】p238~
    [「負荷なき自我」の批判]
    「自分自身をまったく負荷なき自我として構想することは、われわれが通常認めている、広範囲な道徳的で政治的な責務の意味を理解できなくなることである。その責務によってわれわれは、特定のコミュニティ、生活史、伝統における成員であることと結びついている」からである。
    Cf. マッキンタイア「物語る存在」
    マッキンタイアによる人格の物語的な考え方は、自由に選択できる負荷なき自己としての人格をみる主意主義的な考え方と好対照をなす。
    [道徳的な責任の3つのカテゴリー]
    「公的な謝罪と補償、歴史的不正にたいする共同責任、家族や同胞が互いに負う特別な責任、兄弟や子としての忠誠、村やコミュニティにみられる連帯の要求は、われわれの道徳的、政治的体験によくみられる特色」であり、この第三の責任の存在は否定出来ないとサンデルは主張する。そしてカントやロールズの正義の理論は、こうした種類の正義を認めることができないのである。

    【ハバーマス『討議倫理』―討議において正義と連帯が実現する】p244~
    ロールズの正義論の構想のもとでは、当事者はみずからの利益を考察するだけでよいのであり、「義務から行為する必要などない」。このように正義の理論が道徳的な掟という枠組みが解放されたのは、ロールズの重要な貢献であるとハバーマスは考える。
    「<正義論>をカントの道徳の理論の諸前提から初めて解放した」
    [討議的な倫理]
    ハバーマスは、複数性を原理とする社会においては、(カントの定言命法のような)普遍的な妥当性は主張できず、この社会では「超越論的な先行了解などはもはや信用しない主体に遭遇するのだ」このとき人は定言命法に依拠するのではなく、「それぞれの関心にふさわしい間主観的な了解の必要性」に直面する。
    Cf. 討議的なパースペクティブ(コミュニケーション的な理性)、「理想的な役割の取得」
    [討議と正義]
    ケアの意味を含めた連帯は、討議において正義につきそうように登場する。この連帯という概念において、ハバーマスの正義の原理は、ロールズのモノローグ的な主体を超えて、他者の正義を尊重する共同体的な拡がりを獲得することになる。その意味ではハバーマスの正義の理論は、ロールズを批判したコミュニタリアンたちに一歩近づくことになる。ハバーマスが認めているように「討議倫理は、自由、道徳、法といったカント的な伝統から出てくる義務論的な理解をリベラル派と分かちもち、さらに個体は社会化されたものであるというヘーゲル的な伝統から出てくる間主観的な理解をコミュニタリアンと分かちもつのであり、討議倫理はその両者の中間的な位置をとっている」とも言える。

    【ホネット『正義の他者』―不正から正義を考えよう】p250~
    「物理的な毀損は、被害者がその行為のうちにみずから安全という本質的な観点からみて自分を無視するような行為を読み取らざるおえない場合には、道徳的な不正とみなされる」

    【レヴィナス『全体性と無限』―他者との語り合いが正義である】p256~
    「イリヤ」:「それがそこに持つ」:「非人称で無名の、しかも鎮めがたい存在の焼尽、無の奥底でざわめきたてる焼尽」→「何もない虚無によって充満している」

    【デリダ『法の力』―正義とはアポリアである】p263
    法⇔正義:「無限であり、計算不可能であり、規則に反抗し、対称性とは無縁であり、不均質であり、異なる方向性を持ったもの」
    [正義がアポリアである3つの理由]
    ①規則を要求し、しかも規則の適用を否定する。<規則の適応>
    裁判官が正義の裁きを行うためには「規制されながらも同時に規則なしにあるのでなければならない」これは不可能である。
    ②<決断不可能性>
    「あらゆる決断という出来事は、みずからのうちに、決断不可能なものを少なくとも幽霊として、しかもみずからの本質をなす幽霊として受け入れ、住まわせつづける」
    ③<切迫性>
    「正義に適う決断は、即座に、その場で、できるだけすばやくなすことをつねに要求される」
    ⇒正義の理念は「計算不可能な贈与的な」理念なのである。

  • 「正義とは何か」について考えたくて読んでみました。各名著の紹介と歴史的変遷が綴られていて大変参考になりました。
    デリダは、いつか原著を読んでみたいと思います。

全18件中 1 - 10件を表示

中山元の作品

正義論の名著 (ちくま新書)を本棚に「いま読んでる」で登録しているひと

正義論の名著 (ちくま新書)の作品紹介

西洋思想史上、「正義」について考えることは、「道徳」「倫理」「政治」などの問題とかかわりあいながら、つねにひとつの軸となってきた。「公正さとは何か」「正しさの基準はどこにあるのか」などなど、今日でも喫緊の課題として論じられるこれらについて、大思想家たちの「名著」は大きなヒントと刺激を与えてくれることだろう。プラトン、アリストテレスから、ホッブズ、ロック、ベンサム、ニーチェ、さらにはロールズ、デリダ、サンデル…。この一冊で主要な思想のエッセンスがわかる。

正義論の名著 (ちくま新書)のKindle版

ツイートする