- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480067128
感想・レビュー・書評
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脱毛・薄毛・禿頭周辺のあれこれである。
タイトルはなかなかのインパクトだが、中身は淡々とおとなしめで、さらさらっと読める。「劣等感の社会史」という副題から、広く身体的コンプレックス全体に通じていく話なのかと思ったのだが、そこまで突っ込んだ印象はない。
見返しの内容紹介を要約すると、古来は聡明さや頼りがいの象徴でさえあった薄毛・禿頭がコンプレックスの対象となった背景を探る、ということなのだが、変遷の理由にまではたどり着かない(あるいはそこは目的地ではなかったということなのかもしれないが)。
新聞・雑誌の広告や記事から、時代ごとに禿頭がどのように捉えられ、そしてどのような方針の商品が売り出されてきたかを追っており、それはそれで事実としては興味深い。時代の空気も感じさせる。
戦略的には隠すか、抜けるのを防ぐか、生やすか、あたりに大別されるのだろうが、脱毛予防・養毛に関しては、少なくとも本書に紹介されているものでは、まだおまじない+αのものが大半である印象だ。
これはこれで、おそらくかなりお金を掛けて研究開発努力がされているはずなので、科学的な視点からの本が出るのなら興味深い話がありそうではある。
先に挙げた3つのほか、というか、3つを超える最強のものは、おそらく「気にしない」だろう。「気にしない」のさらに上を行く、「笑い飛ばす」というのもある。
また一方で、近年ではファッションとしての一面も大きくなっている。
ホルモンとの関係(これは当然あるのだろうが)から、性欲と結びつけられることもある。感覚的にはそうなのであろうけれども、感覚だけで根拠が薄いよなぁ・・・。この他にも、例えば、考えすぎるとハゲる、だから頭のいい人はハゲるのだ、といった、感覚的にはそうかもしれないけど、根拠あるのか?と言いたくなる話(いや、著者がそう主張しているわけではないのだが)が多く、「うーむむむ、なんだかなぁ、それは」と思いつつ読む。
でもそういった感覚的なところを振り飛ばせないところが、そもそも揶揄の源になっているのだろうか・・・?
身体的コンプレックスのややこしいところは、傍目からよくわかる一方で、本人の努力でどうにもならない部分があるから、なのかなぁ・・・?
「むーん・・・?」というもやもやはすっきりはしないが、へぇぇと思うネタがあれこれあって、なにがしか、考える材料をくれる本ではある。
*センシティブな主題なので、もしもご不快の向きがあればご容赦願いたい。
*『犬の伊勢参り』に、僧形のものは(僧侶でなくても)参拝が許されなかった時期があったという話が出ていたが、本書でも触れられていた(仏教がどうこうというよりも、僧侶が葬礼と結びつけられていたためであるようだ)。禁忌もいろいろだ。
*滋賀に琵琶法師・蝉丸(百人一首の「これやこの」を詠んだ人)を祀る神社がある。この分社が東京・王子にあるのだが、ここに「毛塚」というのがあるという。逆毛に悩む姉のために、蝉丸が鬘を作らせたという伝承があって、蝉丸は「髪の祖神」と呼ばれ、理容・美容・かつらの業界関係者の信仰を集めているのだそうだ。本書で初めて知りました。ちなみに蝉丸姉弟の話は能にもなっているらしい。
参考URL: All About「王子で見つけた髪とカツラの神社」
http://allabout.co.jp/gm/gc/77030/
参考URL: The 能 com「演目事典:蝉丸」
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_057.html詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
うーん、ハゲの歴史はわかるけど。
で、どうする?ってのがまったくないな -
ハゲの歴史
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「ハゲ」ということが社会の中でどう扱われてきたか。
その印象、治療法、原因究明の歴史など。
頭がいい人はハゲるだとかなんとかいうポジティブな?議論もあったらしいが、やっぱりどこかコンプレックスを抱き続けてきたのだなー。 -
●:引用
●つまり知と物質と感情は、どれかがほかの二つの決定的な要因として作用しない。どれもがほかの二つに影響を与えている。そしてそれによって、人間は完全に理性的な主体というわけでないことが分かってくる。人びとの不安感や劣等感は、個人の内面的な問題であるばかりではなく、養毛剤やかつらといった人間ならざるものとの関わりのなかで刺激され、形作られるものだといえる。どれもが決定的な要因とならないということは、最終的にどのような結果になるかも予想できないよいうことだ。脱毛に対する説明、薄毛に関する商品、そして感情は常に変化してきた。劣等感や不安感の強度もつねに変化してきた。そのような決定不可能性は、人間の身体がそもそも決定不可能であることと関係している。身体という空間に何が起き、それがどのように変化していくのか、予想することは難しい。しかし身体は抽象物ではなく、具体的な物体であるため、そこで生じた変化は見て分かるし、違和感も与える。それは身体という空間をめぐる地理的な問題である(図39)
●もちろん、最近では禿げていることを隠さない男性も増えてきた。坊主頭もファッションの一つと考える人が増えてきたのだろう。(略)「ちょい悪オヤジ」や「コヤジ」を自称するなら、カツラなどつけてはならないだろう。とはいえ、雑誌ではスキンケアとしてスカルプ・ケアも取り上げているが。アデランスの聴き取りでも、最近はハゲていることをファッションとみなす風潮が、男性用カツラ売上の現象の一因と考えていた。それでもハゲ完治の薬が開発されたら、みんな飛びつくだろう。10年後、毛髪をめぐる状況がどうなっているのか楽しみではある。そして、個人的には新薬や新療法が開発されフサフサになることを切に願っている。ハゲなんて気にすることない。かっこいいじゃないかと頭で分かっていても、改善されると聞くと期待感が刺激される。身体空間は、理性に受動的に支配されない。その形態は、不安感や期待を作り出したり誘発されたりする舞台なのである。 -
ハゲに何故悩むのか、ハゲを中心に肉体コンプレックスと歴史や消費社会との関係を追う。禿げようが禿げなかろうが生活にさしたる影響はないはずなのに、見た目の不平等性が社会に与える影響はあまりにも大きいと再確認。
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著者も、高校生のときから薄毛に悩んでいた、とありました。
しかし、巻末の著者近影を見ると、そうでもないので、この本の調査過程で、自らを実験台として最新のカツラを装着したのか、と思いました。 -
ハゲに劣等感を感じるということがどう社会的に構築されて来たのか、という話だろうと思って読んでいたんですが、そういう話は実はあんまり無くて、育毛剤とかカツラの歴史の記述が膨大かつ細か過ぎてちょっとうんざり(笑)。調べたものは書きたいのはわかるけど、半分ぐらいの分量でまとめてくれたらもうちょっと読み易かった。
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禿げても生活に支障はない。
しかし自分自身が醜いと思う。
男性用のカツラより女性用が売れている。
根拠の乏しい養毛法は戦前からあった。